令和6年度秋季展 熊本大学永青文庫研究センター設立15周年記念
信長の手紙 ―珠玉の60通大公開―
The World of Letters from Oda Nobunaga
開催期間:2024年10月5日(土)〜2024年12月1日(日)
永青文庫(東京都文京区目白台1-1-1)では、熊本大学永青文庫研究センターとの共催で、秋季展「信長の手紙 ―珠玉の60通大公開―」を2024年10月5日(土)から12月1日(日)まで開催いたします。
永青文庫には信長の手紙60通(うち59通が重要文化財)が所蔵されていますが、これほどの数が一か所にまとまって伝わる例は他にはありません。本展では、新発見文書を含む全60通の珠玉の文書を通して、室町幕府の滅亡から本能寺の変までに至る信長の激動の10年間を読み解き、真の信長像に迫ります。
重要文化財「織田信長自筆感状」 細川忠興宛 (天正5年〈1577〉)10月2日 永青文庫蔵
展覧会概要
戦国乱世を駆け抜けた武将・織田信長(1534~82)。永青文庫が所蔵する細川家伝来の信長の手紙59通は重要文化財に指定されていますが、これほどの数が一か所にまとまって伝わる例は他にはなく、直筆であることが確実な唯一の手紙をも含む点で、質量ともに突出したコレクションといえます。2022年には永青文庫で新たに信長の手紙が1通発見され、コレクションはあわせて60通となりました。
本展では、この全60通の珠玉の文書から、室町幕府の滅亡、一向一揆との死闘、長篠合戦、荒木村重謀反、明智光秀による本能寺の変など、信長の激動の10年間を、配下の細川藤孝(1534~1610)らの動向とともに丁寧に読み解きます。革新的、破天荒、残虐、超人といった現代の多くの人が抱く信長のイメージは真実なのか——。永青文庫の歴史資料から真の信長像に迫ります。
織田信長と細川家
織田信長と細川家は、厚い信頼関係で結ばれていました。永青文庫が所蔵する信長の手紙のほとんどは、細川家初代・藤孝(1534~1610)に宛てて出されたものです。藤孝は、はじめ15代将軍・足利義昭に仕えていましたが、義昭が信長と対立すると、やがて同い年の信長を主君として選び、戦の最前線で明智光秀らとともに信長を支え続けました。さらに藤孝の嫡男・忠興(1563~1645)も、15歳のときに大和の片岡城を攻略し、信長からその働きが認められて自筆の感状を受けるなどしています。また、忠興は信長の斡旋により光秀の娘・玉(ガラシャ)を妻として迎え、細川家と光秀は姻戚関係となりました。
細川藤孝(ふじたか、1534~1610)
「細川幽斎(藤孝)像」 伝田代等有筆 江戸時代(17世紀) 永青文庫蔵
肥後細川家初代(剃髪後は幽斎(ゆうさい)と名乗る)。室町将軍家に仕えた父・三淵晴員(みつぶちはるかず)と、代々漢文などをよくした清原家の出である母との間に生まれ、のちに細川家へ養子入りしました。足利義昭や織田信長に仕え、隠居後は豊臣秀吉、徳川家康らを支えました。『古今和歌集』の秘説「古今伝授」の継承者としても知られ、和歌、能、茶の湯など諸芸に通じていました。
細川忠興(ただおき、1563~1645)
細川藤孝と麝香(じゃこう、若狭国熊川城主・沼田光兼の娘)の嫡男。天正6年(1578)、信長の斡旋で明智光秀の娘・玉(ガラシャ)と結婚し、天正8年(1580)には藤孝とともに信長から丹後一国を与えられています。信長没後は家督を継いで秀吉の天下統一に協力。関ヶ原合戦では東軍として家康に仕え、その戦功により豊前一国、豊後国東郡・速水郡の一部が与えられました。茶の湯にも造詣が深く、千利休の高弟・利休七哲の一人に数えられています。
展覧会の見どころ
1.永青文庫の一大コレクション、信長の手紙を全て公開
「織田信長書状」 細川藤孝宛 (元亀3年〈1572〉)8月15日 永青文庫蔵
重要文化財「織田信長朱印状」 細川藤孝宛 (天正3年〈1575〉5月)21日 永青文庫蔵(熊本大学附属図書館寄託)
重要文化財「明智光秀覚条々」 細川藤孝・忠興宛(天正10年〈1582〉)6月9日
永青文庫蔵
永青文庫が所蔵する信長の手紙60通(うち59通が重要文化財)を展示替えしながら全て公開します。室町幕府の滅亡から信長が本能寺の変を迎えるまでの約10年間を追うことができる貴重な文書群です。永青文庫・細川家にしか残っていない唯一無二の手紙は必見です!
2.自筆の手紙は永青文庫の「織田信長自筆感状」のみ!
信長の手紙といっても、実は右筆(書記官)が筆をとるのが原則でした。そのなかで、信長本人がしたためたことが確実な手紙は、細川忠興に宛てた「織田信長自筆感状」1通のみ。信長の側近・堀秀政の添状に、信長自ら筆をとったと明記されています。「織田信長自筆感状」は永青文庫が所蔵する歴史資料のなかでも白眉の文書です。豪快な筆運びから、信長像をイメージしてみては!?
3.手紙を通して読み解く、リアルな日本史
60通の一通一通には、戦場等の緊迫した状況下でリアルタイムに交わされた、信長の肉声がつまっています。天下統一へ向かう信長の戦略と、それに従った細川家や部将たちの動きが手に取るようにわかります。本展では、そうした手紙を通して、室町幕府滅亡へとつながる信長と将軍義昭との対立、武田勢に大勝利した長篠合戦、信長を苦しめた度重なる家臣の裏切りなど、日本史の一大画期となる出来事を読み解きます。展示室にずらりと並ぶ手紙の迫力を感じながら、リアルな日本史を目の当たりにできます。
4.信長イメージが変わる?
手紙には「敵を根絶やしにしてやろう」「自分が負けないのは天の定めだ!」といった、現代の私たちがイメージする信長像と合致するかのような言葉が見られます。その一方、信長があくまで中世的な枠組みにとどまっていた保守的な姿も窺えます。信長は直臣大名領内の統治には原則不干渉で、むしろ家臣の明智光秀らによって、石高制に基づいた近世を先取りするような統治が行われ始めていました。
5.永青文庫・細川家に信長の手紙が集まったワケに注目
信長の手紙は800通ほど現存しているとされますが、そのうち60通が永青文庫に所在しています。なぜこれほどまでの数が一か所に伝わったのでしょうか。その理由は、のちに熊本を治めることになった細川家三代・忠利(1586~1641)の尽力にあることが近年の研究で明らかになっています。本展では、祖父藤孝の武功を証明すべく、「信長の感状が埋もれてしまうのは惜しい」と蒐集にかけた忠利の情熱にも注目します。
6.信長の手紙のほかにも
国宝「柏木菟螺鈿鞍」 鎌倉時代(13世紀) 永青文庫蔵
熊本県指定重要文化財「紅糸威腹巻」 伝細川藤孝所用 安土桃山時代(16世紀)
永青文庫蔵(熊本県立美術館寄託)
「蘭奢待」 永青文庫蔵
本展では、信長や藤孝・忠興ゆかりの品々も展示します。細川家伝来の香木「蘭奢待」や、藤孝が13代将軍足利義輝より拝領した「柏木菟螺鈿鞍」(国宝)、伝藤孝所用「紅糸威腹巻」(熊本県指定重要文化財)、細川ガラシャ作と伝わる雨具「露払」、藤孝(幽斎)筆『源氏物語』(熊本県指定重要文化財)など、信長の手紙とあわせてお楽しみください。
7.新発見文書を初公開!
永青文庫では、熊本大学永青文庫研究センターとともに、所蔵する歴史資料の調査を続けています。その調査の目的は、コレクションの全容を把握し、歴史的な位置づけを行うことにあります。2022~2023年にかけて、これまで存在が把握されていなかった重要な文書が立て続けに見つかりました。本展では、永青文庫60通目となる信長の手紙「織田信長書状」や「細川藤孝自筆書状」など、調査の過程で新たに発見された文書を初公開します。
新発見の「織田信長書状」についてはこちら
本展と関連のある主な出来事
永禄11年(1568)
10月 足利義昭・織田信長 幕府体制樹立。
元亀元年(1570)
9月 大坂本願寺が挙兵。
元亀3年(1572)
8月 義昭の家臣でありながら信長とも繋がる藤孝(広報画像:「織田信長書状」)。
元亀4年/天正元年(1573)
2月 将軍義昭と信長の対立が深刻に。
7月 室町幕府滅亡。
細川藤孝、信長から山城西岡の領知を保障される。以降、藤孝は信長に仕える。
天正2年(1574)
7~9月 信長、長島一向一揆を掃討。藤孝・明智光秀は摂津・河内の一向一揆勢と対戦。
天正3年(1575)
5月 信長・徳川家康連合軍、長篠合戦で武田勝頼軍に大勝。
信長、武田軍撃破を速報(広報画像:「織田信長朱印状」)。
8月 信長、越前の一向一揆を掃討。
天正5年(1577)
2月 信長・藤孝ら、紀伊の雑賀一揆平定のため出陣。
8月 松永久秀父子、信長に謀反し、大和信貴山城に籠城。
10月 藤孝・忠興父子ら、松永方の片岡城を攻略。信長、忠興の軍功を賞賛(広報画像:「織田信長自筆感状」)。
天正6年(1578)
8月 忠興、光秀娘・玉と結婚。
10月 荒木村重、信長に謀反。
天正7年(1579)
10月 光秀、丹波・丹後平定を信長に報告。
11月 信長、荒木村重の反乱を鎮圧。
天正8年(1580)
8月 信長、ついに大坂本願寺を屈服させ、天下布武を実現。藤孝・忠興、丹後入国。
天正9年(1581)
5月 羽柴秀吉、因幡鳥取城攻めを開始。
天正10年(1582)
3月 武田氏滅亡。
4月 信長、藤孝に備中出陣の準備を指示。詳細は光秀に伝えさせる。
6月2日 本能寺の変。光秀、信長に謀反。
6月9日 光秀、藤孝・忠興父子を味方に誘う手紙を送る(広報画像:「明智光秀覚条々」)も、拒否される。
6月13日 秀吉、山崎合戦で光秀を破る。
開催概要
会期
2024年10月5日(土)〜2024年12月1日(日)
※会期中、一部展示替えを行います。詳しい展示替え情報は永青文庫のホームページでお知らせいたします。
会場 永青文庫
住所 112-0015 東京都文京区目白台1-1-1 Google Map
時間
10:00〜16:30(最終入館時間 16:00)
※状況により、臨時に休館や開館時間の短縮を行う場合がございます。
※ご来館にあたって事前予約は必要ありませんが、混雑時はお待ちいただく場合がございます。
※当館の感染症予防対策については、ホームページをご覧ください。
休館日
毎週月曜日(ただし10/14・11/4は開館し、10/15・11/5は休館)
入館料
一般:1000円
シニア(70歳以上):800円
大学・高校生:500円
※中学生以下、障害者手帳をご提示の方及びその介助者(1名)は無料
TEL 03-3941-0850
主催 永青文庫、熊本大学永青文庫研究センター
特別協力 熊本大学附属図書館、熊本県立美術館、ホテル椿山荘東京
交通案内
《バス》JR目白駅(「目白駅前」バス停)・副都心線雑司が谷駅 出口3(「鬼子母神前」バス停)より、都営バス「白61 新宿駅西口」行きにて「目白台三丁目」下車徒歩5分
《都電》都電荒川線早稲田駅より徒歩10分
《地下鉄》有楽町線江戸川橋駅(出口1a)より徒歩15分/東西線早稲田駅(出口3a)より徒歩15分
《ドコモ・バイクシェア》E2-14. 永青文庫
本展開催にあわせ、書籍『織田信長文書の世界 永青文庫 珠玉の60通』を勉誠社より刊行!
永青文庫の信長文書全点の詳細解説・翻刻・現代語訳を画像付きで収録します。
最新の知見を反映した論文・コラムも多数掲載予定。歴史ファン必読の一冊です。
永青文庫とは
永青文庫正門
永青文庫アプローチ
永青文庫外観
永青文庫内観
永青文庫は、肥後熊本54 万石を治めた細川家の下屋敷跡にある、
東京で唯一の大名家の美術館です。
細川家は南北朝時代の頼有(1332~91)を始祖とし、近世細川家の初代藤孝(幽斎、1534〜1610)と2 代忠興(三斎、1563〜1645)が大名家の礎を築き、3 代忠利より240 年にわたって熊本藩主をつとめました。
永青文庫の名称は、中世細川家の菩提寺である建仁寺塔頭・永源庵の「永」、初代藤孝の居城・青龍寺城の「青」に由来します。
所蔵品は、細川家伝来の美術工芸品や歴史資料、そして設立者である16 代細川護立(1883~1970)の蒐集品で、国宝8 件・重要文化財35 件を含む9 万4000 点にのぼり、テーマごとに展覧会を開催しています。永青文庫の建物は、昭和5 年(1930)に建てられた細川家の家政所(事務所)を展示施設としたものです。
近隣のご案内
文京区立 肥後細川庭園
肥後細川庭園 雪吊り
永青文庫に隣接する肥後細川庭園は、熊本藩主細川家の下屋敷跡で、目白台の自然景観や湧き水を活かした池泉回遊式庭園です。庭園内の「松聲閣」は細川家の学問所と伝えられる建物で、一時期は細川家の住まいとして使用されました。
肥後細川庭園
雪の肥後細川庭園
池泉回遊式庭園 肥後細川庭園
東京で降る雪はどんな雪なのかな?「きっと、シュトシュトと降るんやよ(^^♪」
概要
細川家下屋敷の庭園の跡地をそのまま公園にした池泉回遊式庭園です。目白台台地が神田川に落ち込む斜面地の起伏を活かし、変化に富んだ景観をつくり出しています。
湧水を利用した流れは「鑓り水(やりみず)」の手法をとりいれて、岩場から芝生への細い流れとなり、その周辺に野草をあしらっています。
池はこの庭園の中心に位置し、広がりのある景観をつくりだし、池をはさんで背後の台地を山に見立てています。
その斜面地は深い木立となっていて、池に覆いかぶさるようにヤマモミジやハゼノキの一群が、秋には真っ赤に紅葉した姿を水面に映し出します。
山に続く園路は深山の中の自然の尾根道のようです。所々に開けた空き地があり、ベンチが置かれています。もともとそこからは、木々の梢の間から池や低地の町並みを見渡せるようになっていましたが、木の生長とともに森の中にいるような雰囲気となりました。
肥後細川庭園(平成29年3月新江戸川公園から肥後細川庭園に名称を変更しました。)は、庭園部分、樹林部分の整備工事がすべて完了し、平成30年4月より全園開園いたしました。
池泉回遊式庭園
大きな池を中心として、その周囲の園路を歩きながら、広がりのある池や背後の山並みなど様々な風景の移り変わりを観賞出来るように計画された庭園の様式の一つです。
肥後細川庭園では、門から入り大泉水への視界が展開されます。
そして園路を進むにしたがって、池や背後の山並みの眺めの移り変わりを、また振り返った時、池を借景とした松聲閣の眺めを楽しむことが出来ます。
また樹林の中の山道をしばらく登った時、樹間から眺められる大泉水の眺めが印象的です。そして園路にそって池を一周し、最初に見た風景を振り返るように設計されています。
松の雪吊り
毎年11月下旬になると、池畔にある5本の松の枝を都会の水分を多く含んだ重い雪から守るため、わら縄で枝を吊る作業を行っています。張られた縄が、きれいな傘形になっていく様子は見応えがあります。
雪吊りについての一般事項
雪国などで行われる雪吊りは、機能を重視した手法(りんご吊り)であり、雪による枝折れを防ぐため目的の枝に縄を直接結びつけます。
これに対して、肥後細川庭園をはじめ暖かい地方では支柱上の一点から放射状に下がる縄の描く傘型の美しさを鑑賞するために、枝の外周に沿って縄を結びます。
外周に沿って結ぶ場合、外周を直線の組み合わせとするもの(江戸川区平成庭園など)と割竹でつくった輪の形にするもの(肥後細川庭園)があります。
また、支柱上部の飾り(わらぽっち)は、省略されることもありますが肥後細川庭園では、省略を行わずに取付けています。
肥後細川庭園と永青文庫の間の通行
肥後細川庭園と永青文庫の間の門扉は次の時間に開門されています。この時間帯は二つの施設の回遊が可能となります。
開扉時間:10時から16時まで(但し、毎週月曜日、永青文庫の「展示替え期間」と年末年始(12月28日から1月4日まで)は通行できません。)
松聲閣
入口にある建物は松聲閣(しょうせいかく)と呼ばれ、もと細川家の学問所だった建物で、大正時代の建造物です。歴史性を活かした整備工事等を行い、平成28年1月16日(土曜日)にリニューアルオープンしました。施設内にある松聲閣集会室もぜひご利用ください。
アクセス
所在地:文京区目白台1-1
Bーぐる:目白台運動公園下車(徒歩5分)
東京メトロ有楽町線:江戸川橋駅下車(徒歩15分)
都バス:早稲田下車(徒歩5分)
都電荒川線:早稲田駅下車(徒歩7分)
駐車場はありません。
鎹八咫烏 記
石川県 いしかわ観光特使
伊勢「斎宮」明和町観光大使
協力(敬称略)
紅山子(こうざんし)
※画像並びに図表等は著作権の問題から、ダウンロード等は必ず許可を必要と致します。
アーカイブ リンク記事をご覧ください。
~ 近江八幡春の三大火祭り ~
「織田信長も華美な衣装で踊り出た『左義長まつり』
近江八幡左義長まつり「白兎」の山車(だし)
織田信長も歌舞いて踊り出た!「左義長まつり」
左義長まつりは近江八幡に春を告げるお祭りで、織田信長も盛大に行い、自ら華美な衣装で踊り出たと伝えられています。
左義長の中心に据え付けられた「山車(だし)」はその時の干支にちなんだものを、黒豆、小豆、胡椒、昆布、するめ、鰹節等の食材として約2~3か月の期間を費やして地域の人々によって作り上げられています。
春の三大火祭り「左義長まつり」について
左義長の起源・いわれ
平安時代に宮中で、毬杖・毬打(ぎっちょう・ぎちょう)と呼ばれる道具を使用して行う打毬(だきゅう:注1)と言う正月のめでたい遊戯がありました。
左義長はこの打毬で破損した毬杖を、清涼殿(注2)の東庭で青竹を束ね立てたものに結び、さらに扇子や短冊などを吊るし、陰陽師(おんみょうじ)が謡いはやしながらこれを焼く行事が起源とされ、この毬杖を3つ結んだことから各書物には、三毬杖・三鞠打・三木張、散鬼打、などと記され、しだいに左義長と呼ばれるようになったと考えられます。
現在でも正月15日前後に、どんど焼、さいとやき、三九郎焼(さんくろうやき)、 ほちょじ、ほっけんぎょうなどの名称で、正月の松飾りや注連縄(しめなわ)を集めて焼く火祭りの行事として行われ、この火にあたると若返るとか、餅を焼いて食べると病気をしないなどと言われています。
全国的には1月に左義長を行っている地域が多く、近江八幡の左義長まつりも江戸時代には1月の14日・15日に執り行われていたようですが、明治時代に入ってからは、太陽暦の採用に伴い3月に変更され、昭和40年代からは3月14・15日に近い土日曜日に開催されるようになりました。
注意1
大陸伝来のもの。紅白の毬を先がヘラになった毬杖で掬って自分の組の毬門に早く投げ入れた方を勝ちとするポロに似たもの。
注意2
清涼殿(せいりょうでん):平安京内裏の殿舎の一つで天皇の常の居所。
近江八幡の左義長まつり
近江八幡の左義長は元来、安土城下で行われていたもので、城主であった織田信長自らも踊り出たと伝えられています。
織田信長亡き後、八幡城下に移住してきた人々は、既に4月に行われていた八幡まつりに参加を申し入れましたが、松明の奉火場所が無く、また新参とのことで断られたため、これに対して、安土で行われていた左義長まつりを始めたことが起源とされているとも伝えられています。
近年の左義長まつりには、旧城下町の各町から13基が奉納されていますが、過去には中止されたり縮小することもあったようです。八幡開町から江戸初期頃までの左義長に関しての資料はありませんが、八幡町史では、宝永2年(1705年)まで行われ、同3年以降、34年間休んだという記録があり、町中残らず参加、以後毎年開催されるようになったのが元文5年(1740年)と記されています。
他にも、寛延元年(1748年)朝鮮通信使来幡につき中止、安永8年(1779年)左義長29基が奉納、天保5年(1834年)米穀貴重のため禁酒にて行う、慶応4年(1868年)維新騒動のため休止、昭和3年御大典を祝い31基奉納 等々、左義長まつりも時代を反映していたことが分かります。
(詳細は下記のURLよりご覧ください。)
ZIPANG-3 TOKIO 2020 ~ 近江八幡春の三大火祭り ~「織田信長も華美な衣装で踊り出た『左義長まつり』 平成最後の祭りは2019年(亥年)3月16日(土)、17(日) に開催!」
https://tokyo2020-3.themedia.jp/posts/5802237
金沢の四季
史跡名勝天然記念物
特別名勝 兼六園
石川県 金沢「兼六園」秋
金沢城の外郭にあたる家臣の居住区域に、延宝4年(1676)に五代藩主前田綱紀が造営した蓮池庭を造営したのを契機として、文政5年(1822)に十二代斉広が敷地東南隅の台地に竹沢殿を建て、新しく造営したのが兼六園になります。
蓮池門に掲げられた園名の扁額は松平定信の筆であり、十三代斉泰のときに大改修が行われ、8km遠方から辰巳用水を引いて池に水を導き、瀑布や曲水、噴泉など多彩な水景を造りだしたのでした。
指定年月日 : 1922.03.08(大正11.03.08)
特別指定年月日 : 1985.03.20(昭和60.03.20)
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