ZIPANG-10 TOKIO 2020  〜発酵文明の心~ 3   ーNovel HAKKO Civilization For Humanityー 【寄稿文】一舟・光秀


   「人にとって最も単純で 最も難しい心」


伊賀の里の豪快な白木蓮をどうぞ


先日 希少な太平洋戦争の遺跡に、桜の花散る時に出会った。
それは忘れかけていた、本当の意味で人の幸せを思う心だ。


美しき伝統建築と集落を景観デザイナーとして各地に訪ねる。今や世界中の人の心が物質文明の行き詰まりに気づき、共に衰えていく時。それでも千年の伝統が存続している、心の片鱗の存在を見ることが出来る。


ここで提示する「掩体壕」(えんたいごう)は敵の攻撃から戦闘機や兵員を守るために昭和17年頃に造られた格納庫や壕のことで、米軍の爆撃から戦闘機を守る掩体壕は 全国各地にまだわずかだが破壊をまぬがれ静かに存在している。


画像は南国市 龍馬空港周辺にある7体の掩体群の一部である。


今 郊外の農地に平和な姿が何かを語っている


今 田植えが終わったばかり 格納庫正面入口の姿 なんとも平和?


格納庫の内部 壮絶な当時の人の 努力の痕跡を見る思い


滑走路も今はなく 農家の甍と水面と掩体壕と 四国の山脈が美しい


国も私たちも 未来を正しく見つめ 平和へのヴィジョンを持とう

特に列島日本人は、世界的に見て最も危機感がなく、戦後80年、戦勝国に従い、のんびり安易に生きている。 少しの反省を。


いずれにしても先の戦火の中で、当時労働に駆り出された女性や中学生や韓国の労働者の方々の苦労の跡であり、筆者の誕生の頃の、全国の空港や変電所などの重要施設を守るトーチカや、戦闘機の格納庫を見て鎮痛な思いがある。


今も同様に、人は巨大な表層の時流に流され、欲望の物質文明の進化を享受するが、新たな発明発見とその最新技術は、AIも、兵器もあっという間にガラ系になり、戦場で命と共に在庫整理され赤錆て、世界の真面目な人たちの命や税金は、何百兆円マーケットの、新製品製造販売促進見本市で消えていく。


「物質文明のいくへ 」 ー 夢ー

地球の資源枯渇はすでに、月や火星の資源争奪競争に入っている

月の、かぐや姫やうさぎも、火星人も戸惑い、ご迷惑なことだろう

突然 午睡の中 ドビッシーの月の光が 囁きはじめた 

3度リピート・・・ そして アラベスク・・・ 夢・・・

そうだ アラビアコーヒーを・・・・  いただこうか

でも誰もが望む幸せを願い、平和を叫ぶとは、何なのか

それには、人の心の肥やしになる、風土伝統自然の恵みと、他を思いやる心を大切に、
それ以外に何もない?

果てしない欲望の物質文明と、生命体に相応しい人の心の発酵文明の融和を。


筆者は二年ほど前より、国連にも宗教にも戦争はとめられない、
争いの絶えない欲望の物質文明の限界を思い、生命体である人に相応しい、
生命の活動の原点とも言える発酵現象に注目し、食の発酵を超えて、人に関わるあらゆることに、2500年前の「過ぎたるは及ばざる」と言った聖人の名言通りに、自然の摂理に近い発酵文明を索して来た。


「人の命と自然を大切に生きる人をこそ尊敬し・英雄と呼ぼう」

ところで今、人の命と過剰な食物連鎖を諌め、自然界を真面目に守る時である。


相変わらず他国を侵略した者を、女子供まで皆殺しをした者を、英雄とする傾向が未だ、マスコミにもドラマにも、依然として娯楽にも多くある。


侵攻され蹂躙された人たちのことを、祖先をも全く気にも留めない英雄礼賛は、この現代にあって今もなお根強くあり、いじめや殺人を推奨する温床であり、子供達の成長と平和の願いにも反する。


ドラマもマスコミも、あまりにも旧態依然である。
明治期以降に、ロシアも中国も朝鮮半島も東南アジア諸国をも侵攻蹂躙したことも、太平洋戦争で、列島日本が敗戦で筆舌に尽くせないほど悲惨な経験した国で、80年経った今でも、非支配国であることをも忘れては、本当の幸せの未来は考えられないだろう。


宣戦布告一月前に生まれ、幼児期に戦火を経験し、ゼロからの出発の列島日本を見て来た
83年を、今を未来を大切に・・・。



【寄稿文】 一舟・光秀(林 英光)



環境ディレクター
愛知県立芸術大学名誉教授
東京藝術大学卒業


※画像並びに図表等は著作権の問題から、ダウンロード等は必ず許可を必要と致します。

発行元責任者 鎹八咫烏(ZIPANG TOKIO 2020 編集局)



アーカイブ リンク記事をご覧ください。


すべての始まりの地 鹿島神宮


鹿島神宮 大鳥居


鹿島神宮は、古文書では神武天皇元年(紀元前660年)の創建と伝えられている。古来より
「神宮」と呼ばれていたのは、伊勢神宮、香取神宮、鹿島神宮の三社のみであった。


由緒と歴史の長さでは別格の存在で、日本全国に約600社ある鹿島神社の総本社である。
旅立つ際に道中の無事を鹿島神宮で祈願する「鹿島立ち」の文化も育まれた。


神々の通り道の東門

鹿島神宮は、皇居ー明治神宮ー富士山ー伊勢神宮ー吉野山ー高野山ー剣山ー高千穂へと一直線に続く聖地であり「神々の通り道の東門」にあたる。


鹿島神宮について

鹿島神宮は、日本建国・武道の神様である「武甕槌大神」を御祭神とする、神武天皇元年創建の由緒ある神社である。


御由緒・御祭神

鹿島神宮の御祭神「武甕槌大神」は、神代の昔、天照大御神の命を受けて香取神宮の御祭神である経津主大神と共に出雲の国に天降り、大国主命と話し合って国譲りの交渉を成就し、日本の建国に挺身されました。


鹿島神宮御創建の歴史は初代神武天皇の御代にさかのぼる。神武天皇はその御東征の半ばにおいて思わぬ窮地に陥られましたが、武甕槌大神の「韴霊剣」の神威により救われた。


この神恩に感謝された天皇は御即位の年、皇紀元年に大神をこの地に勅祭されたと伝えられている。その後、古くは東国遠征の拠点として重要な祭祀が行われ、やがて奈良、平安の頃には国の守護神として篤く信仰されるようになり、また奉幣使が頻繁に派遣された。


さらに、20年に一度社殿を建て替える造営遷宮も行われた。そして中世~近世になると、源頼朝、徳川家康など武将の尊崇を集め、武神として仰がれるようになった。


現在の社殿は徳川二代将軍の秀忠により、また奥宮は徳川家康、楼門は水戸初代藩主徳川頼房により奉納されたもので、いずれも重要文化財に指定されている。


鹿島神宮の例祭は毎年9月1日に行われるが、うち6年に一度は天皇陛下の御使である勅使が派遣される勅祭となり、さらにそのうち2回に1回、すなわち12年に一度の午年には、水上の一大祭典である御船祭も斎行される。


(詳細・画像は下記のURLからご覧ください。)


ZIPANG TOKIO 2020「すべての始まりの地 『鹿島神宮』紀元前660年の創建(前編)」
https://tokyo2020-summer.themedia.jp/posts/2468656


ZIPANG TOKIO 2020「鹿島神宮 『御船祭』12年に一度の午年に 水上の一大祭典 斎行(後編)」
https://tokyo2020-summer.themedia.jp/posts/2475332



伊賀一宮 敢國神社
1300年以上前『四道将軍』から始まり・・・


敢國神社の略史

敢國神社は今から1300年以上前に創建されました。くわしくは、7世紀の中期658年に創建と敢國神社には伝わっています。創建当時は大彦命(おおひこみこと)・少彦名命(すくなひこなのみこと)の二神で敢國神社が創建されました。


創建以前のお話になりますが、当社の主神である大彦命は、350年頃第8代孝元天皇の長子として大和の国に生まれ、大和朝廷創建期の武人と云われています。


又、その子建沼河別命(たけぬなかわわけのみこと)と共に北陸・東海を征討する役目を負われ「四道将軍」のお一人として第10代崇神(すじん)天皇の詔により日本の東目の攻略を果たされた後、大彦命率いる一族は伊賀の国にお住みになり、その子孫は伊賀の国中広がっていきました。


伊賀の国の阿拝(あえ)郡(現在の阿山郡は阿拝郡と山田郡が合併してできたもの)を中心に居住した為、阿拝氏を名乗るようになり、後に敢・阿閉・阿部・安倍と呼ばれるようになりました。「あえ」とは、「あべ」の原音であり、あべ姓の総祖神でもあると共に伊賀にお住まいの方の祖神でもあります。


又、古代伊賀地方には外来民族である秦(はた)族が伊賀地方に住んでおり彼らが信仰する神が当社の配神(はいしん)である少彦名命でありました。当時は現在の南宮山山頂付近にお祀りしていましたが、神社創建時には南宮山より現在地に遷してお祀りしています。このことから伊賀にお住みの方々はこの二神の混血の民族であると言っても過言ではないでしょう。


創建後、南宮山の社殿が山の下に遷された跡地に新しい神社の創建に当たっては当時の伊賀の有力な人達の頭を悩ましたことであろうと思われます。結局、美濃の国(現在の岐阜県)南宮大社の御祭神である金山比咩命(かなやまひめのみこと)を旧少彦名命の跡地に勧請しました。おそらくその頃南宮山(なんぐうさん)という名がついたのではないかと推測されます。


その南宮山の金山比咩命が、敢國神社の本殿に合祀されたのは創建時より319年後の977年のことと記載されています。


ある日突然金山比咩命の社殿が激しい音をたててゆれ、止むと同時に社殿前の御神木の幹に、虫食いの跡が文字となって現れ「興阿倍久爾神同殿」と言う8文字の漢字でした。神官の報告を受けた当時の伊香守高則は、早々主家の藤原兼家に報告、直ちに御神慮に従って金山比咩命の遷座合祀が執り行われました。


こうして当神社は三神をもって敢國神社・敢國津大神(あえくにつおおかみ)となって
現在に至っております。


(詳細・画像は下記のURLからご覧ください。)


ZIPANG TOKIO 2020「伊賀一宮 敢國神社 1300年以上前『四道将軍』から始まり 観阿弥~服部半蔵~松尾芭蕉 そして神の社は未来を開く」
https://tokyo2020-summer.themedia.jp/posts/2331520



吉備文化の基礎を造った四道将軍


吉備津神社とは

吉備津神社は岡山県岡山市にあり、大吉備津彦大神を主祭神とする山陽道屈指の大社です。 大吉備津彦大神は、記紀によれば、崇神朝四道将軍の随一として、この地方の賊徒を平定して平和と秩序を築き、今日の吉備文化の基礎を造られたとされています。


古来より、吉備国開拓の大祖神として尊崇され、吾国唯一の様式にして日本建築の傑作「吉備津造り(比翼入母屋造)」の勇壮な社殿、釜の鳴る音で吉凶を占う鳴釜の神事、また桃太郎伝説のモデルなどで知られています。


縁起

吉備津神社は大吉備津彦命を主神とし、その異母弟の若日子建吉備津日子命と、その子吉備武彦命(キビタケヒコノミコト)等、一族の神々を合わせ祀っております。大吉備津彦命は第七代孝霊天皇の皇子にあたられ、もとのお名前を五十狭芹彦命(イサセリヒコミコト)と申し上げ、武勇の誉れ高いお方であられます。


一説によりますと、第十代崇神天皇の御代、災害もなくなり天下もようやく治まってまいりましたが、都から遠く離れた地方には未だ朝廷に従わない者が多数おりました。そこで天皇即位十年に皇族の中から四人の将軍を選び、印綬を授け各地方に派遣し討伐することとなりました。


すなはち、北陸道には大彦命(オオヒコノミコト)、東海道には武渟別命(タケヌナワケノミコト)、丹波には丹波道主命(タニハニミチヌシノミコト)、そして西道のちの山陽道には大吉備津彦命が派遣されることとなりました。


吉備津彦命と異母弟若日子建吉備津彦命は兵を率いて山陽道を進軍し、まず播磨国に達してここを「吉備の道口」と定められ加古川の畔で神祭を行っております。


その場所と思われるところに日岡神社が現存し天伊佐々比古命がお祀りされています。 こうして命は吉備国に入り、人々を苦しめ鬼と恐れられていた温羅一族を苦戦の末退治することができ、この地方に平和と秩序をもたらしたと云われております。


吉備津神社がいつごろ誰によって造営されたのかについては、文献もなく確かなことはわかりませんが、ただ言い伝えによると、一説に吉備津彦命から五代目の孫にあたる加夜臣奈留美命(カヤオミナルミ)という人が祖神として吉備津彦命をお祀りしたのが起源であると云われております。


また一説に若建日子吉備津彦命から三代目の孫と云われる稲速別命(イナハヤワケ)・御友別命・鴨別命(カモノワケ)が始めて社殿を造りお祀りしたとも云われます。さらに一説に仁徳天皇が吉備海部直の娘である黒媛を慕ってこの地に行幸したときに、吉備津彦の功績を聞き称えるために社殿を創建してお祀りしたのが起源とも伝わっております。


(詳細・画像は下記のURLからご覧ください。)


ZIPANG TOKIO 2020「国宝 吉備津神社は日本建築の傑作 全国唯一の建築様式『吉備津造り(比翼入母屋造)』一見の価値あり!吉備文化の基礎を造った四道将軍が祀られている」
https://tokyo2020-summer.themedia.jp/posts/2386157



魏志倭人伝 ~史書への登場~ 対馬


対馬がはじめて歴史書に登場するのは3世紀頃、中国の三国志時代の「魏志倭人伝」(ぎしわじんでん)です。


「始めて一海を渡ること千余里、對馬(対馬)国に至る。 其の大官は卑狗、副は卑奴母離と曰う。居る所絶島、方四百余里可。土地は山険しく深林多く、路は禽鹿の径の如し。千余戸有り。良田無く、海の物を食べ自活、船に乗りて南北に市糴(=交易)す。」


断崖絶壁が多く、山が深く、道は獣道のように細い。また、水田が少なく、海産物を食し、朝鮮半島や大陸と日本本土を小船で行き来して交易を行っていた・・・。


この記述は、当時の対馬の状態を簡潔・的確に描写しています。現在でも対馬の島土の約89%は森に覆われており、農耕地は少なく、戦後に道路網が整備されるまで集落間の移動に船を用いることも多かったようです。

(写真:豊玉町烏帽子岳から浅茅湾を臨む)


白村江の戦い ~金田城と防人~

古代の対馬に緊張状態をもたらしたのが、663年の白村江(はくそんこう、はくすきのえ)の戦い。


当時の朝鮮半島には高句麗(こうくり)・新羅(しらぎ)・百済(くだら)の三国が分立していましたが、唐・新羅の連合軍により日本と同盟関係にあった百済が滅ぼされ、百済再興のために大和朝廷が送った援軍も白村江で大敗してしまいます。


大和朝廷は朝鮮半島からの撤退を余儀なくされ、防衛のためにのろし台や防人(さきもり)が配置され、城が築かれました。美津島町箕形の金田城(かねだじょう、かねたのき。667年)には日本最古級の朝鮮式山城の遺構がよく残っており、国の特別史跡に指定されています。


現在、金田城には登山道が整備され、山頂からは古代の防人たちも見たであろう朝鮮半島方面の水平線を臨むことができ、歴史のロマンに思いを馳せることができるトレッキングコースとして人気です。

(写真:美津島町金田城一ノ吉戸の城壁)


阿比留氏と宗氏 ~中世対馬の有力者~

現在の対馬でもっとも多い姓は「阿比留」(あびる)です。本土の人は「あひる」と読んでしまうこの姓のルーツは、平安時代まで遡ることができます。


阿比留一族は交易などの実権を握って対馬で大きな勢力を持っていたようですが、鎌倉時代になると大宰府との関係が悪化し、惟宗(これむね)氏によって支配権を奪われます。惟宗氏はやがて宗(そう)氏を名乗り、鎌倉時代から江戸幕末まで600年続く対馬島主・対馬藩主の家系となりました。

(写真:戦装束)


伝説では、大宰府の命を受けた惟宗重尚(これむねしげひさ)以下200騎が厳原町豆酘(つつ)に上陸し、阿比留氏と死闘を繰り広げ、美津島町鶏知(けち)で阿比留平太郎国時を討ち取り、上対馬町舟志(しゅうし)で阿比留禅佑坊を敗死させ、対馬の支配者となった、とされています。


惟宗重尚は伝説上の人物であり、その武勇伝も後の世に生み出されたもののようですが、
宗氏による阿比留氏追討の伝説は対馬では長く信じられてきました。


宗氏は平氏の血をひくと自称しており、また、源平合戦で壇ノ浦に沈んだ安徳帝の子孫であるとも称し、厳原町久根田舎には安徳天皇の参考陵墓があります。


宗姓を名乗ることができたのは島主・藩主だけであったため、現在島内に宗姓の人はいません。ちなみに阿比留氏は、上総国安蒜(あびる)庄の出身であるとか、蘇我氏の末裔であると称しており、対馬で最も多い姓となりました。

源平合戦「屋島壇ノ浦図」屏風(香川県立ミュージアム所蔵)


元寇 ~国境の島を襲った悲劇~


(詳細・画像は下記のURLからご覧ください。)


ZIPANG TOKIO 2020「日本の原風景 対馬の歴史~初めて訪ねた人にさえ懐かしさを感じさせる、その人情と風景とは~(第一話)」
https://tokyo2020-summer.themedia.jp/posts/3172259



対馬 鉱山の神 モロクロガミ

【日本神話】

鉱山の神は金山彦・金山姫ですが、イザナギの嘔吐物から誕生したと伝わるほか、ほとんど活躍は描かれません。


【対馬の伝承・異伝】

対馬は日本で最初に銀が発掘された地(日本書紀、674年)で、鉱脈の分布と関連しているのか、主に厳原町の西部に鉱山の神を祭る神社があり、樫根には古代鉱山の坑道が残っています。 モロクロガミ(諸黒神)は対馬固有の神で、坑道の漆黒の闇を意味する、あるいは矢立山の別称・室黒岳に由来するとされています。


「異国からやってきた神」という伝承もあり、朝鮮半島系の鉱山の技術者が安全祈願のために祭ったか、あるいは坑道の闇で誕生した神なのかもしれません。


奈良時代から平安時代にかけて対馬で産出する銀は大宰府に納められましたが、地下を掘り進んで鉱石を採掘する作業は、落盤や出水、酸欠など常に危険と隣りあわせで、落盤事故なども記録されています。江戸時代には対馬藩により銀山の開発が行われ、朝鮮貿易の代価として藩の財政を支えました。


阿連(あれ)の鉱山跡


(詳細・画像は下記のURLからご覧ください。)


ZIPANG-2 TOKIO 2020  ~心癒される阿連の風景~ 「 鉱山の神『モロクロガミ(諸黒神)⁉』神話と伝承と豊かな自然に恵まれた、心のふるさと阿連(あれ)【寄稿文その9】 西 護」
https://tokyo2020-2.themedia.jp/posts/4991314/



黄金の国ジパング『ケセン』

奥州藤原氏と伝統芸能「鬼剣舞」


黄金の国ケセンとは

平泉黄金文化を支えた金の産出地としては、本吉、東磐井、気仙、江刺、遠野が知られています。伊達藩時代の気仙四大金山は「玉山、雪沢、今出山、坂本沢」で苦しい藩財政を支えました。中でも玉山金山は金の産出量の多さから「玉千軒」「千人坑」などの言葉を生み、『東方見聞録』のジパングに記された金山もここを指すとの説もあります。


世界遺産

世界遺産登録年:2011年

平泉―仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群

平泉は、11世紀~12世紀の日本列島北部領域において、仏教に基づく理想世界の実現を目指して造営された政治・行政上の拠点です。


その拠点に存在する4つの庭園は、奥州藤原氏により、現世における仏国土(浄土)の象徴的な表現、つまり池泉・樹林・金鶏山頂と関連して仏堂を周到に配置することにより実体化した理想郷の光景として造営されました。


4つの庭園のうち3つは、神聖な山である「金鶏山」に焦点を合わせており、浄土思想の理想と、庭園・水・周辺景観の結びつきに関する日本古来の概念との融合を例証しています。また、浄土庭園のうち2つは、発掘調査により発見された多くの詳細事項に基づき復元されたものであり、他の2つは現在も地下に埋蔵されたまま残されています。


さらに、重厚に金箔を貼った中尊寺の仏堂は、12世紀から残る唯一のものであり、
奥州藤原氏の巨大な富を反映しています。


宮沢賢治も感銘を受けた 鬼剣舞【おにけんばい】

岩手県から宮城県にかけて分布する剣舞【けんばい】は東北地方の代表的な民俗芸能の一つであり、なかでも忿怒【ふんぬ】の形相の仮面を掛けて踊る剣舞は、鬼剣舞【おにけんばい】の名称でよく知られています。


ほかに阿弥陀堂の作り物を載せた大きな笠をかぶった笠振りが登場する大念仏などいくつかの形態のものがあります。


これは主として盆に新仏の家や墓、寺などで踊られてきたものであり、念仏歌とともに踊られる亡魂鎮送を目的とした念仏踊の一種です。


また踊り手が鬼と形容される異相の態をしたり、極楽浄土を眼前に見せるような作り物が登場するなど独特の形に意匠を凝らした風流【ふりゆう】の芸能であります。

今回取り上げるのは、岩手県の中・南部に分布する鬼剣舞です。


(詳細・画像は下記のURLからご覧ください。)


ZIPANG-4 TOKIO 2020 黄金の国ジパング『ケセン』(その13)宮沢賢治が愛した~種山ヶ原と人首町~Ⅱ
https://tokyo2020-4.themedia.jp/posts/9302948/



鎌倉時代に鶴岡八幡宮寺の信州唯一の神料地 遠山郷

国指定重要無形民族文化財

遠山の霜月祭り


遠山の霜月祭りは湯立神楽の古い形態を今も伝承しています。
年も押し迫った十二月、谷の各所からは神楽歌が聞こえてきます。


遠山の霜月祭りのおこり

この祭りがいつ起こったのか、地元の伝承では平安時代の終わりとも鎌倉時代ともいわれますが、定かではありません。

しかし、霜月祭りをおこなう神社の多くが八幡神社であることからすれば、この遠山郷(江儀遠山庄)が 鎌倉時代に鶴岡八幡宮寺(つるがおかはちまんぐうじ)の信州唯一の神料地(しんりょうち)であった歴史と無関係ではなさそうです。


国の重要無形民俗文化財に指定されている遠山の霜月祭りは、上村・南信濃の各神社で湯立神楽が奉納されます。

社殿の中央に設えた釜の上には神座が飾られ、湯を煮えたぎらせて神々に捧げます。

祭りのクライマックスを迎えると天狗などの面が登場し、煮えたぎる湯を素手ではねかけます。 ふりかけられた禊ぎの湯によって、一年の邪悪を払い新しい魂をもらい新たな年を迎えます。


霜月祭りの現場で、必ずささやかれる「噂」があります。
「この祭りがね、あの『千と千尋の神隠し』の原点なんだって・・・」


(詳細・画像は下記のURLからご覧ください。)


ZIPANG TOKIO 2020「中郷の正八幡宮における国指定重要無形民族文化財『千と千尋の神隠し』の原点 遠山の霜月祭り(第二話)」
https://tokyo2020-summer.themedia.jp/posts/3262996



武田信玄の隠し湯「蓼科 親湯温泉」と「棒道」

信玄の棒道(北杜市)とは


風林火山

疾(はや)きこと風の如く

徐(しず)かなること林の如く

侵掠(しんりゃく)すること火の如く

動(うご)かざること山の如し


北杜(ほくと)市について

山梨県の北西部に位置する北杜市は、北は八ヶ岳連峰、南西は甲斐駒ヶ岳から連なる南アルプス、東は茅ヶ岳、北東は瑞牆山などの日本を代表する美しい山岳景観に囲まれています。また、清らかで豊富な水資源、高原性の気候、日本で一番長い日照時間、歴史的な町並みや滞在型温泉地、高原リゾート地など、豊かな資源に恵まれた地域です。 


平成16年11月1日に、峡北(キョウホク)地域の明野村、須玉町、高根町、長坂町、大泉村、白州町、武川村の7町村が合併し、人口4万4千人の市として「北杜市」が誕生しました。その後、平成18年3月15日に小淵沢町と合併し人口5万人の新「北杜市」が新たにスタートしました。

(写真:信玄棒道 北杜市小淵沢町~長坂町)3点


今に残る、武田信玄の軍用路「棒道(ぼうみち)」

棒道は武田信玄が信州攻略の為に造った軍用道路と伝えられ、棒のようにまっすぐのびていることからこう呼ばれています。


沿道には「西国三十三所」「坂東三十三所」の霊場を模して江戸時代に安置された36体ほどの石仏(観音様)が設置され、今も豊かな表情を湛えてたたずんでいます。現在は自然散策路になっており、「美しい日本の歩きたくなるみち500選」にも選定されています。

(写真:石仏(観音様))2点


棒道の観音様一覧


(詳細・画像は下記のURLからご覧ください。)


ZIPANG-4 TOKIO 2020武田信玄の棒道と蓼科 親湯温泉「2026年 蓼科 親湯温泉100周年に向けて!」(その4)
https://tokyo2020-4.themedia.jp/posts/7884955



日本遺産 甲賀流忍者


甲賀忍者の歴史

甲賀忍者がその存在を大きく認められたのは、何といっても長享元年(1487)、「鈎(まがり)の陣」の戦いである。


当時、幕府の命令に背いた佐々木六角氏の討伐に、足利九代将軍義尚が六角氏を追って甲賀城を攻めた。六角氏は姿を隠し、甲賀山中でのゲリラ戦となったが、足利将軍の権威をかけたこの戦いは将軍義尚が鈎の陣屋で延徳元年(1489)に死ぬまでの約3年間続き、逆に甲賀武士(甲賀忍者軍団)の活躍ぶりを全国に知らしめる結果となったのである。

(写真:甲賀流忍術屋敷望月家の祖甲賀三郎兼家を祭る社殿)


その5年後の明応元年(1492)にも、将軍職を継いだ足利義種が甲賀総攻撃を命じるが、佐々木六角氏は甲賀忍者に護られ、甲賀山中から伊勢にまで落ち延びた。このように、佐々木氏にとって、甲賀忍者との結びつきはなくてはならないものとなっていた。


ところが永禄11年(1568)、織田信長からの近江路案内役の依頼を断った佐々木氏は、信長に居城・支城をことごとく攻略されてしまう。そして天正9年(1581)、信長は安土城に4万6千の大軍を集め、全滅作戦「天正伊賀の乱」を決行したのである。


こうして近江の雄、佐々木氏の時代は去っていったのだが、この時、甲賀忍者集団が積極的に佐々木氏を支援しなかったのが大きな敗因でもあった。


実はこの裏では、徳川家康が動いていた。家康は早くから忍者の実力に目を付け、永禄元年(1558)には甲賀・伊賀の忍者を合わせて270名雇い入れていたという。信長の佐々木氏攻めに甲賀忍者が動かなかったのは、佐々木氏に加担しないことを条件に、家康が甲賀攻めを回避したからだといわれている。


もともと甲賀忍者の生き方は、決して攻撃的なものではない。あくまでも自分たちの生活を守るために武力を行使してきた。今までは近江の一大勢力であった佐々木氏と手を結び、協力することが必要であると判断してきたが、佐々木氏の衰退を見た忍者たちは、信長寄りの姿勢を固めていったといえる。


信長の力の前に甲賀忍者は屈したが、信長には内心は反発していたようだ。その実力・手腕を認めながらも、強引なやり方には反感を持っていたし、また信長も甲賀忍者には警戒の目を向けていた。 


「天正伊賀の乱」からわずか8ヶ月後の天正10年(1582)、本能寺の変が起こる。
信長の家臣・明智光秀が、京都四条の本能寺において、信長の不意を襲って自害に追い込んだのである。この時、信長の招きで都見物に来ていた家康は旅先でこの大事件を聞き、一刻も早く本拠三河に帰ろうとしたが光秀勢に帰路を阻まれ窮地に追い込まれていた。


しかし甲賀忍者の好意的な援護により、宇治田原から信楽へ入り、甲賀53家の1人・多羅尾家で一泊した。その先は、服部半蔵ら伊賀忍者等に護られ、伊賀から加太(かぶと)越えし伊勢の白子浜に着き、そこから海路で三河まで逃れることができた。この「伊賀越え」の功績により、多羅尾氏は後に代官に取り立てられ、伊賀忍者たちも尾張の鳴海に呼ばれ、伊賀二百人組が組織された。


このように先の見通しを早くから察知して、天下の成り行きを十分把握していたのが忍者の活躍の特徴である。信長・秀吉・家康、この3人の実力者の内、時の流れの一歩先を見越して、最後に天下を取るのは三河の家康であろうと見通していたかのように思われる。
また戦国大名の中では、家康が一番見事に忍者を活用していたといえよう。


(詳細・画像は下記のURLからご覧ください。)


ZIPANG TOKIO 2020「日本遺産甲賀流忍者 甲賀五十三家筆頭は、平安時代に甲賀地方を治めた九曜星を家紋とする氏族」
https://tokyo2020-summer.themedia.jp/posts/2333938



この国の原点の風景が息づく 関ケ原古戦場


関ケ原では、日本の歴史上避けて通れない大きな“天下分け目の戦”が二度ありました。
672年、大海人皇子と大友皇子による、日本最大の内乱「壬申の乱」。


そして1600年、石田三成率いる西軍と徳川家康率いる東軍が東西を二分するこの地で繰り広げた、戦国最大ともいわれる天下分け目の戦「関ケ原の戦い」。

この二度の戦がなければ、今の日本はガラリと変わっていたかもしれません。


(詳細・画像は下記のURLからご覧ください。)


ZIPANG-2 TOKIO 2020~この国の原点の風景が息づく~「関ケ原古戦場グランドデザイン(その1)」
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【明治150年】~博物館 明治村~


明治村 旧帝国ホテル 夜間ライトアップは季節限定「フランク・ロイド・ライト設計」


日本政府の関連施策の前に、1965年(昭和40年)3月18日愛知県犬山市の入鹿池のほとりに開村した博物館 明治村を簡単に紹介しましょう。


徳川家康から265年続いた江戸時代。 1867年(慶応3年)、15代将軍 徳川慶喜が大政奉還を行ない、その翌年の1868年9月8日明治と改元され、後に人々が「古き良き時代」と称する、明治の扉が開かれました。


昭和以降に生まれた私たちにとって、身の回りで明治を感じることのできる物は、ほとんどありません。「古き良き時代」と言われている明治は、一体どんな時代だったのか?当時の建築や生活を通してきっと「博物館 明治村」が解き明かしてくれることでしょう。


博物館 明治村(犬山)で、明治の雰囲気をまるごと体感!

博物館 明治村(初代徳川夢声氏から数えて四代目の村長は阿川佐和子氏)は、明治期の建物を中心に「日本最古級の蒸気機関車」「京都市電」の体験乗車をはじめ、ハイカラ衣装体験、グルメなど「明治」を見て、触れて、味わう、他に類を見ない体験型の野外博物館です。


敷地面積約100万m² 南北約1100m 東西約620m

移築展示建造物件数67件(重要文化財11件、愛知県指定文化財1件)


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ZIPANG TOKIO 2020「政府一体となって【明治150年】関連施策を推進」~博物館 明治村~
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日本の精神文化と国土の美しさについて再発見 その1. 全世界との情報の共有化 その2. 偏り、格差のないローカリティの尊重! その3. 美しきものへの学び、尊敬、関心を高める教育と推進

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