奈良時代の日本書記に記されている石上神宮(読み:いそのかみじんぐう/所在地:奈良県天理市布留町/宮司:道上昌幸)では、神剣フツノミタマ顕現150周年を記念して、2025年5月14日(水)から5月20日(火)までの1週間、特別展「石上神宮(いそのかみじんぐう)と御剣(みつるぎ)」を開催いたします。
「石上神宮と御剣」
「天地人」
当神宮は日本最古の神社の一つで、武門の棟梁たる物部氏の総氏神として古代信仰の中でも特に異彩を放ち、健康長寿・病気平癒・除災招福・百事成就の守護神として長年信仰されてきました。
大和国を造られた神武天皇を窮地から救った神剣韴霊フツノミタマ、素戔嗚尊が八岐大蛇を退治した天十握剣アメノトツカノツルギの二振り、また日本武尊に降りかかった災いを薙ぎ払った草薙剣クサナギノツルギという神話に名高い剣の神をお祀りすると共に、唯一無二の意匠で有名な国宝七支刀を所蔵しています。
日本三霊剣※の二振りを所蔵することから、古代より刀剣との縁はどこの神社よりも深いと言っても過言ではありません。
石上神宮
石上神宮 拝殿
今回展示する当神宮所蔵の七支刀を鋳造復元した「復元 七支刀」(河内國平作)や、長きにわたり歴史を刻んできた奈良県指定文化財「太刀 銘 義憲作」(号 小狐丸)は大変貴重な刀となります。
また、2021年に人気オンラインゲーム「刀剣乱舞ONLINE」による剣奉納プロジェクト『はじまりのうた はじまりの剣』で、刀匠 宮入法廣氏により作刀された三振りの剣のうち、当神宮に奉納された「奉献の剣 銘・人 天長地久」と、株式会社ニトロプラスが所蔵する「陽の剣 銘 天」、「陰の剣 銘 地」も展示いたします。奉納以来、三振り揃っての展示は初めてとなります。
この御祭神と歴史、信仰、刀剣との関係性を神剣フツノミタマ顕現150周年の好機に改めて発信することで、より多くの方々にご参拝いただき、日本の刀剣文化の奥深さに触れる機会を創り、併せて刀剣に興味関心が高い方々の参拝も叶えられればと思っております。
会場イメージ1
会場イメージ2
【開催概要】
名称 :神剣フツノミタマ顕現150周年記念 特別展「石上神宮と御剣」
日時 :2025年5月14日(水)~5月20日(火) 7日間
10:00~17:00最終入場16:00
会場 :石上神宮 参集殿
〒632-0014 天理市布留町384
近鉄天理駅およびJR天理駅より徒歩30分、タクシーで約10分
入場料 :未定
主催 :石上神宮
後援協力:株式会社トーダン、株式会社ニトロプラス、奈良国立博物館、吉野杉デザイン研究所
【主な展示品等】
展示:◇「復元 七支刀」(河内國平作/当神宮所蔵)
◇「太刀 銘 義憲作」(号 小狐丸)/奈良県指定文化財
◇「陽の剣 銘・天」(宮入法廣作/株式会社ニトロプラス所蔵)
◇「陰の剣 銘・地」(宮入法廣作/株式会社ニトロプラス所蔵)
◇「奉献の剣 銘・人 天長地久」(宮入法廣作/当神宮所蔵)
【神剣フツノミタマ顕現150周年とは】
今からおおよそ2100年前、総称して石上大神(いそのかみのおおかみ)と仰がれる御祭神は、第10代崇神天皇7年に、現地、石上布留(ふる)の高庭(たかにわ)に祀られました。
御祭神である布都御魂大神フツノミタマノオオカミのご神体・神剣韴霊フツノミタマが石上布留の高庭(現・禁足地)に遷され祀られたことから石上神宮は創祀されました。
以来、永らく土中深くに鎮まっていた神剣韴霊フツノミタマが明治7年8月、菅政友大宮司の主導で行われた禁足地の発掘調査により顕現。今年はその顕現より数えて150周年を迎えました。
【日本三霊剣※とは】
韴霊剣フツノミタマノツルギ(布都御魂大神)・天十握剣アメノトツカノツルギ(布都斯魂大神)・天叢雲剣アメノムラクモノツルギ=草薙剣クサナギノツルギ(当神宮摂社・出雲建雄神)、この三振りは神代三剣または日本三霊剣とも言われている神代の霊剣です。
<一般の方の問い合わせ先>
石上神宮 社務所
〒632-0014 天理市布留町384
電話:0743-62-0900
鎹八咫烏 記
石川県 いしかわ観光特使
伊勢「斎宮」明和町観光大使
協力(敬称略)
紅山子(こうざんし)
※画像並びに図表等は著作権の問題から、ダウンロード等は必ず許可を必要と致します。
アーカイブ リンク記事をご覧ください。
すべての始まりの地『鹿島神宮』(前編)
鹿島神宮は、古文書では神武天皇元年(紀元前660年)の創建と伝えられている。
古来より「神宮」と呼ばれていたのは、伊勢神宮、香取神宮、鹿島神宮の三社のみであった。
由緒と歴史の長さでは別格の存在で、日本全国に約600社ある鹿島神社の総本社である。
旅立つ際に道中の無事を鹿島神宮で祈願する「鹿島立ち」の文化も育まれた。
宝物
鹿島神宮はその長い歴史故、藤原摂関家や徳川将軍家を始めとする武家の信仰が篤く、奉納いただいた宝物類を多く所蔵しており、宝物館では国宝、重要文化財、茨城県指定文化財、その他御神宝の数々を収蔵展示している。
所蔵品としては、国宝であり日本最古最大の直刀(金銅黒漆平文拵・附刀唐櫃)をはじめ、梅竹蒔絵鞍(重要文化財)、太刀(銘景安)、古瀬戸狛犬、銅印、木造狛犬、黒漆螺鈿蒔絵台(県指定文化財)等古くから伝わる宝物のみならず、神社に縁のある雪村筆「百馬図」、横山大観筆「鹿島洋朝瞰図」、軍艦「鹿島」パネルも展示されている。
なお、直刀の実物大レプリカも展示しているので、実際に手を触れて重量や長さを体感することができる。
神剣「師霊剣」
鹿島神宮は、日本建国・武道の神様「武甕槌大神」を御祭神とする、神武天皇元年創建の由緒ある神社である。
鹿島神宮 直刀 神剣「師霊剣」
神剣「師霊剣」。奈良時代(初~中期)の「常陸国風土記」によると、約1300年前につくられたものと記述がある。 鹿島神宮の祭神である武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)の神剣として神宮の内陣深く秘められてきた神宝。刀身の長さは223.5cmある。
巌流島(船島)で宮本武蔵と決闘した、秘剣燕返しをあみだした佐々木小次郎の名刀・関の孫六(通称・物干し竿)でさえ2メートルなので、その長大さがわかる。
(詳細は下記のURLよりご覧ください。)
ZIPANG TOKIO 2020「すべての始まりの地 『鹿島神宮』紀元前660年の創建(前編)」
https://tokyo2020-summer.themedia.jp/posts/2468656
鹿島神宮 『御船祭』(後編)
鹿島神宮の御祭神「武甕槌大神」は、神代の昔、天照大御神の命を受けて香取神宮の御祭神である経津主大神と共に出雲の国に天降り、大国主命と話し合って国譲りの交渉を成就し、日本の建国に挺身されました。
現在の社殿は徳川二代将軍の秀忠により、また奥宮は徳川家康、楼門は水戸初代藩主徳川頼房により奉納されたもので、いずれも重要文化財に指定されている。
祭典・行事
鹿島神宮では年間90を超える祭儀が行われ、祭頭祭や白馬祭、流鏑馬など特徴のあるお祭りも数多く行われる。
御船祭の由緒
常陸国風土記に「毎年七月に舟を造りて津宮に奉納する」とあるように、鹿島の神と船との関係は創建時代にまで遡る。
東路の果てに位置する鹿島はその昔、外海の太平洋と西の内海の中で船団の航行によって栄えた古代東国文化の要衝でした。御船祭は、東海を扼する鹿島に鎮座して関東の開拓鎮撫に当たる鹿島の大神を奉ずる当時の人々の足跡を伝える祭であり、およそ1700年前の応神天皇の御代より伝わる鹿島神宮最大の祭典なのです。
12年に一度の午年に斎行されるのは、十二支が一巡すること、また午は方角では南、時刻では正午と陽性が最も盛んであることから来ています。この大祭にはあらゆる邪気と不景気を祓う一陽来復の願いが込められている。
(詳細は下記のURLよりご覧ください。)
ZIPANG TOKIO 2020「鹿島神宮 『御船祭』12年に一度の午年に 水上の一大祭典 斎行(後編)」
https://tokyo2020-summer.themedia.jp/posts/2475332
後鳥羽院 太刀(菊紋)名物 菊一文字
『遠島歌合』
隠岐に遷る以前より院に仕えた歌人・藤原家隆と共に執り行った歌合せ。歌合せとは、相対する歌人同士が短歌を詠み合い、その出来を競う催しである。
後鳥羽院は隠岐の地にありながら、書状を用いて在京時に劣らない歌合せを成立させた。この歌合せにおいて、後鳥羽院は自身の作品と家隆のものとを競わせ、ただ一首の短歌を除いて家隆の勝ち、または引き分けとした。それが、次の一首である。
軒はあれて 誰れかみなせの 宿の月
過ぎにしままの 色や淋しき
賓客である家隆の短歌を退けてしまうほどに、後鳥羽院の都への郷愁の念は強いものであったのだろう。
「刀剣」
太刀(菊紋)名物 菊一文字 徳川美術館 所蔵
茎に菊紋のある太刀は「菊御作(きくごさく)」と呼ばれ、後鳥羽上皇の御作と伝えられる。後鳥羽上皇は、いわゆる御番鍛冶(ごばんかじ)を定めて各地から名工を招聘し、月番で作刀させたうえ、自らも鍛造したという。
本刀は菊紋がわずかに確認でき、備前国一文字風であるため「菊一文字」と呼ばれる。寛永2年(1625)に2代将軍秀忠三男の忠長から尾張家初代義直が譲り受けた。
その後、尾張家5代五郎太(1711〜13)の時代に父・吉通 の建中寺廟に奉納され、明治時代に尾張家へ戻された。
【鎌倉時代 13世紀】刃長72.5 反り2.3 茎長13.3
「菊一文字」をご覧いただけます。
(詳細は下記のURLよりご覧ください。)
ZIPANG-5 TOKIO 2020後鳥羽院に由緒がある伝承と文化「隠岐諸島の一つ海士町(あまちょう)[1]」
https://tokyo2020-5.themedia.jp/posts/18174785
三重刀剣紀行-甦る村正の煌めき-
文化財の保存・活用と国民の文化的向上を目的とした文化財保護法が制定され、本年で70周年を迎えます。それを記念し、桑名を中心とした三重県ゆかりの刀工を紹介する展覧会を開催します。
湿気と酸素に触れた状態が続くと錆びが生じる刀剣。脈々と受け継がれてきた丹念な手入れと適切な保存状態を維持し続けたことにより、現代を生きる私たちも数百年前の〈鉄の美〉を堪能することが出来ています。そして本質的には武器にも関わらず、信仰の対象、あるいは美術工芸品として、本来の用途にとどまることなくさまざまなかたちで受容されています。この2つの文化財保護の観点より、今回の特別記念展が開催されます。
現在に伝わる文化財を、未来に引き継いでいこうとする意識を育む上でも刀剣は最適の文化財の一つであり、本展を通じて地域への愛着を育て、文化財保存の重要性を理解していただくことを目的としています。東西交流の結節点であった三重県には、著名な「村正」を始めとして多くの魅力的な刀工が活躍しています。
その刀工たちが鍛えた、長い年月を経ても変わらぬその刀の煌めき―「不滅の刃」を心ゆくまでご観賞できるまたとない機会です。
(詳細は下記のURLよりご覧ください。)
ZIPANG-4 TOKIO 2020 三重刀剣紀行-甦る村正の煌めき-文化財保護法制定70年記念特別企画展
https://tokyo2020-4.themedia.jp/posts/10871139
対馬はまさに 神々の島
原初の神・タカミムスビとカミムスビ
対馬南西端、水平線の彼方から今まさに神様のご降臨⁉ 豆酘崎(つつざき)
対馬南西端、広大な水平線が広がる豆酘崎。対馬~九州本土間に横たわる玄界灘(げんかいなだ)は古代から海の難所として恐れられ、また対馬の海岸部は断崖絶壁が多く、3世紀の魏志倭人伝に「至るところ絶島」と描かれています。
【日本神話】 国生み
古事記はその冒頭において、原初の17柱の神々の誕生を描きます。最初に、アメノミナカヌシ、タカミムスビ、カミムスビという特別な神が現れました。なかでもタカミムスビは、天皇家の祖先神であるアマテラスに天孫降臨を指示したり、初代天皇である神武天皇の東征を助けたりするなど、天皇家・朝廷にとって非常に重要な神です。
やがて、17柱の神々の最後に誕生したイザナギ(男神)とイザナミ(女神)により日本の国土と他の神々が誕生することになりますが、両神が生んだ淡路島、四国、隠岐島、九州、壱岐、対馬、佐渡島、本州は、「大八島(おおやしま)」と呼ばれ、当時の国土意識を示しています。(北海道・沖縄は含まれず、「本州」も実質的には西日本を指しています) その後もイザナミは多くの神々を産みますが、火の神ヒノカグツチを産む際に大火傷を負い、死者として黄泉(よみ)の国に降ります。妻を追って黄泉の国に向かったイザナギですが、妻との約束を破ってしまい、永遠の別離が訪れます。イザナギが黄泉の穢れを祓うために禊(みそぎ)を行うと、アマテラス、ツクヨミ、スサノオなどの主要な神々が誕生しました。
【対馬の伝承・異伝】
原初の神々のうちもっとも重要なタカミムスビが、対馬南部の厳原町豆酘(いづはらまちつつ)の海岸沿いに鎮座し、対馬から磐余(いわれ。奈良県桜井市・橿原市)に遷座しています。磐余は、初代天皇である神武天皇の名「カムヤマトイワレビコ」(大和の磐余の尊い日子)に表れているように、大和朝廷の起源とされる土地であり、対馬が古神道の源流のひとつとされる所以(ゆえん)です。
また、同様に上県町佐護(かみあがたまちさご)にはカミムスビが鎮座しており、対馬固有の神であるタクズダマは、両神の子神とされています。
豆酘、佐護はそれぞれ、河口の平野部に位置する集落であり、遺跡・由緒ある神社が多く、古代の占いの技術・亀卜(きぼく)を伝承していた、など共通点が多い集落です。豆酘は対九州の、佐護は対朝鮮半島の港として、古くから開けていたことも関係しているようです。
また、国土創造における対馬の別名はアメノサデヨリヒメ(天之狭手依比売)という女性名で、魏志倭人伝に描かれた荒々しい男性的なイメージとは対照的です。島の中央に、船乗りに安心を与える穏やかな内海・浅茅湾(あそうわん)が広がっており、海の女神のイメージが重ねられているのかもしれません。
アメノサデヨリヒメは数社で主祭神として祭られていますが、対馬そのもの=「国魂」が出雲(いずも)地方の大国主(オオクニヌシ)を連想させるためか、祭神が出雲系の神々にすり替わっている場合もあるようです。
(詳細は下記のURLよりご覧ください。)
ZIPANG TOKIO 2020「対馬はまさに 神々の島 【寄稿文その2】 西 護」
https://tokyo2020-summer.themedia.jp/posts/3310061
暴風神スサノオが出雲、太陽神アマテルが対馬、
月神ツクヨミが壱岐の出身だとすると
対馬の神社はどんな場所にある?
神社ガイドブックの作成にあたって多くの神社を訪問しましたが、対馬の神社は山頂近くや海岸部に位置していることが多いようです。
かつては各地の神山で神事が行われていたようですが、その険しさゆえか、時代 が下がるにつれ、山腹やふもとの集落に神社が建てられるようになります。標高は あまり関係なく、低山の山頂にも石の祠などがよく祭られています。
無人島・岬や、船でしか往来できないような海岸部にも神社は多く、また、現在 は市街地であっても、かつては海岸線が迫っていたと考えられる八幡宮神社(番号 1)のような場所もあります。
これらの場所は、航海の拠点として古くから海神が祭られていたようですが、対 馬は元寇など外国の脅威にさらされることも多く、祭神が神功皇后などの武神に代 わったケースも見られます。「天」と「海」はともに「あま」とも読み、神々は天 から山頂に降臨し、海から岬や無人島に寄りつくと考えられていたようです。
神社の鎮座地や祭神の移り変わりを見ていくと、国境の島・対馬の歴史と、そこ に暮らす人々の関心のありかが見えてきます。地図を見ながら、あるいは現地の神 社で、そこにどんな人々が暮らしていたのか、想像してみるのも対馬の神社めぐり の楽しみのひとつです。
島大國魂神社・那祖師神社・若宮神社(三社合祀)
神社のプロフィール
上対馬豊(豊漁港)の北東、椎根島の白水山(しろみずやま)に島大國魂神社、東に1キロの海辺に若宮神社が鎮座していましたが、現在は集落内の那祖師神社に3社が合祀されています。 白水山は禁足地としてのタブーが激しく、立ち入ると大風が吹く、腹痛に見舞われる、災害が起きる、さらには、白水山には老人が住んでおり、そこで見聞きしたことを他言すると死んでしまう、という怖い伝承もあります。
白水山に続く海岸沿いの道は、不通浜(とおらずがはま)と呼ばれています。 南部の龍良山などと同様に、神聖ゆえに近づくことすら許されず、遥拝所 (遠くから拝むための建物など)を造り、それが神社になっていく、という古い信仰のあり方をよく示しています。
周辺の雰囲気・環境など
上対馬町豊は、鰐浦とならぶ対馬最北端の集落です。今は静かな漁村ですが、かつては大陸航路の拠点で、豊崎郷の中心地でした。北西には対馬海峡西水道(朝鮮海峡)が広がり、朝鮮半島までの近さを実感します。
【対馬の伝承・異伝】
那祖師神社 東の海岸にはイタケルが祭られていました。 豊の漁港近くにはソシモリが祭られており、現在はここに3社がまとめられています。
おもに対馬の北部から北東部にかけてスサノオおよび子神のイソタケル渡来の伝承地がいくつもありますが、いずれも強烈なタブーの地とされ、植樹に関する伝承が残されています。
本来は出雲の神であるスサノオが、どのような経緯で対馬に祭られるようになったのかは不明ですが、ヤマタノオロチを退治してその尻尾からクサナギの剣を得る、という神話は、暴れ川の治水および川から得られる砂鉄と、熱源となる樹木を利用した製鉄の比喩とされています。
想像をたくましくすれば、朝鮮半島の森を刈りつくした製鉄者集団の首長スサノオが、対馬を経由して出雲に渡っていった、という物語も見えてきます。
(詳細は下記のURLよりご覧ください。)
ZIPANG TOKIO 2020「暴風神スサノオが出雲、太陽神アマテルが対馬、月神ツクヨミが壱岐の出身だとすると【寄稿文その3】 西 護」
https://tokyo2020-summer.themedia.jp/posts/3334046
與良祖(よらのみおや)神社 奥の院
写真※のご神体周辺にはとんでもないものが潜んでいるような・・・迂闊には近づけません
※写真は下記のURLよりご覧ください。
〈 磐座の例 〉
豊玉姫の墳墓(和多都美神社の裏参道)、與良祖神社(6)の奥の院など
豊玉姫の墳墓
対馬の代表的な神社としては、対馬一の宮 海神神社(かいじんじんじゃ)、和多都美神社(わたつみじんじゃ)などがあります。
両社とも大海神・豊玉彦(とよたまひこ)の娘・豊玉姫(とよたまひめ)を祭り、豊玉姫が航海と安産の神であることから、かつての島主・藩主から庶民にいたるまで厚い崇敬の念を抱かれてきました。
和多都美神社の本殿裏の参道を少し進むと、「豊玉姫の墳墓」と伝えられる岩塊が・・・。 古代の祭祀跡「磐座」(いわくら)です。
かつては、こうした磐座の周囲で祭祀を行い、卑弥呼のようなシャーマンに神々が憑依?し、神託を下したと考えられています。
時代が下ると、こうした交通の不便な地、野外での祭祀は廃れ、集落の近くに神社を建設してそこで神事を行うようになっていきます。 現在、大都市では、開発により取り壊された神社がビルの屋上に鎮座している例もありますが、対馬では今でも古代の祭祀の姿が色濃く残されています。
拝殿・本殿も立派で、周辺の雰囲気も非常によいのですが、ちょっと奥を探索すると、意外なものが姿を現してきます。
私は霊感など一切なく、神社を200社ほど巡っても、イベント時に雨を降らせる能力を身につけた程度だったのですが(ある意味、最悪)、写真のご神体周辺にはとんでもないものが潜んでいるような、ピリピリした空気が漂っています。迂闊には近づけませんでした。
お話をこれ以上続けると何か大変なことが起こりそうな予感がしてまいりましたので、
今回は、ここまでといたします。神功皇后のお話は、後の号にて紹介いたします。
続く・・・
(詳細は下記のURLよりご覧ください。)
ZIPANG TOKIO 2020「日本神話 天孫降臨 山岳信仰と磐座(いわくら)【寄稿文その4】 西 護」
https://tokyo2020-summer.themedia.jp/posts/3383512
天道信仰と天道法師 タクズダマ
【対馬の伝承・異伝】
7世紀後半、内院(ないいん。厳原町)に高貴な女性が虚船(うつろぶ
ね)に乗って漂着し、太陽に感精して子を産みました。「太陽の子」は天
道法師と呼ばれ、嵐をまとって空を飛び、天皇の病気を治すなどの奇跡を
おこします。
豆酘(つつ)の北東に広がる龍良山(たてらさん)中の八丁角(はっち
ょうかく。北と南の2ヶ所にある石積み)は、天道法師とその母の墓所と
され、多久頭魂神社境内の不入坪(イラヌツボ)とあわせて「オソロシド
コロ」と呼ばれ、龍良山という聖域の結界を構成しています。
対馬固有とされる天道信仰は、天道法師という超人と霊山・龍良山を中
心に、太陽信仰・母子神信仰・修験道・古神道などの要素が複雑に絡み合
い、平安時代ころに成立したと考えられています。
(詳細は下記のURLよりご覧ください。)
ZIPANG-3 TOKIO 2020「天道信仰と天道法師 タクズダマ【寄稿文12】西 護」
https://tokyo2020-3.themedia.jp/posts/6509147
日本の原風景 対馬の歴史
対馬 和多都美神社
「和多都美(わたつみ)神社」古事記に登場する海神の娘・豊玉姫(とよたまひめ)を祭る海宮で、古くから竜宮伝説が残されています。
拝殿正面の5つの鳥居のうち2つは海中にそびえ、潮の干満によりその様相を変え、遠く神話の時代を偲ばせる神秘的な雰囲気を漂わせます。裏参道を少し歩くと古代の祭祀跡・磐座(いわくら)があり、隠れたパワースポットとなっています。
(詳細は下記のURLよりご覧ください。)
ZIPANG TOKIO 2020「日本の原風景 対馬の歴史~初めて訪ねた人にさえ懐かしさを感じさせる、その人情と風景とは~(第一話)」鎹八咫烏
https://tokyo2020-summer.themedia.jp/posts/3172259
「二つの『元伊勢』さま
【 寄稿文 】まんだら塾長 日原もとこ」
大神神社 山辺の道 雨上がり(第1回 三輪山フォトコンテスト大神神社宮司賞)
大神神社 御神木と拝殿
電撃が走った参道
私が奈良県桜井市、大和一宮である大神神社(おおみわじんじゃ)に御縁を戴いて以来、いつの間にか45年目を迎えておりました。この間、前半は東京在住。後半は仕事の関係で山形にもねぐらを持ち、大半は山形で過ごしております。
山形から大神神社へのご参拝は以前と違って時間的にも距離的にも、日帰りは困難となり、なかなかの不便さが伴いますが、学会開催等が関西近辺の折には逃さず、チャンスをフル活用するのです。
若かりしころには神社仏閣の故事来歴や歴史には疎く、とんと無関心な私でしたが、何故か寺社参りだけは好きな質で、出張の度に色々と巡っておりました。
そんな中、初めて大神神社の二の鳥居をくぐったときです。参道へと足を踏み入れた途端、いきなり電撃が走りました。本当に髪の毛根が逆立ったと申しますか…此れぞ私が心から求めていた神様だ〜と思ってしまったのですね。異様でした。あの杉木立ちは当にミステリーゾーンです。
関西ではその存在を知らぬ者はいないとされるほど、古くから親しみを込めて「お三輪さん」と呼び、庶民に愛されてきた神様だと申されます。それは、東北でも原始から神は不可視の存在であり、美しい山に籠られるものという考え方が共通してあったようですが、そんな遺伝子を現代人の私達の中にも残っているのでしょうか。遠い祖先から受け継いだ原始の潜在意識が目覚めたようでした。ここで、大神神社公式サイトによる御由緒をご紹介致しましょう。
ー・ー当社の創祀(そうし)に関わる伝承が『古事記』や『日本書紀』の神話に記されています。『古事記』によれば、大物主大神(おおものぬしのおおかみ)が出雲の大国主神(おおくにぬしのかみ)の前に現れ、国造りを成就させる為に「吾をば倭の青垣、東の山の上にいつきまつれ」と三輪山に祀まつられることを望んだとあります。
また、『日本書記』でも同様の伝承が語られ、二神の問答で大物主大神は大国主神の「幸魂(さきみたま)・奇魂(くしみたま)」であると名乗られたとあります。そして『古事記』も同様に三輪山に鎮まることを望まれました。この伝承では大物主大神は大国主神の別の御魂(みたま)として顕現(けんげん)され、三輪山に鎮しずまられたということです。(中略) ・・・
そして、ご祭神(さいじん)がお山に鎮(しず)まるために、当社は古来本殿を設けずに直接に三輪山に祈りを捧げるという、神社の社殿が成立する以前の原初(げんしょ)の神祀りの様を今に伝えており、その祭祀(さいし)の姿ゆえに我が国最古の神社と呼ばれています。「大神」と書いて「おおみわ」と読むように、古くから神様の中の大神様として尊ばれ、第十代崇神(すじん)天皇の時代には国造り神、国家の守護神として篤(あつ)く祀まつられました。ー・ー
何故、私が大神神社に惹かれたかは、今更思い返せば、このご由緒にある三輪山を御神体と崇めた太古の人々のまっさらな魂に感応したからでした。つまり、そのアニミズム的精神に同期したのですね? そんな中で、今回、最近の本サイト一連のシリーズ記事から特に、眼に焼き付いたキーワードがありました。それが「元伊勢」だったのです。
その話は本サイト編集長思い入れのある地、対馬の古神道や寺社建築にも詳しい(一社)対馬観光物産協会の西氏によるご寄稿がきっかけでした。
対馬はその位置関係から、古より文化の十字路です。日本側からは九州経由で、中国や朝鮮からは半島経由で多角的な交流がおこなわれ、日本への物資や技術、医術、書や美術品に至るあらゆる事柄において中継点でもあったので、古い源流の形が見られるところでもあります。
大神神社 檜原神社(ひばらじんじゃ)
山の辺の道にある「元伊勢」檜原神社
そこで、私は大変なショックを受けることになるのです。長年三輪山に通い続けていながら、迂闊にも「元伊勢」が他にも存在するなど、考えもつきませんでした。唯、記憶にあるのは「元伊勢」とする御由緒の案内板に何故?と疑問を抱えた侭、深く考えもせず、「へぇ〜お伊勢様は昔、此処に鎮座されていたんだ〜」くらいに、軽く受け流していたからです。
しかし、何故か山辺の道巡りで遭遇した、この檜原神社には格別な奥深いざわめきが湧き上がり、同時に不思議な謎を抱いたのは確かです。覚えているのは、そのご由緒書きに檜原神社(日原)とする括弧の中の文字でした。何故ならば、それが私の苗字でもあるからです。しかし、何と畏れ多いことかと、これも、深追いせずそこまででストップ。
檜原神社(ひばらじんじゃ)
祭神 天照大御神(あまてらすおおみかみ)社祭日 8月28日
この地は、崇神天皇の御代、宮中よりはじめて、天照大御神を豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)に託されてお遷しになり、「磯城神籬(しきひもろぎ)」を立て、お祀りされた「倭笠縫邑(やまとかさぬいのむら)」であります。
大御神のご遷幸の後も、その御蹟を尊崇し、檜原神社として、引き続きお祀りし、「元伊勢(もといせ)」と今に伝えられています。 境内には、昭和61年11月5日、豊鍬入姫命を祀る豊鍬入姫宮(とよすきいりひめのみや)が鎮斎されました。
万葉集等に「三輪の檜原」と数多く詠まれ、山の辺の道の歌枕ともなり、西につづく檜原台地は、大和国中を一望する絶好の地であります。
その後、それに就いては、興味が出てきて、調べたところ、檜原神社はまたの名を(日原社)とも呼ばれていたようです。しかし、その関係性迄を言及する資料が見当たらず、答えは未だ掴めておりません。
察するところ、この聖域は山の辺の道にあって、奈良盆地を一望出来る特別な台地だそうですから、当然太陽の日の出から日の入り迄の軌跡(天照大神の御姿)が追える最適な場所。すなわち、それは「日の原」と見立てたのでは?という素人の勝手な解釈なのですが、如何でしょうか?
その手掛かりは、三輪山の山頂に祀られる高宮神社(日向神社)にその鍵があるようです。そのご関係者のお話を、抜粋引用させて頂くと、次の如くでした。
ー・ー高宮社の祭神・日向御子神(日向王子)の“日向”(ヒムカ)とは、“日に向かう”・“日を迎える”・“日を拝する”を意味し、日向御子神とは日神(太陽神)信仰における“日神の御子(王子)”となる。 ・・・(中略)・・・三輪山山頂から拝する冬至の朝日は、山頂から直視できる大和と伊勢の国境・高見山(1249m)の彼方、伊勢の方角から昇ることから、当山頂は冬至の朝日を拝する日向の地であったと解され、三輪祭祀の原点には日神信仰があったと推測される。・・・(中略)・・・
記紀伝承が“海を光して依り来る神”というオオモノヌシ=日本大国主には、海から昇る朝日のイメージがあり、日神とみることもできる。日神が伊勢のアマテラス(天つ神)に集約されて皇祖神化し、オオモノヌシ(国つ神)から日神的神格が払拭された後の祭神であろう。
ー・ー とありました。こうしてみると、結論的に最初の三輪山の成り立ちは太陽信仰のお山であったことがうかがえます。この最後の部分にあるように、そうでもしなければ、天照大神を奉ずる天孫族として、大国主大神(大物主大神)に国譲りを迫った大義名分が立たなくなるのでしょうね。
倭笠縫邑とは
次に「倭笠縫邑)(やまとかさぬいむら)とはなんの意味を表すのでしょうか?
―・ー「笠縫邑(かさぬいむら、かさぬいのむら)」とは、崇神天皇6年に、宮中に奉祀していた天照大神を移し、その皇女、豊鍬入姫命に託して祀らせた場所。同時に宮中を出された。他方の倭大国魂神は皇女渟名城入媛命に託して、後に大和神社に祀ったとされる―・ー
その時、豊鍬入姫命は天皇の証し(八咫鏡と草薙の剣)を持ち、鎮座されるべき御神座所を求めながら、各地における様子を検討されたのでしよう。しかし。当時の人々の寿命は短く、崇神天皇の直系となる代々の皇女に、バトンタッチされながら、その後90年ほど候補地を転々とされ、最後に垂仁天皇26年(657年)の第四皇女、倭姫によって伊勢の五十鈴川の磯城の厳橿之本に神籬(ひもろぎ)を立てられ御鎮まりになられたそうです。これが伊勢神宮の斎宮創祀とされる所以だそうです。
この間、巡られた仮の鎮座地、
比定地については、檜原神社(桜井市三輪)を筆頭に多神社(磯城郡 田原本町多)、笠縫神社(磯城郡田原本町秦荘、秦楽寺境内南東隅)、笠山荒神社(桜井市笠)、多神社摂社の姫皇子神社、志貴御県坐神社(桜井市金屋)、小夫天神社(桜井市小夫)、穴師坐兵主神社(桜井市穴師)、飛鳥坐神社(高市郡明日香村飛鳥)、長谷山口坐神社(桜井市初瀬手力雄)等々 でした―・ー
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%A0%E7%B8%AB%E9%82%91
と、まあ何と沢山でてくること!
「天照大神」の御神霊はその後90年ほど諸処を転々とし、垂仁天皇26年(657年)の第四皇女、倭姫命によって最後に伊勢の五十鈴川の上流にて御鎮まりになられ、これが伊勢神宮の創祀と云われる所以なのだそうてす。
二つのパワースポット
この言葉は最近とみに流行していて、それに伴ってランキングでも競争があるようです。本サイトの中で競争あるとすれば、はて?何処でしようか? 勿論それは、丹後一宮の真名井神社の元伊勢であり、もう一つが大和一宮の摂社檜原神社の元伊勢であります。元伊勢同士の一騎討ちみたいですね?
この「倭笠縫邑」のパワースポットとして人気の高い檜原神社の御神体は実はこの三鳥居の中にはありません。それは丹後の真名井神社と同じく、山中にある磐座であり、三つ鳥居の中には虚空が広がるばかり、不可視の限りなく大きな何かが漂っているだけなのです。
これに対する籠神社の奥の院、真名井神社のエリアも、只ならぬ気配が立ち昇っているらしく評判のパワースポットだとされています。そして何れも「元伊勢」と呼ばれており、我が秘宝こそと名乗りを上げているのですね〜
でも、結果的に伊勢神宮では内宮、外宮に別れますが、何れにも鎮座されているから、二つとも正解だといえましょう。
内宮に祀られた元伊勢は皇大神宮の天照大神の御神坐となり、外宮には籠神社御祭神の豊受大神が御奉斎されました。尤もこちらは後から雄略天皇の代になってからですが…それにしても崇神天皇は国津神系へのご配慮は大変なもの。やはり、歴代天皇の中でもそこまで見通せる特別に傑出した方だったのでしょうか。
どちらのエネルギーも負けず劣らずで、やはり土地のもつ、磁力と歴史の積み重ね、そして人々の尊崇する祈りのパワーや念力と言うものが、積み重なると更に土地の磁力を育てると申しますから、誰もそれを立証することは不可能というものです。それにしても、日本の神様は何と人間的で平和な存在でありましょうか。人間だけですね〜それを利用して損得を争うのは…
(詳細は下記のURLよりご覧ください。)
ZIPANG TOKIO 2020「二つの『元伊勢』さま 【 寄稿文 】まんだら塾長 日原もとこ」
https://tokyo2020-summer.themedia.jp/posts/3430816
隠岐諸島
後鳥羽院に由緒がある伝承と文化 海士町
後鳥羽院は刀剣の文化にも関わりが深いことで知られている。刀剣に情熱を注がれた理由として、三種の神器の一つ「天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)」にまつわるエピソードが有名である。
「御番鍛冶」
後鳥羽院のもとに仕えた刀匠は、後に「御番鍛冶」と称されるようになった。院自らも作刀をなされたとの伝えもあるほどで、刀の価値や刀匠の地位を高めたのはもちろんのこと、自らの手で最高のものを作り出そうと先頭に立つお姿が日本の精神文化に影響を与えたとされている。
その由緒により、隠岐神社創建時、昭和の名匠から「昭和御番鍛冶」を選定し、院を祀る神前に相応しい昭和の名刀が奉納された。なお、その刀剣は海士町後鳥羽院資料館※に展示されている。
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