ZIPANG-10 TOKIO 2020建築と再生:坂倉準三の「人間のための建築」伊賀で新たな時を刻む 坂倉準三の名建築を再生したホテル『泊船』が開業

図書館、建築、アートが融合する“泊まれる文化複合施設”が伊賀に誕生


建築家

坂倉 準三

Junzo Sakakura

坂倉準三は、ル・コルビュジェに師事し、日本にモダニズム建築を根づかせた建築家。
「人間のための建築」を信条に、都市や公共空間に開かれた設計を数多く手がけました。
旧上野市庁舎もそのひとつであり、伊賀の人々の暮らしに寄り添う建築として今なお息づいています。


旧上野市庁舎 SAKAKURA BASE


船谷ホールディングスグループ(本社:三重県伊勢市村松町/代表取締役:船谷哲司)は、日本モダニズム建築の巨匠・坂倉準三が設計した三重県伊賀市の市指定文化財「旧上野市庁舎」(1964年竣工)を再生。


その建築思想を現代に引き継スモールブティックホテル『泊船(はくせん)』として、2025年7月21日に開業いたしました。同一施設内には、2026年春に公共図書館もオープン予定。


歴史的建築を舞台に、地域文化とアート、そして知的な体験が響き合う“泊まれる文化複合施設”として、訪れる人々に深く豊かな滞在を提供します。


建築と再生:
建築家 坂倉準三の「人間のための建築」が伊賀で新たな時を刻む


『泊船』の舞台となる旧上野市庁舎。ここは、ル・コルビュジエに学び、戦後日本の建築を率いた坂倉準三(1901-1969)が1964年に手がけた建築です。


坂倉は
「建築は、そこで生きる人間のためにある」という哲学を掲げました。


この旧市庁舎は、伊賀の豊かな自然、とりわけ四方を山に囲まれた盆地の風土に寄り添うように、水平線を強調した低い建物として完成しました。市民を見下ろすことなく、光と風を招き入れる大きな開口部は、半世紀以上にわたり、ここに集う人々の営みを静かに見守り続けています。


老朽化による解体の危機を、市民の保存運動が救い、市指定文化財として再生されることに。行政からのアイデア募集に応え、船谷ホールディングスがこのプロジェクトを受託しました。


ホテルと、来春オープンする図書館、そして観光案内機能を備える複合施設として、この歴史ある建築は新たな命を得ます。


かつての市庁舎の記憶を大切にしながら、ホテル『泊船』は過去と現在をつなぎ、坂倉準三がこの地に託した思想と共に、人が集い、学び、伊賀の魅力を発信する、新しい文化の拠点となることを目指します。


スモールブティックホテル『泊船』:言葉の海を漂う、静謐な時間


泊船スイート


『泊船』は、全19室のスモールブティックホテル。ホテル名は、伊賀の地がかつて琵琶湖の底だったという伝承と、来春オープンする館内の公共図書館を「言葉の湖(うみ)」に見立てたイメージから生まれました。


その海で、心豊かな時間を穏やかに過ごしてほしい、という願いが込められています。「本を手に、言葉の湖に漂いながら、静かに泊まる」――『泊船』だからこそ叶う、知的で穏やかな滞在を提案します。


再生設計:MARU。architectureが紡ぐ、モダニズムの静かなる対話



本施設の再生設計は、公共建築や文化施設の設計等を多数手がけるMARU。architectureが担当しました。彼らは、坂倉建築が持つ空間の豊かさや光の扱い方を深く読み解き、現代の快適さと美しいデザインを融合させています。


設計の核にあるのは、「開かれた外の空間から、段階的に落ち着いた室内空間へと連続する」という心地よい流れ。視線を低く抑えることで、訪れる人が落ち着いて空間に身を置けるよう工夫されています。


既存のコンクリート壁に残る当時の木型枠の表情はそのまま活かされ、タモ材や左官などの素材との組み合わせが、至近距離でこそ感じられる繊細な質感を生み出します。それは、ただ修復するだけでなく、建築全体に、異なる要素が互いを引き立て合うような、穏やかな一体感を生み出すことに深く配慮された結果です。



建物に設けられたガーゴイル(あまどい)は、雨水が流れる様子をあえて見せることで、自然とのつながりを表現するという坂倉の意図であろうと考えられます。細部にわたるこだわりから、建築家の思想が現代に息づいているのを感じられるでしょう。


客室のしつらえとアート:NOTA&designが誘う、感性の息づく空間


コーナースーペリア | 藤本玲奈の抽象絵画


客室は、NOTA&design が手がけたインテリアスタイリングにより、温もりのある素材感と静けさに満ちた空間に仕上がっています。坂倉準三建築研究所が手がけた天童木工の家具や、当時の建築の雰囲気に調和する調度品が配され、空間全体に穏やかな調和が生まれます。


視線が低く設計された空間は、外の賑やかさから離れ、心地よいプライベート感を演出します。NOTA&designは、客室を「生き物のように、時間とともに育まれる空間」と捉え、宿泊者の気配や流れが静かに深まるような設えを施しています。


さらに、坂倉建築のシャープなラインやコンクリートの質感に対し、人の手が生み出すアート作品が持つ「肌触り」や「感情」が、空間に新たな対話をもたらすと信じ、各客室にアートを迎え入れました。


アート作品は、建築が持つ静謐なムードを壊すことなく、そこに親密な温かみを加え、滞在する人それぞれの感性に語りかける存在となるでしょう。それは、空間を単なる「箱」ではなく、訪れるたびに新たな発見のある、生きたギャラリーへと昇華させます。



泊船スイート | 壺田太郎の陶作品


ホテル エントランス


ホテルエントランス | 陶芸家・安永正臣氏のモザイク壁画


エントランスには、陶芸家・安永正臣による、釉薬から成形する独自の手法で作られたモザイク壁画が配され、来訪者を迎えます。



各客室には、伊賀にゆかりのある若手アーティストであり伊賀生まれの陶芸作家・壺田太郎による、土の表情豊かな陶作品、そしてビビッドな色彩が特徴の藤本玲奈の抽象絵画が飾られています。


客室ごとに異なる表情を見せるこれらの作品は、滞在する人の感性を静かに刺激します。単なる飾りではなく、空間と、そして滞在する人との間に、ささやかな対話を生み出すことを意図しています。


車椅子対応のユニバーサルルームも備え、誰もが安心して心地よく過ごせる空間を提供することで、多様なゲストに開かれた、時代を超えて愛されるデザインのホテルであることを示しています。


ロゴ・サインデザイン:UMA/design farmが紡ぐ、建築との対話


泊船ロゴマーク


『泊船』のロゴ・サインデザインは、UMA / design farm が担当しました。ロゴは、坂倉準三建築が持つ「柔らかさ」と「身体性」を抽出し、マークに込められています。湖に浮かぶ船、月の光、本を読む人のシルエット、図書館の「言葉の湖(うみ)」、夜から朝への時間の流れなど、見る人それぞれに異なるイメージを喚起する、抽象的で詩的なデザインが特徴です。


ロゴの色には、夜の湖のような「紺色」を採用。これは建築当時の2階部分にも使われていた色を復元したものであり、月明かりに照らされた夜の静けさを表現しています。館内外のサインやインテリアもすべて、「必要最小限、最適な配置、素材の力を活かす」という坂倉の設計思想に基づき、丁寧に設計されています。


UMA / design farm代表の原田祐馬氏による記録写真


また、改修前にUMA / design farm代表の原田祐馬氏が撮影した旧庁舎の記録写真も、客室前のポーチに展示されています。再生前の建物の姿を伝えるこれらの写真は、サインやロゴと同様に、「建築の記憶」をそっと滞在に織り込むような存在です。静かに佇む写真が、今の空間と過去の時間とをやわらかくつなぎ、この場所が歩んできた時間を宿泊者に伝えます。


滞在体験:五感をひらく、伊賀の文化を巡る深い旅



『泊船』での滞在は、ただ泊まるだけでなく、伊賀の奥深さを知る、思索と発見の旅へと誘います。客室には books+kotobanoie による選りすぐりの書籍をご用意。また、クリエイティブエージェンシー kontakt が編集を担当した、『泊船』そして伊賀をより深く知るためのジャーナルも思考を深める時間に寄り添います。



朝食で提供するプレートは、地元伊賀市の人気店 食堂おおもりが監修。他にも、伊賀焼や伊賀組紐といった伝統工芸品、そして俳聖・松尾芭蕉ゆかりの地を巡る街歩きなど、伊賀の記憶や文化を感じさせるプロダクトや体験が随所に散りばめられ、滞在者が地域の静かな物語を読み解くきっかけとなります。


これからの泊船:建築が紡ぐ新たな物語、伊賀に根ざす文化複合施設へ

『泊船』は、旧上野市庁舎という歴史的公共建築の保存・活用における、日本の新しいモデルケースとして、その価値を確立します。 


2026年春に開業する公共図書館との一体化は、単なる複合施設を超え、知のプラットフォームとしての建築の可能性を広げます。 宿泊者が図書館を自由に使い、地域住民がホテルに親しむことで、「泊まる」と「学ぶ」「集う」という行為が自然につながり、新たな交流と文化創造の場が生まれます。


伊賀の歴史、文化、自然、そして現代のアートとデザインが静かに交差するこの場所は、訪れる人々に深い思索と発見を促す、新たな交流と文化体験の拠点として機能します。地域に深く根ざしながら、日本のモダニズム建築が未来へと長く息づくための、新たな物語を紡ぎ続けていきます。


 ホテル概要



施設名:泊船(はくせん)

ホテル開業日:2025年7月21日

公共図書館:2026年春開業予定

所在地:三重県伊賀市上野丸之内116 旧上野市庁舎 SAKAKURA BASE

施設内容:ホテル(全19室、バリアフリー客室1室含む)、公共図書館、観光案内、カフェ

運営:船谷ホールディングスグループ


設計:MARU。architecture

スタイリング:NOTA&design

家具:天童木工(坂倉準三建築研究所デザイン)

アート:安永正臣、壺田太郎、藤本玲奈

ロゴ・サイン:UMA / design farm

ウェブサイト:SHEEP DESIGN Inc.

施設写真:田ノ岡宏明


運営会社概要

会社名:船谷ホールディングスグループ

創業年:1877年

本社所在地:三重県伊勢市村松町1364番地8

代表者名:船谷哲司

お問い合わせ先:info@hakusen-iga.com



鎹八咫烏 記
石川県 いしかわ観光特使
伊勢「斎宮」明和町観光大使


協力(敬称略)

紅山子(こうざんし)


※画像並びに図表等は著作権の問題から、ダウンロード等は必ず許可を必要と致します。



アーカイブ リンク記事をご覧ください。


坂倉準三をはじめとする
建築家たちの挑戦の軌跡!


国立近現代建築資料館では,これまで,「坂倉準三展」(平成25年度),「吉阪隆正+ U研究室展」(平成27年度),「大髙正人展」(平成28年度)を開催し,各建築家の設計思想や挑戦の軌跡を多様な建築資料を用いて御紹介いたしました。


それぞれの展覧会の観覧者は約1万人にも及び,御好評を頂きました。


そこで,この度の展覧会では,この3人の建築家の活動を,具体的な建築プロジェクト

〈坂倉準三:出光興産給油所関連施設,吉阪隆正+U研究室:ヴェネツィア・ビエンナーレ日本館,大髙正人:農協事務所建築〉に焦点を当てて,各人がどのようにプロジェクトに向き合い,試行錯誤を重ね,発想を膨らませたのか,その情熱を過去の展覧会で御紹介できなかった資料群を通じてお伝えします。


あわせて,新規収蔵資料として,渡辺仁と平田重雄の建築資料を初めて御紹介します。


国立近現代建築資料館

名誉館長 安藤忠雄

あいさつ

建築は、人間の暮らしや風土、生活文化の集約されたものであり、社会と強く結びついています。とくに近代以降の日本建築は、伝統的な木造建築と西洋の建築文化が融合し、独自の発展を遂げてきました。

この世界に誇れる日本の建築文化を、より多くの人々に知ってもらい、次の世代へと受け継いでゆくために、国立近現代建築資料館は生まれました。

建築は、一人の力で出来るものではありません。依頼主や設計者、施工者等、関わる多くの人や組織が互いに対話を重ね、それぞれの思いが一つになって初めて価値あるものが生まれます。

思いを伝える手段として、図面や模型やスケッチが使われます。これらの建築資料は、日本の建築文化がどのように進展してきたかを伝える貴重な歴史資料と言えます。 先人たちが築いてきた歴史に学ぶことで、今後より一層豊かな日本の建築文化が育まれてゆくことを心から願っています。


(詳細・画像は下記のURLからご覧ください。)


ZIPANG TOKIO 2020「坂倉準三をはじめとする建築家たちの挑戦の軌跡!平成29年度国立近現代建築資料館収蔵品展」
https://tokyo2020-summer.themedia.jp/posts/2402389



歴史的建造物が全国各地で存亡の危機

新富町で築100年の井筒屋を再生


【ここ10年で100年前のレトロ建築の取り壊しが急増】

文化財未指定の歴史的建造物が壊されています。戦争や地震等の災害をくぐり抜けて残ってきた、100年ほど前のレトロ建物が街からどんどん姿を消しているのです。


文化庁のデータによると、全国で歴史的価値があると国が認めた登録有形文化財でさえも、解体などによって2015年以降急激に多くの建物登録が抹消されています(*)。大きな背景として人口の集中する場所が変わり、過去の中心地にあった歴史的建造物が危機に瀕していることがあります。


修復して活用するにもそれなりの知恵とお金が必要になります。文化財未指定の建造物は、所有者や管理者が全額自己負担するケースがほとんど。資金不足や倒壊の恐れから維持管理が難しくなって取り壊されるケースは後をたちません。


【元和菓子屋の看板建築を未来へつなぐリノベーション】

東京都中央区新富町にある大正レトロ建築「井筒屋」が、世界の一流メゾンとも契約する日本人建築家、板坂 諭の手によってリノベーション。一般の方もご覧いただけるようオープニングイベントを開催します。


(詳細・画像は下記のURLからご覧ください。)


ZIPANG-8 TOKIO 2020戦争や震災を逃れた歴史的建造物が全国各地で存亡の危機 新富町で築100年の井筒屋を再生
https://tokyo2020-8.themedia.jp/posts/51516691



〈都心の広場・公園的空間の在り方を検証する社会実験〉

Marunouchi Street Park 2022 Winter


7 回目となる「Marunouchi Street Park 2022 Winter」は、「MSP Twinkle Street」をテーマに、多くの人にとって思い出に残るような体験提供するために、展開エリアを丸の内仲通りの 3 ブロックから東京駅前の行幸通りにまで拡大し、過去最大となる規模で実施いたします。


丸の内仲通りに加えた行幸通りでの実施は、公共空間を一体的に活用する数少ない事例であり、日本や東京を象徴する場所での「ウォーカブルなまちづくり」に寄与する取り組みとなります。尚、本事業は「パーク・ストリート東京(*1)」と連携した取り組みです。


(*1)パーク・ストリート東京:車から人中心へのまちづくりを推進するため、道路空間を活用し、人が歩いて楽しむまちを創出する取り組みを一体的に展開すること。2020 年より東京都が地域団体や地元区市等と連携し、一体的に広報・周知する取り組み。


丸の内仲通りには、光の輪投げ、ベンチのメリーゴーランドなどを体験できる心温まる冬のハレの場のエリアや、ストリートピアノの演奏を楽しんだり、きらめく仲通りを背景に写真を撮影したりできる、寒い屋外でも楽しく過ごせるエリアが展開します。


今回は大丸有エリアのホテルや店舗と連携したクリスマスマーケットやキッチンカーの出店も行い、道路上の設置物の様々な形態にチャレンジするなど、新しい冬の風物詩にもなり得るような、多くの人にとって思い出に残る丸の内の冬の情景をお届けします。


小岩井農場と宮沢賢治

これから始まる夢の物語

いま天地を分けた重たい扉が開かれた。

イーハートーブの世界へ向かって新しい旅が始まる

・・・さあ~共に進もう!


(詳細・画像は下記のURLからご覧ください。)


ZIPANG-6 TOKIO 2020 日本の近代化を象徴する歴史的建造物や日本や東京を象徴するエリアが演出する冬の情景
https://tokyo2020-6.themedia.jp/posts/39341104



伊賀一宮 敢國神社 1300年以上前『四道将軍』から始まり 観阿弥~服部半蔵~松尾芭蕉 そして神の社は未来を開く


敢國神社の御由緒

古来伊賀の国の一宮として、当国の人々の総鎮守大氏神として、仰ぎまつってその霊徳に浴してまいりました。


創建年代は658年ですが、貞観の頃には神階五位を授けられ延喜の制には大社に列せられました。また延長年間には朝廷より社殿が修造せしめられ、南北朝時代には後村上天皇が行幸ましまして、数日間参籠あらせられ、社領の御加増もありました。


徳川時代には藩主藤堂家の崇敬厚く、社殿調度の修営・神器社領の寄進・祭儀神事の復興などが行われました。明治4年5月国幣中社に列せられ今日に至っております。


敢國神社の略史

敢國神社は今から1300年以上前に創建されました。くわしくは、7世紀の中期658年に創建と敢國神社には伝わっています。創建当時は大彦命(おおひこみこと)・少彦名命(すくなひこなのみこと)の二神で敢國神社が創建されました。


創建以前のお話になりますが、当社の主神である大彦命は、350年頃第8代孝元天皇の長子として大和の国に生まれ、大和朝廷創建期の武人と云われています。


又、その子建沼河別命(たけぬなかわわけのみこと)と共に北陸・東海を征討する役目を負われ「四道将軍」のお一人として第10代崇神(すじん)天皇の詔により日本の東目の攻略を果たされた後、大彦命率いる一族は伊賀の国にお住みになり、その子孫は伊賀の国中広がっていきました。


伊賀の国の阿拝(あえ)郡(現在の阿山郡は阿拝郡と山田郡が合併してできたもの)を中心に居住した為、阿拝氏を名乗るようになり、後に敢・阿閉・阿部・安倍と呼ばれるようになりました。「あえ」とは、「あべ」の原音であり、あべ姓の総祖神でもあると共に伊賀にお住まいの方の祖神でもあります。


又、古代伊賀地方には外来民族である秦(はた)族が伊賀地方に住んでおり彼らが信仰する神が当社の配神(はいしん)である少彦名命でありました。当時は現在の南宮山山頂付近にお祀りしていましたが、神社創建時には南宮山より現在地に遷してお祀りしています。このことから伊賀にお住みの方々はこの二神の混血の民族であると言っても過言ではないでしょう。


創建後、南宮山の社殿が山の下に遷された跡地に新しい神社の創建に当たっては当時の伊賀の有力な人達の頭を悩ましたことであろうと思われます。結局、美濃の国(現在の岐阜県)南宮大社の御祭神である金山比咩命(かなやまひめのみこと)を旧少彦名命の跡地に勧請しました。おそらくその頃南宮山(なんぐうさん)という名がついたのではないかと推測されます。


(詳細・画像は下記のURLからご覧ください。)


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https://tokyo2020-summer.themedia.jp/posts/2331520



400年あまりの歴史を有する「上野天神祭」

『ユネスコ無形文化遺産登録』10月に忍者の里 伊賀市で開催


この祭りは藤堂氏が藩主の時代、神輿の渡御を主とする祭りに印や囃子屋台などの渡物が加わり、「印と鬼・楼車」で構成される練物の祭りに発展しました。


百数十体もの鬼が練り歩く鬼行列は、神輿の渡御に供奉してその露払いの役割を果たし、中でも「役行者」の面は、初代藩主藤堂高虎が自身の眼病平癒の祈祷を城下の修験道寺院に命じた際に早く平癒したことから返礼として寄進したものといわれている。


この祭りの最大の特徴は、神の依代である印にそれを囃す楼車などの華やかな演出が加わって一対となっている点にある。


「上野天神祭のダンジリ行事」は、平成14年2月に国の重要無形民俗文化財に指定されたほか、平成28年11月にはユネスコ無形文化遺産「山・鉾・屋台行事」に登録されました。


全国の多くの祭りと同じく豊作への感謝・疫病退散の祈願から始まった祭りは、京都の祇園祭の形態を取り入れて発展し、今日の伊賀地方の秋の風物詩となっている。


(詳細・画像は下記のURLからご覧ください。)


ZIPANG TOKIO 2020「印と鬼・楼車 上野天神祭のダンジリ行事 『ユネスコ無形文化遺産登録』10月に忍者の里 伊賀市で開催」
https://tokyo2020-summer.themedia.jp/posts/3014307



日本遺産(壱の巻)

忍術は紀元前4000年頃発祥
日本で山岳的な兵法へと発展


伊賀とは

伊賀は、伊賀流で知られる忍者の里。 忍術はこの地で発展し、伊賀忍者は日本全国で活躍しました。 街の中央には上野城の敷地を使った上野公園があり、伊賀流忍者博物館、上野城、だんじり会館など、主要な観光スポットが集まっている。


上野公園から歩いて巡れる範囲にも、観光スポットが点在している。 伊賀の中心市街地は、17世紀初めに整備された城下町で、昔は侍が住んでいました。 現在も100年以上前に作られた、歴史的な建築や昔ながらの街並みが残っている。


街の周辺部には田園地帯が広がり、周囲は深い山々に囲まれている。 周辺部には、赤目四十八滝や青山高原など、日本の自然を満喫できるスポットがある。

※赤目四十八滝は、たくさんの滝を歩いて巡ることができる観光地で、忍者が修行した場所だとも言われている。


伊賀は周囲を山々に囲まれた盆地である。 盆地特有の気候で、夏はとても暑く、冬はとても寒くなる(雪はほとんど降りません)。 昼夜の気温差が大きいのも特徴で、この気温差が優れた牛肉や米、日本酒ができる要因である。


伊賀市の面積は558.23k㎡で、人口は約91,000人です。 お隣の名張市(人口約78,000人)とあわせて、古くから「伊賀国(いがのくに)」と呼ばれてきた。


忍者の起源

6世紀に志能便(しのび)が聖徳太子につかえたという記録が残っている。


はじめて忍者が記録に出てくるのは、6世紀に大伴細人(おおとものほそり)という人が志能便(しのび)として聖徳太子につかえたという記録が残っています。 大伴細人は伊賀か甲賀の出身と言われている。


忍術の発祥地

日本全国の忍術の流派の多くは、伊賀流と甲賀流が起源でした。


(詳細・画像は下記のURLからご覧ください。)


ZIPANG TOKIO 2020「忍術は紀元前4000年頃発祥 日本で山岳的な兵法へと発展 今、世界が注目する日本遺産(壱の巻)」
https://tokyo2020-summer.themedia.jp/posts/3019963



伊賀流忍術発祥の地 【伊賀市・名張市】


忍術 忍者は、世界中で日本をイメージする国際語となっている。 映画、テレビそしてマンガでおなじみの「忍者」や「忍術」。


超人的で神秘的なイメージの強い忍者は、空を飛んだり、消えたりと、まるで忍者がスーパーマンであるかのよう、あるいは忍術が格闘技であるかのように、間違って解釈されている。


戦乱の時代に必要とされ、発達した忍術は、武術や謀略、破壊工作なども当然含まれますが、心理学や呪術、占術を利用して人間の心理をあやつり、また薬学、医学、天文学など生きるための知識と、人間の能力を最大限に引き出す技術の集大成が本来の忍術なのです。


忍者、忍術とは 封建時代の日本では、戦乱が頻繁に起きていました。その当時、忍者は主に情報収集をおこなうスパイとして雇われ、敵対勢力の動きを察知するという任務を果たしていました。


彼らはしばしば、敵を混乱させ、その勢力を低下させるという使命をも帯びていました。「忍者」とは、忍術を駆使してこれらの目的を達成する者たちに対する呼び名でした。


忍術では、武力を行使するのではなく、知力を使った戦術に重きが置かれる。忍術のある分野においては、敵の心理状態をあやつるために、呪術や占術、心理学、そして超心理学に精通することが求められました。また別の分野においては、自然を熟知して任務を遂行しやすくするために、天文学や薬草などの知識が求められました。


特に、この地域では、呪術と火薬の知識に秀でていました。忍術とは、戦闘のみに限られたものではありませんでした。


歴史を通じて発展した忍術の流派はいろいろありましたが、その中でも伊賀流(三重県伊賀市・名張市)と甲賀流(滋賀県甲賀市)の忍術は、その起源が同じで、もっとも優れた忍術といわれている。


忍術の歴史は

忍術の歴史は、紀元前4000年頃に古代インド文化が中国大陸に伝えられ、そして西暦6世紀頃に、中国から朝鮮半島を経て日本に伝わった「兵法」に求められる。大陸的な兵法は日本で山岳的な兵法へと発展し、今日知られるような忍術が完成しました。


(詳細・画像は下記のURLからご覧ください。)


ZIPANG TOKIO 2020「日本初!伊賀忍者が活躍した城郭を巡るスタンプラリー 是非ご参加を!(弐の巻)」
https://tokyo2020-summer.themedia.jp/posts/3054326/



日本遺産 そのⅠ (参の巻)

伊賀忍者の史跡 


名張藤堂家邸

天正伊賀乱の後、簗瀬村の現丸の内が城下町として発展。慶長13年(1608)藤堂高虎・家臣梅原勝右衛門が名張に赴任。寛永13年(1636)藤堂高吉が伊予から名張城主になる。


名張藤堂家が支配するが、実情は家臣格で独自の行政は行えなかった。大火で全焼したが大名屋敷を再建。現在、寿栄神社にある太鼓門が当時のまま。


名張陣屋町として丸之内、中町、上本町、柳原町、鍛冶町、本町、新町、元町、豊後町、木屋町、榊町、松崎町、上八町、東町がある。


旧細川邸は、薬商細川家(奈良県宇陀市大宇陀)の分家として建てられる。細川家は樟脳を扱っていた。樟脳は『萬川集海』の火術としても使われていた。


上野城下に忍町があったわけで名張にも伊賀者は在住しただろう。薬に関わる忍者や名張藤堂家を監視していた忍者が考えられる。


永福寺

全国にいくつか「伊賀町」がある。滋賀県彦根市にも、昭和47年まで「伊賀町」があった。現在は錦町になっている。


慶長19年(1614)大坂冬の陣で、彦根藩士三浦右衛門元貞は伊賀者を特別隊として真田幸村の大坂城真田丸に奇襲攻撃。これが大成功する。井伊直孝は元貞に感状を与えた。


しかし、伊賀者には、その活躍に見合う論功行賞を与えなかった。そのため、伊賀に帰還する伊賀者が続出した。忍者なしでは戦えない。そこで、元貞はわざわざ名張下比奈知にある永福寺に赴き、彼らを説得しに行った。


給与をアップ、土地を譲与。新たに長福寺を創建し、永福寺僧、能賢を初代住職に迎え、本尊薬師如来も設置する。


これで気をよくした伊賀者は彦根に移住する。ただ、なぜ永福寺に伊賀者と大きく関わっていたのであろうか。この寺は伊賀者のアジトであった可能性がある。


(詳細・画像は下記のURLからご覧ください。)


ZIPANG TOKIO 2020「日本遺産 伊賀忍者の史跡 そのⅠ (参の巻)」
https://tokyo2020-summer.themedia.jp/posts/3058458



戦国時代の陰の主役 そのⅡ(四の巻)

日本遺産 伊賀忍者の史跡


日本遺産「伊賀忍者」

忍者の呼び方

今は「忍者(NINJA)」の呼び方で統一されていますが、昔は忍者と呼ばなかったのをご存じですか?時代によっても、地域によっても違う呼び方がたくさんありました。その一部を紹介しましょう。


時代別

飛鳥時代—志能便(しのび)

奈良時代—伺見(うかみ)

戦国時代—間者(かんじゃ)・乱破(らっぱ)

江戸時代—隠密(おんみつ)

大正時代—忍術者・忍者(にんしゃ)


地域別

京都・奈良—水破(すっぱ)・伺見(うかみ)・奪口(だっこう)

山梨—透破(すっぱ)・透波(すっぱ)・三ツの者・出抜(すっぱ)

新潟・富山—軒猿・間士・聞者役(ききものやく)

宮城—黒はばき 青森—早道の者・陰術(しのび)

神奈川—草・物見・乱破(らっぱ)

福井—隠忍術(しのび)

他にも地域によって様々な呼び名がありますが、代表的なものを紹介しました。
当て字ですが「しのび(忍)」に関係するもの、仕事に関係する呼び方(聞者役など)、
見たままの呼び方(早道の者など)色々あります。


さて、それでは前回の続き「伊賀忍者の史跡」を紹介いたしましょう。


史跡

極楽寺

鎌倉時代に道観という長者が一ノ井に住んでいた。道観は赤目の九か村を支配し栄華を極める。しかし、没落し奥山里香落渓に移り住む。


やがて、自分の不徳を悔い改め、東大寺二月堂の再建に寄与。道観遺言により松明調進が始まった。 この頃に悪党が出現する。中でも南伊賀の悪党、黒田の悪党と呼ばれ有名だ。伊賀忍者の原形になる。ゲリラ的戦術が巧妙で、いくら弾圧されても次々に現れる。活動期間も長く、対処に東大寺は手をやいた。


しかし、赤目の悪党たちも、松明調進ついては、荘園時代から続く行事で、強制されたものでなく、松明調進には従ったという。まともに戦えば明らかに不利である。 悪党は最低限の生きるためのとき、東大寺と戦う。それ以上は望まなった。だからこそ、東大寺という最大の寺院に、しぶとく数百年にもわたり対峙できたのだろう。生きるための忍者的哲学だと思う。


北畠城


(詳細・画像は下記のURLからご覧ください。)


ZIPANG TOKIO 2020「戦国時代の陰の主役 日本遺産 伊賀忍者の史跡 そのⅡ(最終話 四の巻)」
https://tokyo2020-summer.themedia.jp/posts/3067975



甲賀流忍術とは

甲賀忍者 軍神として崇められた聖徳太子


前号では伊賀流忍術を中心にご紹介いたしましたが、本号におきましては忍術の二大流派と言われている甲賀流忍術について、アーカイブリンク記事を含めご紹介したいと存じます。


奥の細道 山形 立石寺(山寺) 松尾芭蕉と曾良 像 松尾芭蕉は伊賀忍者なのか?

閑さや 岩にしみ入る 蝉の声 元禄2年5月27日 芭蕉

曾良は奥の細道のあと、芭蕉と別れ幕府の巡検使として長崎県壱岐に渡り、旅の途中で病に侵され、日本に帰りたいという本人の遺言により本州が眺められる地に葬られたました・・・高台の木立の中に消えそうな文字で曾良とだけ書いた木の白い墓標…淋しそうに立っていたのが今も、瞼を閉じると見えてくるようです。


真田十勇士とは戦国末期、信州・上田城武将「真田幸村」の家臣で、大坂冬の陣、夏の陣に、大坂方のために大活躍した十人の勇士。その武勇伝は明治末から大正初期にかけて講談本「立川文庫」によって創作された。


甲賀忍者でずば抜けた忍術の持ち主「猿飛佐助」、伊賀忍者で百地三太夫の弟子「霧隠才蔵」怪力の「三好清海入道」弟の「三好伊三(いさ)入道」鎖鎌の達人「由利鎌之助」や、筧(かけい)十造、海野六郎、望月六郎、穴山小助、根津甚八、十勇士はそれぞれ得意の武芸で徳川方と戦ったのであった。


昭和20年代、悪ガキたちは、カバヤ文庫から発刊される十勇士の物語を胸躍らせながら読んだものでした。


様々な忍者の流派

忍術の流派、甲賀流、伊賀流はよく知られているが、それだけではない。
日本全土には、四十九流派もあったと言われている。


その内訳は、北から

青森県「中川流」、山形県「羽黒流」、新潟県「上杉流」「加治流」、栃木県「福智流」「松本流」、長野県「芥川流」「青木流」「戸隠流」「伊藤流」、山梨県「甲陽流」「武田流」「松田流」「忍甲流」「忍光流」、神奈川県「北条流」、愛知県「秋葉流」「一全流」、福井県「義経流」、三重県「理極流」「辻一務流」「服部流」「滝流」「義盛流」「内川流」「滝野流」「沢流」「伊賀流」、滋賀県「甲賀流」、奈良県「飛鳥流」「秀郷流」「九州流」「蒲生流」「楠流」、和歌山県「名取流」「新楠流」「雑賀流」「根来流」「紀州流」、岡山県「備前流」、広島県「福島流」

などなど、まだ他にもあった。


それぞれの流派は、主君の為に又それぞれの地域の発展の為に活躍をしていたのだが、甲賀、伊賀ほどに存在した事すら知られていない。


忍者の活躍自体は、表街道で派手に立ち回るものではない裏稼業の様なもので、歴史上に記録として残ったり、名前が残ったりしないのが本来の姿なのである。たまたま甲賀と伊賀は、都が京都であったのと戦国の時代、天下を争った武将「信長、秀吉、家康」が全部、愛知県の出身でちょうどその中間に位置し、交通の要衝であったので、歴史上の物語に登場する場面が多く、甲賀、伊賀が脚光を浴びる事になったのである。


「甲賀の総社」油日神社

甲賀武士の崇敬

国の史跡ともなる境内には、南北に本殿・拝殿・楼門 が一直線に並び、楼門の左右から廻廊(かいろう)が延びています。廻廊が取り付く中世の神社建築は、滋賀県内でも当社以外にありません。いずれも規模が大きく意匠に優れ質も高いもので、中世の神社景観を今に伝える貴重な文化財です。


「甲賀流忍術屋敷(甲賀望月氏本家旧邸)」

長野県の武家の名族滋野氏(分流は、真田氏等)を源流とし、平安時代に滋賀県甲賀地方を治めた九曜星を家紋とする氏族。 戦国時代には、伊賀の「服部」、甲賀の「望月」と称され、鈎の陣に活躍した望月出雲守、甲賀三郎伝説の起源とされる望月三郎に代表される甲賀流忍者の家系。


(詳細・画像は下記のURLからご覧ください。)


ZIPANG-7 TOKIO 2020日本遺産~忍びの里 伊賀・甲賀~甲賀忍者 軍神として崇められた聖徳太子
https://tokyo2020-7.themedia.jp/posts/42083048/



創建は約2000年前 近江最古の大社

『白髭神社』湖中の大鳥居 伝説



湖中大鳥居

由来=古来波打ち際に鳥居が見え隠れしていたとも、天下変災の前兆として社前の湖中に石橋や鳥居が突然姿を現したとも言われる。(社伝・社記)

湖上交通の盛んな頃、舟でのご参拝の目印でもあったか?


御 祭 神・御 神 徳について

御 祭 神  猿田彦命(猿田彦大神)  御神紋 左三つ巴

御 社 名  白鬚神社   別社名 白鬚大明神・比良明神


御 神 徳  

古事記によると、猿田彦神は「天の八衢に居て、上は高天原を光し、下は芦原中津国を光す神」だと見えている。高天原からこの国土に降る道の途中に、四方八方に分岐する道があり、猿田彦神はそこに居られて道を守り、道を教えた神様である。このことは天孫の降臨について、天孫の一行にその行く手を教え導かれた功績を褒め称えたものである。これは大にしては国の行く手を示す神であり、小にしては道の守り神として悪いものを防ぎ、よき方への導きの神であったことを示したものと言えよう。


古事記には更に、この神の出自をいって「吾は国つ神」とあり、この国土にあって国民のための導きの神であったことを知らしめる。その導きの神徳は「御前に仕へ奉らむとて参向に侍らふ」ともある。天孫を始め、延いては多くの人々の前に立ち、人の世のすべての業や営みを善い方に誘導されたことは、私どもはこの神を信じ奉ずることによって、常にこの神が自分の前に立って善き方に導いて下さることを知らしめるものである。


日本書紀によると、この神は強い力の持ち主で威風堂々たる容姿の持ち主であったようだ。 「その鼻の長さ七咫、背の長さ七尺余、また口尻明りて耀れり、眼は八咫鏡の如くにして耀輝けること、赤酸醤(ホウズキ)に似たり」とある。らんらんたる眼を持った偉丈夫の姿を彷彿とさせる大神である。そしてその威力はこの神に「目勝つ神」はなかったとあるように、その眼力が窺えるのである。この神が岐れ路道におられて睨みを聴かせているのだから、悪いものは近寄ることさえできない。


紫式部の若き日を偲んで、白鬚神社の境内に歌碑が建立されています。


「三尾の海に 網引く民のてまもなく 立居につけて 都恋しも」


この歌は「源氏物語」の作者紫式部が、この地を通ったときに詠んだものです。

平安時代の長徳2年(996年)越前の国司となった父藤原為時から船路にて湖西を通り越前に向かいました。途中、高島の三尾崎の浜辺で、漁をする人々の網を引く見なれぬ光景に、都の生活を恋しく思い出して詠んだのがこの歌です。


(詳細・画像は下記のURLからご覧ください。)


ZIPANG TOKIO 2020「創建は約2000年前、近江最古の大社『白髭神社』湖中の大鳥居 伝説」
https://tokyo2020-summer.themedia.jp/posts/2786158/



リビング・モダニティ 住まいの実験 1920s–1970s

兵庫県立美術館にて展覧会と記念講演会 開催!


1920 年代以降、ル・コルビュジエやルートヴィヒ・ミース・ファン・デル・ローエといった多くの建築家が、時代とともに普及した新たな技術を用いて、機能的で快適な住まいを探求しました。その実験的なヴィジョンと革新的なアイデアは、やがて日常へと波及し、人びとの暮らしを大きく変えていきました。


「リビング・モダニティ 住まいの実験 1920s–1970s」と題した本展覧会は、当代の暮らしを根本から問い直し、快適性や機能性、そして芸術性の向上を目指した建築家たちが設計した、戸建ての住宅をご紹介するものです。


1920年代から70年代にかけて建てられたそれらのモダン・ハウスは、国際的に隆盛したモダニズム建築の造形に呼応しつつも、時代や地域、気候風土、社会とも密接につながり、家族の属性や住む人の個性をも色濃く反映しています。


理想の生活を追い求めた建築家たちによる暮らしの革新は、それぞれの住宅に固有の文脈と切り離せない関係にあるのです。一方、それらの住宅は、近代において浮上してきた普遍的な課題を解決するものでもありました。


身体を清潔に保つための衛生設備、光や風を取り込む開放的なガラス窓、家事労働を軽減するキッチン、暮らしを彩る椅子や照明などの調度、そして住まいに取り込まれた豊かなランドスケープは、20世紀に入り、住宅建築のあり方を決定づける重要な要素となったのです。


そして、こうした新しい住まいのイメージは、住宅展示や雑誌などを通じて視覚的に流布していきました。


本展覧会では、20世紀に始まった住宅をめぐる革新的な試みを、衛生、素材、窓、キッチン、調度、メディア、ランドスケープという、モダン・ハウスを特徴づける7つの観点から再考します。


そして、特に力を入れてご紹介する傑作14邸を中心に、20世紀の住まいの実験を、写真や図面、スケッチ、模型、家具、テキスタイル、食器、雑誌やグラフィックなどを通じて多角的に検証します。


(詳細・画像は下記のURLからご覧ください。)


ZIPANG-10 TOKIO 2020リビング・モダニティ 住まいの実験 1920s–1970s〈当代の暮らしを根本から問い直す〉展覧会と記念講演会!
https://tokyo2020-10.themedia.jp/posts/57101120



町田市が一層活気あふれる町に

旧白洲邸 武相荘 レガシー継承


武相荘 レトロな雰囲気のインテリア

東京都町田市では、白洲次郎・正子の旧宅である、東京都町田市指定史跡「旧白洲邸 武相荘」を運営する株式会社こうげいと、2023年3月9日(木)に観光連携協定を締結し、同市を代表する観光地として更なる地域の活性化及びシティセールスの向上を図ることを発表。


ポニーキャニオンの吉村社長から「ヘリテージマネジメントという位置づけで、史跡や文化財を守りつつ継承していきながら地域の活性化を促進していきます。培ってきた知見を使いながら、武相荘のすばらしさを次世代に訴求し、白洲夫妻のレガシー継承はもとより、町田市が一層活気あふれる町になるよう努力していきたい。」と語った。


(詳細・画像は下記のURLからご覧ください。)


ZIPANG-7 TOKIO 2020「旧白洲邸 武相荘」のレガシーを次世代に継承していく!
https://tokyo2020-7.themedia.jp/posts/42525348/



ホテルは、ハードからソフトの時代へ


~るうふがリブランディングを通して伝えたい想いとは~

古民家一棟貸し宿LOOFを初めて6年の歳月が経ち、
多くのお客様に古民家という非日常の空間を楽しんでいただき、 帰り際に、来た時よりも少し仲良くなっていく姿を何度も見てきたのでした。


その時に、ホテルは、寝床のハードを提供する場所ではなく、その場でしかできないソフトを提供する場所なのだと確信したそうです。


ホテルは、ハードからソフトの時代へ。 「 ホテル自身が観光地となる体験型ホテルを」という思いで、昨年からるうふのリブランディング を進めていたのです。


そんな中、新型コロナウィルスの影響により、揺れ動く社会を見ていく中で、 よりリアルなホテル体験を多くの方々に届けたいという思いが強くなってきたそうです。


るうふは提供するWITHコロナ時代のホテルのニュースタンダードを、 様々な地域の再興の一つの形として日本中に広げていく計画を持っています。


<これからのホテル自身が観光地になるソフトを提供する「るうふ」の形と、新しい「地域再興」のビジネスモデル>


(詳細・画像は下記のURLからご覧ください。)


ZIPANG-4 TOKIO 2020地域の土地や文化の色は?風土や営みから生まれた素材は?自然や地域ならではの体験提供 ・・・時を超える宿「るうふ」
https://tokyo2020-4.themedia.jp/posts/10132449



~町ごとシェアオフィス~【美濃市】


【地方都市が目指すもの】

都市の高層オフィスビルで働く事。長らくそれは日本社会で憧れとされ、働き方のスタンダードとされてきた感がありました。しかしながら企業の効率性を重視したその働き方は、日々の通勤ラッシュ・限られた作業スペース・長時間残業等、一人ひとりの暮らしや心のゆとりを犠牲にして成り立っていた側面も大きいのではないでしょうか?


一方で、昨今の新型感染症の予防対策として、従来のオフィスワークは、在宅ワークが半ば常識化していますが、オンラインを通じた猶予ない会議時間・コミニュケ―ションの少なさ・運動不足や私語の禁止等、人間的な繋がりと身体的・精神的な健やかさを疎かにした働き方になってしまっている例も少なくないはずでは…?!


オフィスビルでの通勤型や自宅での在宅ワークで陥りがちな「機械的でロボットの様な働き方」から脱却し、自然・伝統・人の繋がりから成る「豊かな暮らしの中で働く」という日本社会が見失った「人間らしい働き方」を取り戻す事こそ地方都市の目指すところではないのだろうか??


岐阜県美濃市とは

清流長良川

美濃まつり 和紙の町の「花みこし」

うだつの上がる町並み

関ケ原の戦いの後1600年に開かれた「和紙」で栄えた町。 現在の人口は約二万人。清流長良川と数々の文化財、「花みこし」が有名な美濃まつりなど、自然と文化が一体となった美しい町です。 


(詳細・画像は下記のURLからご覧ください。)


ZIPANG-5 TOKIO 2020 「 豊かなまちの暮らしの中で、人間らしく働く 」~町ごとシェアオフィス~【美濃市】
https://tokyo2020-5.themedia.jp/posts/19862464



【明治150年】関連施策を推進」~博物館 明治村~


日本政府の関連施策の前に、1965年(昭和40年)3月18日愛知県犬山市の入鹿池のほとりに開村した博物館 明治村を簡単に紹介しましょう。


徳川家康から265年続いた江戸時代。 1867年(慶応3年)、15代将軍 徳川慶喜が大政奉還を行ない、その翌年の1868年9月8日明治と改元され、後に人々が「古き良き時代」と称する、明治の扉が開かれました。昭和以降に生まれた私たちにとって、身の回りで明治を感じることのできる物は、ほとんどありません。「古き良き時代」と言われている明治は、一体どんな時代だったのか?当時の建築や生活を通してきっと「博物館 明治村」が解き明かしてくれることでしょう。


博物館 明治村(犬山)で、明治の雰囲気をまるごと体感!

博物館 明治村(初代徳川夢声氏から数えて四代目の村長は阿川佐和子氏)は、明治期の建物を中心に「日本最古級の蒸気機関車」「京都市電」の体験乗車をはじめ、ハイカラ衣装体験、グルメなど「明治」を見て、触れて、味わう、他に類を見ない体験型の野外博物館です。

敷地面積約100万m² 南北約1100m 東西約620m

移築展示建造物件数67件(重要文化財11件、愛知県指定文化財1件)


(詳細・画像は下記のURLからご覧ください。)


ZIPANG TOKIO 2020「政府一体となって【明治150年】関連施策を推進」~博物館 明治村~
https://tokyo2020-summer.themedia.jp/posts/3165507



※現在、2700件余の記事掲載、下記のサイトからご覧ください。


ZIPANG-10 TOKIO 2020 (VOL-10)
https://tokyo2020-10.themedia.jp/


ZIPANG-9 TOKIO 2020 (VOL-9)
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ZIPANG-8 TOKIO 2020 (VOL-8)
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ZIPANG-7 TOKIO 2020 (VOL-7)
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ZIPANG-6 TOKIO 2020 (VOL-6)
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ZIPANG-5 TOKIO 2020 (VOL-5)
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ZIPANG-4 TOKIO 2020 (VOL-4)
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ZIPANG-3 TOKIO 2020 (VOL-3)
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ZIPANG-2 TOKIO 2020(VOL-2)
https://tokyo2020-2.themedia.jp/


ZIPANG TOKIO 2020 (VOL-1)
https://tokyo2020-summer.themedia.jp/


ZIPANG-10 TOKIO 2020

日本の精神文化と国土の美しさについて再発見 その1. 全世界との情報の共有化 その2. 偏り、格差のないローカリティの尊重! その3. 美しきものへの学び、尊敬、関心を高める教育と推進

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