ー「 岐阜城楽市」の誕生と岐阜市まちづくり ー
地域の歴史・風土・伝統 産業を活かし
次世代のくらしの未来環境へ 発酵文明の心で取り組んでいる
岐阜駅周辺から岐阜公園までの個性に満ちた4つのエリア( 「駅周辺エリア」「柳ケ瀬エリア」市役所及びぎふメディアコスモス周辺の「つかさのまちエリア」「岐阜公園エリア」)とそれをつなぐ連携軸を「岐阜市センターゾーン」とし、官民が連携してまちの魅力や回遊性の向上を目指している。
「岐阜城から望む市街と長良川の眺望」
岐阜城は、かつて稲葉山城と称し、戦国時代には、斎藤道三公の居城でもあった。
特に岐阜城の名を天下に示したのは、永禄10年(1567年)8月、 織田信長公がこの城を攻略するとともに、この地方一帯を平定し、地名も「井口(いのくち)」を「岐阜」と改称し、天下統一を目指した本拠地としてからである。
また岐阜城は城郭では有数の高さ約329mにあり、眼下に鵜飼で有名な清流長良川が市内を貫流し、西には伊吹、養老、鈴鹿の山系が連なり、南には濃尾の大平野が豊かに開けるなど一望できる。
岐阜城夜景 ©岐阜市
千三百年伝統の鵜飼 ©岐阜市
「 岐阜城楽市」の誕生
岐阜公園は、岐阜城が築かれた金華山と、1300年以上の歴史を有する鵜飼が行われる清流
長良川など、岐阜市固有の豊かな歴史・文化・自然に抱かれた岐阜市を代表する総合公園である。
岐阜公園が持つ歴史的資産を最大限に活用し、さらなる賑わいを創出するため、「信長の鼓動が聞こえる歴史公園」をコンセプトとして岐阜公園の再整備に着手している。
令和7年4月、岐阜公園に新たな賑わいを創出し、川原町など周辺地域への回遊性を高め、
来園者に岐阜公園を満喫してもらうため、Park-PFI制度(公募設置管理制度)を活用した、飲食・物販施設「岐阜城楽市」が誕生した。
岐阜城楽市 は三重塔と金華山と岐阜城と一体で魅力を高める
岐阜公園のしつらえは、
・戦国時代の城下町を連想させる、切妻屋根の木造平屋建ての建物
・戦国時代の道の風合いが感じられる自然色舗装の園路
・金華山に自生する草花により四季の彩りを楽しませてくれる植栽
・発掘調査で明らかになってきた岐阜城の石垣にちなみ、間詰め石を詰めこんだ乱積みによる、県内産のチャートを使用した石積みといった、歴史や岐阜らしさを演出する修景を施してある。
来園者 はベンチやカフェでゆったりと過ごせる環境
自動運転バス「GIFU HEARTBUS」
子供達にも人気の開放的視界の自動運転バス
自動運転バス「GIFU HEARTBUS」と連節バス「GIFU RED OMNIBUS」は、水戸岡鋭治氏がデザイン。
岐阜市の公共交通のシンボルであり、市内を巡り人々がセンターゾーンを回遊出来る。
「みんなの森 ぎふメディアコスモス」
岐阜市センターゾーンの中央に位置する図書館複合施設「みんなの森 ぎふメディアコスモス」伊東豊雄氏の設計で、「金華山や長良川に呼応する 文化の森をつくる」がコンセプト。
上部トップライトからの自然光をおだやかに室内に拡散させ、夜にはグローブ内に設けられた照明のシェードになる。
グローブ上部の曲面形状は、木材に特別な難しい加工をすることなく、現地で形状になじむように積み上げながらつくられた。
これらのヒノキ材は全て、岐阜の県産材である「東濃ひのき」が使われ、自然素材の温かさを感じられる空間になっている。
「岐阜駅北口駅前広場」
岐阜市センターゾーンの起点には、多くの人々を迎えるおもてなしの場として「岐阜駅北口駅前広場」があり、岐阜の風土伝統現代性を表し、緑ゆたかな日本一の杜の駅となっている。
緑ゆたかな駅とまちを結ぶ歩行者用デッキ
デッキ下も魅力的で多機能な余裕のある歩行空間
平和友好のシンボルのU字形の歩行者用デッキで市街地へ誘導、歩行動線、シェルター、
交番、トイレも円弧で優しい環境に。
その正面では、2つの市街地再開発事業が始動し、駅とまちを結ぶ歩行者用デッキの整備とともに、さらなるにぎわいの創出や回遊性の向上を図るとしている。
広場は地上の自動車交通と、駅とまちを結ぶ歩行者用デッキで、広場全体をカーブのデザインを基本に有機的な構成とし、中央のイベント広場を見下ろし、美濃地区の植生の休息ビオトープ空間も内蔵し、混雑する都市の大型交通結節点としての機能を果たす豊かな四季の森環境である。
今後の展開はさらに岐阜都市圏の玄関口として、また地域全体との協力で、
風土と伝統と歴史を語るに相応しい取り組みを大いに期待している。
【寄稿文】 一舟・光秀(林 英光)
環境ディレクター
愛知県立芸術大学名誉教授
東京藝術大学卒業
協力(敬称略・順不同)
岐阜市役所 〒500-8701 岐阜市司町40番地1 代表電話番号:058-265-4141
岐阜市都市建設部
※画像並びに図表等は著作権の問題から、ダウンロード等は必ず許可を必要と致します。
発行元責任者 鎹八咫烏(ZIPANG TOKIO 2020 編集局)
アーカイブ リンク記事をご覧ください。
ぎふ信長まつり
特別企画 織田信長公役=木村拓哉氏
ぎふ信長まつり「信長公騎馬武者行列」
キムタク織田信長公
いざ出陣!流石に絵になる!!!
「ぎふ信長まつり」とは
春の道三まつりと対を成す岐阜市の秋の風物詩「ぎふ信長まつり」は、
岐阜のまちづくりに貢献した織田信長公を称えるお祭りです。
義理の父子関係にある道三と信長ですが、祭りの歴史自体は信長まつりの方が先輩。その発端は1953(昭和28)年、信長の「稲葉山入城四百年」記念イベントにさかのぼります。
先鞭をつけたのは岐阜商工会議所。岐阜タイムス(岐阜新聞の前題号)と共催し、春に行われる伊奈波神社の例大祭「岐阜まつり」に花を添える形で武者行列を行いました。
このとき披露されたのが、信長公をはじめとする十数人の騎馬武者に鉄砲隊等200余人による絢爛豪華な行列。華やかに繰り広げられたこの戦国絵巻は、多くの観客の目を惹きました。そこで4年後の1957(昭和32)年、持ち上がったのがこんな話。
「これだけ多くの観客を動員するのだから、岐阜まつりと切り離して別の日に行い、商業振興に役立てよう」
こうして秋まつりとしての「ぎふ信長まつり」が誕生! 近年はコロナ禍での中止があったものの、今日まで岐阜の秋を代表するお祭りとして長く続いています。
織田信長
大六天魔王こと戦国の革命児
義父・斎藤道三に美濃を託され、その理想国家を10年足らずで体現。
この地の名前を「岐阜」に改め、類稀なる経営手腕と先見性で「天下布武」の信念を全国に示した。
「楽市・楽座」による経済都市の確立
「稲葉山城」から「岐阜城」へのブラッシュアップ、鉄壁の防御を敷いたまちの仕組みと
組織づくり…。信長はこの地から天下泰平を目指し躍進していく。
(詳細・画像は下記のURLからご覧ください。)
ZIPANG-6 TOKIO 2020 ~ぎふ信長まつり~ 特別企画 織田信長公役=木村拓哉氏「信長公騎馬武者行列」開催!
https://tokyo2020-6.themedia.jp/posts/38586929/
鎹八咫烏の選ぶ
「お・も・て・な・しの国」岐阜市ベストショット10選
信長の楽市楽座令
岐阜町の繁栄は、信長の楽市楽座令の経済効果によるものでした。では、楽市楽座令とはどのような内容のものであったのでしょうか。
もともと、楽市楽座は16世紀の中ごろから17世紀はじめにかけて、戦国大名が戦乱で荒廃した市場の復興、また新設市場・新城下町の繁栄を目的に出したものです。
信長が、岐阜入城の年1567年(永禄10年)10月に出した加納楽市場の「定(さだめ)」は、主に以下の三項目からなっています。
①楽市場住人は関銭(せきぜに・関所の通行税)など免除の自由通行権を持つ
②市場内では市場外での債権、債務関係が消滅し、課税・労役を免除する ③市場内へ「使」(警察権力)の介入は認めない 。
そのほかに、売り手が望まないのに無理に買い取る押買(おしがい)、乱暴、けんか、口論の禁止や、市場内の平和維持を目的とした「宿とり非分」を規制する(無理やり宿泊させるよう迫ることを禁止する)内容もみられます。
これらの項目は、加納楽市場が今まで楽(自由)の市場として保持してきた社会的特権を、新しい領主として信長が保障し、承認したものです。俗世間から切り離された「無縁の原理」の世界で、駆け込み寺と同じ縁切りの性格を持っています。
楽市場が開かれた場所は、神仏の支配する所が多く、加納楽市場は、円徳寺寺内町(岐阜市)といわれます。現在の円徳寺ではなく、長旗(岐阜市)にあった浄泉坊(円徳寺の前身)寺内町です。
現在、信長の「楽市場定(らくいちばさだめ)」の制札(せいさつ・円徳寺所蔵)は、岐阜市歴史博物館の保管になっていますが、制札の裏には支柱に制札を取り付けた穴と跡が確認されます。
信長は翌年(1568年・永禄11年)9月にも「加納市場」へ楽市楽座の「定」を出しました。内容は前年とほとんど同じですが、「楽市楽座のうえ商売すべき事」という文言がみられます。
現在、楽市場(加納市場)に目印として植えられた榎(えのき)や市(いち)繁栄のため祭られた市神(いちがみ)が若宮町通り(岐阜市)に残っており、信長時代の繁栄がしのばれます。
(詳細・画像は下記のURLからご覧ください。)
ZIPANG TOKIO 2020「お・も・て・な・しの国 岐阜市の見どころ(特別編 その壱)」
https://tokyo2020-summer.themedia.jp/posts/3543726
岐阜の四季
『春の香り』ぎふ梅まつり
梅林公園の梅の蕾みが花開くと岐阜の街が、一瞬に春の色と香りに・・・
3月中旬頃
梅の名所として知られる公園で、約50種1,300本の梅の木が植えられています。もとは私有地でしたが、岐阜市に寄贈され更に整備拡張され現在に至っています。
毎年1月中旬から早咲きの梅が咲き始め3月上旬から見頃を迎え、3月下旬まで様々な梅の花が楽しめます。 また、3月上旬には梅まつりが開催され多くの人で賑わいます。
この他、園内には蒸気機関車D51(通称デゴイチ)が展示され、現在も市民の手によって保存されています。
(詳細・画像は下記のURLからご覧ください。)
ZIPANG TOKIO 2020「岐阜の四季『春の香り』(特別編その弐)」
https://tokyo2020-summer.themedia.jp/posts/3552926
JR岐阜駅前再開発 スカイデッキ
平和友好のシンボルのU字形のスカイデッキで市街地へ誘導、歩行動線、シェルター、交番、トイレも円弧で優しい環境に。
私たち日本人は色彩を軽ろんじていませんか?
服装も家も街並みも都市も国土も一つの景色です。その基本を少し理解すると全てが融和し、調和が始まります。
私たち日本人は色彩を選択する時、他のものごとより理由も感性も十分な検討もない侭、命に別状はないとして決めています。
しかし戦国時代の武将たちは、命をかけて城ばかりではなく、領地から服装、香りまでトータルデザインに尽くしました。
その根底には「恥と誇り」があったのです。それが日本の穏やかな文化の基本です。またその手本は、天地空海、山川草木、生きとし生きるものの姿や色彩など、全て自然の中にあります。それが人間界の風土に育まれた伝統文化です。
今は伝統的な和の優れた文化よりも、外国の派手な文化に目が行きがちですが、それらは彼らに似合う文化であって、そこに住む日本人が美しく見えないばかりか、外国人から見ても日本人は世界一洋服の似合わない人々と言われる所以です。
その都市環境は電柱と看板とバラバラな建築様式と形と色彩の混沌であり、スラムのようだと言われます。それには視覚上の色彩も大きく影響します。さらにわが国の混沌とした環境の改善は大事な未来の子供達や次世代に不調和な環境が影響し、いじめや犯罪など心の問題にも関わります。環境は人をつくると言います。
そこで都市環境と様々なデザインの、発想から実施に至るまで関わった筆者の多数のプロジェクトの経験から、色彩に取り組む実務のトータルデザインについてご紹介しましょう。一例としてJR岐阜駅前地区再開発での筆者が手掛けた色彩デザインの手順が僅かでもご参考になれば幸いです。
(詳細・画像は下記のURLからご覧ください。)
ZIPANG-5 TOKIO 2020 色彩デザイン実践講座 事例1 JR岐阜駅前再開発 森羅万象との融和【寄稿文】林 英光
https://tokyo2020-5.themedia.jp/posts/21261952
岐阜とフィレンツェ 姉妹都市提携40周年記念講演会
ルネサンスでいきなり大仏様のご登場なので驚かれたかも知れません。しかし、この大仏様こそが匠の技を、随所に活かしたフィレンツェの芸術家に引けを取らない見事なものなのです。
実は今年岐阜市は、フィレンツェとの姉妹都市提携40周年になります。そこで今回は昭和53年より携わっておりましたインテリアコーディネーターにスポットを当て、姉妹都市提携40周年記念講演会と岐阜市について、前編・後編の2回に分けて紹介いたします。
まず本日の前編は、フィレンツェと岐阜市について、更に今回のメイン、記念講演会のご案内です。明日の後編では、木の中に生まれ木の中で育った者にとって(まるで日本昔ばなしのようなフレーズになってきましたが?)記念講演会が木を活かした建築デザインの会場で行われるので、いつかご紹介したいと思っていたその会場と、岐阜市内の見どころを(生まれただけで直ぐに県外に移転、それでも岐阜県は生まれ故郷なので、ⅮNAはしっかりと埋め込まれている筈?)岐阜市の皆さんに助けていただき、張り切ってご紹介できるよう頑張ります!
岐阜インテリアコーディネータークラブ創立20周年。
伊藤初代会長と皆様のご苦労が実を結び、本当におめでとうございます。
講師 麻衣 ラーナヴェルデ氏 (日本インテリア総合研究所)
岐阜市と姉妹都市提携40周年を迎えるイタリア・フィレンツェは、14~16世紀にかけルネサンス発祥の地として栄え、今でもその当時の面影が残る美しい建造物や街並みが世界中の多くの人を魅了し続けている街として有名です。
今回、そんなフィレンツェのよく知られた観光地としての側面ではなく、そこで生きる人々がどのような日常を過ごし、そして今日までのフィレンツェという街をどのように支えてきたのかについて、講師の在住経験を通して触れた、‘暮らす人々の視点’から見たフィレンツェについてお伝えします。
遠く離れた文化も言語も違う異国の街でありながら、意外にも岐阜市との共通点が多いフィレンツェを 少しでも身近に感じて頂ける機会になればと思います。
講師プロフィール
インテリアコーディネーター&デザイナースクール「日本インテリア総合研究所」にて、国内外でのインテリア関連商品やイベント企画・開発を行なう。
また、ヨーロッパの国々で学んだ自然療法と現地でのセラピストとしての経験を活かし、ナチュラルセラピースクール「香りの学校LIVE」にて、自然療法セラピスト・専任講師として各種療法のコース監修や指導に携わる。
スクールの運営するナチュラルセラピーサロン「CreaLuce(クレアルーチェ)」ではヒーリングやセラピーに関する講座やワークショップを企画・開催している。
(詳細・画像は下記のURLからご覧ください。)
ZIPANG TOKIO 2020「岐阜とフィレンツェ 姉妹都市提携40周年記念講演会『ルネサンスの街・フィレンツェで生きる人々の誇りと暮らし』(前編)」
https://tokyo2020-summer.themedia.jp/posts/3527439
みんなの森 ぎふメディアコスモス
みんなの森 ぎふメディアコスモスは、「知の拠点」の役割を担う市立中央図書館、「絆の拠点」となる市民活動交流センター、多文化交流プラザ及び「文化の拠点」となる展示ギャラリー等からなる複合施設です。
最大所蔵可能数90万冊、座席数910席を誇り、施設最大の特徴のひとつといえる木造格子屋根を持つ「市立中央図書館」や、活動・発表の場となるスタジオ等を備え、岐阜市の市民活動を積極的に支援する「市民活動交流センター」、展示や発表会、講演会やセレモニーなど多様な使い方ができる「みんなのホール」、「みんなのギャラリー」のほか、国際交流の場となる「多文化交流プラザ」も開設しています。
施設の理念
「根から知を 枝葉でふれあい花さかせ 明日への種を創り育む」
多くの人に役立つ知識にあふれ 様々な活動を通じた人と人との交流を生み出し 地域の文化とより良い地域社会の創造につながる 都市の未来を築く礎となることを目指します。
みんなの森 ぎふメディアコスモスの名前の由来
名称募集に伴い全国から応募いただいた作品の中から、以下の想いが込められた作品を基にしています。
「知と文化、絆」を育む拠点として、様々な情報が国内は言うに及ばず宇宙にまで広がっていくことを期待しています。
この作品に、緑を含め利用される市民が主人公であるという意味を込めて、「みんなの森」という言葉を加えました。
(詳細・画像は下記のURLからご覧ください。)
ZIPANG TOKIO 2020「なんだ、これは!!岡本太郎画伯もきっと驚く『みんなの森 ぎふメディアコスモス』(後編)」
https://tokyo2020-summer.themedia.jp/posts/3534047
御料鵜飼・皇室の鵜飼御視察
「御料鵜飼」とは、宮内庁式部職鵜匠としての職務で、禁漁区である「御料場」で、皇室に納める鮎を捕る鵜飼のことです。鵜飼シーズン中に8回行われます。
漁のみで観覧客のいない「平御料」と、宮内庁が駐日外国大使・公使夫妻などを招待して鵜飼を見せる「本御料(外交団接待鵜飼)」の2種類があります。
外交団接待鵜飼では、鵜飼観覧船の両側に鵜舟がついて狩り下ることもあるほか、御料場の下流で総がらみが行われたりするなど、通常の鵜飼とは一味違います。
御料場では、皇族方による鵜飼御視察もあります。近年では、1997(平成9)年に天皇皇后両陛下が、2005(平成17)年に秋篠宮(あきしののみや)同妃両殿下が、2012(平成24)年に皇太子殿下が鵜飼をご視察されました。
信長公の愛した鵜飼
鵜飼を「見せる(=魅せる)」ことでおもてなしの手法として最初に取り入れたのが、織田信長です。
1568(永禄11)年6月上旬、武田信玄の使者である秋山伯耆守(ほうきのかみ)が、信長の嫡男・信忠と武田信玄の娘・松姫との婚約に伴い、祝儀の進物を届けに岐阜の信長のもとを訪ねました。
岐阜来訪から三日目、信長は秋山伯耆守を鵜飼観覧に招待しました。この時、信長は鵜匠を集めて鵜飼を見せるように命じています。また、秋山伯耆守の乗る船を信長が乗る船と同様にしつらえたり、鵜飼観覧後も、捕れた鮎を信長自ら見て、甲府へ届けさせる鮎を選んだりするなど、信長流のおもてなしが最大限に発揮されていました。
(詳細・画像は下記のURLからご覧ください。)
ZIPANG-2 TOKIO 2020「信長公のおもてなし 清流長良川鵜飼 1300年以上の歴史と伝統 今年も開幕しました!~ 岐阜 ~」
https://tokyo2020-2.themedia.jp/posts/4403997
天下の奇祭、勇ましい起し太鼓
飛騨の春はここから始まる!『古川祭』
飛騨市「古川祭」の落ち着いた町並み。門口の提灯が祭に華をそえている。
名古屋の祭もかっては町内ごとに・・・
『古川祭・起し太鼓』と、北島三郎氏の「まつり」の映像を観ていたら思わずそんな想いが湧いてきました。皆さんは如何ですか?
それでは、まず高山市(荘川含む)や白川郷は知っているけれど、飛騨市って飛騨高山のことじゃないの?と勘違いされている方のために飛騨市の概要からご説明いたします。
飛騨市概要
平成16年2月1日に、古川町、河合村、宮川村、神岡町の2町2村が合併し、飛騨市が誕生しました。 飛騨市は、岐阜県の最北端に位置し、北は富山県、南は高山市、西は白川村に接しており、県庁所在地の岐阜市から約150km、高山市の北約15kmに位置しています。
周囲は3000mを越える北アルプスや飛騨山脈などの山々に囲まれ、総面積792.53平方キロメートルの約93%を森林が占めています。年間を通しては、平均気温11度で四季の移り変わりを肌で感じることができ、とても自然に恵まれた地域です。
全国の33件「山・鉾・屋台行事」のひとつとして「ユネスコ無形文化遺産」に登録がされました。 全国に名を馳せる「古川祭」は、町内にある気多若宮神社の例祭で国の重要無形民俗文化財にも指定されている伝統神事です。
この祭は、神社での神事、古式ゆかしい「御神輿行列」が中心となって、"動"の「起し太鼓」と"静"の「屋台行列」が二大祭事として加わり、三つの行事群により4月19日、20日の2日間に渡って盛大な時代絵巻が繰り広げられます。飛騨の春の始まりです。
是非皆さんお出かけ下さい。
(詳細・画像は下記のURLからご覧ください。)
ZIPANG TOKIO 2020「飛騨の春はここから始まる!4月19日、20日 天下の奇祭、勇ましい起し太鼓、絢爛豪華な屋台の曳揃え、神事の御神輿行列 三位一体の『古川祭』」開催!
https://tokyo2020-summer.themedia.jp/posts/2078567
ユネスコ無形文化遺産登録記念
『高山祭屋台の総曳き揃え』
高山祭
16世紀後半から17世紀が起源とされる高山祭は、春の「山王祭」と秋の「八幡祭」があります。
春の高山祭(山王祭)は日枝神社の例祭で毎年4月14日・15日に開催されます。また、秋の高山祭(八幡祭)は櫻山八幡宮の例祭で毎年10月9日・10日に開催されます。高山祭とはこのふたつをさす総称で、日本三大美祭(日本三大美祭とは 高山祭、祇園祭、秩父夜祭)のひとつに上げられています。
祭の起源は飛騨の領国大名金森氏の時代(1585年から1692年)、屋台の起こりは1718年頃といわれ、巧みな人形の動きを披露するからくり奉納や、仕掛けが施された戻し車など、匠の技が生きています。
(詳細・画像は下記のURLからご覧ください。)
ZIPANG TOKIO 2020「春の高山祭(山王祭)と 55年ぶりに春と秋の祭屋台23台曳き揃え ユネスコ無形文化遺産登録記念『高山祭屋台の総曳き揃え』のご案内」
https://tokyo2020-summer.themedia.jp/posts/2218255
飛騨高山の魅力
奥飛騨温泉郷 新穂高温泉
昭和30年代の終わり頃から数年間、春夏秋冬、学校が休みになると名古屋から友人の親戚のある飛騨高山に通ったものです。
その時代は、今のように飛騨街道がまだ整備されていなくて道路は地道で、対向車が来るとどちらかがストップして道を譲り合いながら通行しなければならなかったため、当時は大変不便に感じていました。しかし今振り返ってみると、なんとなく懐かしく微笑ましい光景でもあります。
飛騨金山、白川、下呂・萩原を通過して突き当たりの町、小坂を左に折れ(右に折れると、鈴蘭高原や御嶽山の中継地点の濁河温泉がある)しばらく走ると宮峠です、山の陽の落ちるのは早く、その頃にはすっかり辺りは夕闇で、曲がりくねった峠の上から高山の町を眺めると彼方の家々の山吹色の灯りが点々とみえたような記憶がありますが、もう何十年も前のこと、それはひょっとすると富山から神岡~数河高原を抜け古川を経由して高山の町に入る手前の絶壁のような峠からの眺めだったのかもしれません?
とにかく雪道に高山の町の灯りが見えた時には「無事やっと着けた」と峠の我が家のようにほっと肩を撫で下ろしたものでした。
今、どこから高山に入るにも本当に便利になりました。まるで時が止まっているかのような飛騨の里。ご紹介したいところばかりですが、幾つかに絞ってご案内いたします。
日下部民藝館(国指定重要文化財)
友人のご先祖様のお住まいです。明治12年に建築されたものです。いかにも雪国の民家らしく、低く深く、しかも重々しい軒。どっしりした構えの中に美しい出格子、隣り合う吉島家とともに明治以降の町家建築としては、初めて重文に指定されました。
豪快に組み上げられた梁組みと広い土間が表す空間美は、江戸時代そのままの技法を最大に生かした民家建築の集大成とも言える建築物です。
JR高山駅より徒歩17分
飛騨の匠 「かにかくに物は思はじ飛騨人の打つ墨縄のただ一道(ひとみち)に」
この「万葉集」の歌は、飛騨の匠が墨縄で付けた一本の線に、作者が自らの一途な恋心を重ねたものです。万葉集がつくられた奈良時代、すでに飛騨の匠がよい腕を持った大工としての代名詞であったことが伺えます。
(詳細・画像は下記のURLからご覧ください。)
ZIPANG TOKIO 2020「飛騨高山の魅力 伝統・自然・温泉・町並み・人情・・・」
https://tokyo2020-summer.themedia.jp/posts/1155365
下呂の田の神祭り
下呂温泉 美人の湯を堪能!
1000年の歴史をもつ下呂温泉。
傷ついた一羽の白鷺が温泉のありかを知らせたという伝説がある。
飛騨川の流域に湧く下呂温泉は室町時代京都五山の僧万里集九や、徳川家康から四代の将軍に仕えた儒学者林羅山により、兵庫県の有馬温泉、群馬県の草津温泉と並ぶ「日本三名泉のひとつ」と称された天下の名泉である。
(清少納言は、枕草子で日本三名泉は有馬温泉、榊原温泉、下呂温泉と書き記しておりますので念のため。いずれにしても下呂温泉はどの時代でも名泉と謳われている。
平安美人・清少納言の銅像も建てて欲しいな~)温泉街は飛騨川を中心に歓楽的な賑わいと山里の風情が調和して、下呂温泉の魅力を醸し出している。
国指定重要無形民俗文化財「下呂の田の神祭り」につきましては
(詳細・画像は下記のURLからご覧ください。)
ZIPANG TOKIO 2020「飛騨路に春を告げる 下呂の田の神祭り(国指定重要無形民俗文化財)と下呂温泉 美人の湯を堪能!」
https://tokyo2020-summer.themedia.jp/posts/3693829
“日本一のロングラン”の盆おどり「郡上おどり」
<郡上おどりを楽しむポイント>
●呉服店でお気に入りの浴衣をレンタルしよう
郡上おどりは誰でも参加可能で、踊る服装も自由ですが、浴衣を身にまとうとぐっと雰囲気が高まります。
●下駄屋さんで自分だけの「踊り下駄」を作ってもらおう
下駄はカーンカーンと鳴らす音で悪霊を追い払うという意味合いのほかに、リズムを合わせるのに欠かせないアイテムです。特に郡上おどりの曲目のひとつ「春駒」は下駄を打ち鳴らす動作が多く、下駄を鳴らして踊るのが醍醐味です。
●呉服店でお気に入りの浴衣をレンタルしよう
郡上おどりは誰でも参加可能で、踊る服装も自由ですが、浴衣を身にまとうとぐっと雰囲気が高まります。
●下駄屋さんで自分だけの「踊り下駄」を作ってもらおう
下駄はカーンカーンと鳴らす音で悪霊を追い払うという意味合いのほかに、リズムを合わせるのに欠かせないアイテムです。特に郡上おどりの曲目のひとつ「春駒」は下駄を打ち鳴らす動作が多く、下駄を鳴らして踊るのが醍醐味です。
●限定の手ぬぐいをゲットして踊り子スタイルを完成させよう
男性は首から、女性は浴衣の襟元や帯に手ぬぐいをかければ、立派な踊り子スタイルの完成です。毎年デザインの変わる数量限定の手ぬぐいも販売されます。今夏の思い出にぜひ手に取ってみてください。
●郡上八幡博覧館や郡上八幡旧庁舎記念館で郡上おどりのレッスンを受けよう
初めてでも楽しく参加できるのが郡上おどりの魅力ですが、少し練習しておくと踊りの輪に入りやすくなり、更に楽しむことができます。町の施設では郡上おどりの実演やレッスンも行っています。
(詳細・画像は下記のURLからご覧ください。)
ZIPANG-7 TOKIO 2020“ユネスコ無形文化遺産”登録後初 “日本一のロングラン”の盆おどり「郡上おどり」4年ぶりに完全復活!
https://tokyo2020-7.themedia.jp/posts/45666731/
戸田氏鉄公の城~尼崎城と大垣城~
藩主氏鉄の大垣城入り
大垣城は、岐阜県大垣市郭町にある平城です。 別名、巨鹿城(きょろくじょう)とも呼ばれています。 現在は大垣市指定史跡となっています。 現在の天守は、鉄筋コンクリート構造の復元天守です。 この大垣城は築城当時は、牛屋川を外堀の代わりに利用し本丸と二ノ丸のみのであったと伝えられております。
1649年(慶安2年)に 戸田氏鉄が大垣に移封されて、城が改築されて最終的な姿とされています。 戸田氏が城を改修した後は並郭式に本丸と二ノ丸を並べ、その周囲を三ノ丸で囲い、更に外周は惣構としていました。
本丸には北西隅に4重4階(3重4階とも)の複合式層塔型天守を上げ、3重櫓1基に2重櫓を3基、二ノ丸に月見櫓など3重櫓を4基、三ノ丸には2重櫓4基、平櫓1基などが建て並べられ、本丸に2つ、二ノ丸に1つ、三ノ丸に大手門など大小5つ、外郭に南大手門など大小7つの門が開かれていました。
以降、明治維新に至るまで大垣藩戸田氏の居城となっていました。
(詳細・画像は下記のURLからご覧ください。)
ZIPANG-2 TOKIO 2020「尼崎『幻の城』築城!戸田氏鉄公の城~尼崎城と大垣城~」
https://tokyo2020-2.themedia.jp/posts/4717264
織田信長の叔母
女城主の里 岩村(いわむら)
11月24日(金)、25日(土)、26日(日)の3日間にわたり名古屋市において(一社)日本色彩学会の全国大会が開催されることは、先般当サイトにおいてプレイベント、シンポジウム・ワークショップ等ご紹介したところです。その折に名古屋市内の見どころ情報も併せて掲載いたしました。
ところで最近、歴史好きの方たちに大変人気の日曜日夜8時からのNHK大河ドラマ「女城主 直虎」、同じ時代に活躍したもうひとりの女城主の城が、名古屋から比較的近い所に在ります。この機会にご紹介したいと思います。余談ですが、その近くには桜吹雪の南町奉行「遠山金四郎」の御親戚筋もお住まいとか・・・
岩村藩士の家に生まれた娘がいました。
その娘は17歳で上京する折、故郷の三国山の峠で
「綾錦着て帰らずは三国山 またふたたびは越えじとぞ思ふ」という歌を詠んでいます。
また、なんと6歳にして桜田門外の変を聞き、俳句で「桜田に 思い残りて 今日の雪」と詠んだとのことです。
その和歌の才能で皇后・美子から寵愛され「歌子」の名を賜ったのが、神童といわれた下田歌子でした。英国留学後皇女の教育係りを経て、実践女子学園の基礎を築きました。
その後、実践女子大学のOGで女優の渡辺美佐子が、岩村城の女城主になったのは、あまりにも有名な話です。
織田信長公の叔母にあたる「女城主」を紹介いたします。
岐阜県の東南、日本のほぼ真ん中に位置し、自然豊かで歴史の足跡が色濃く残る恵那市。 市街地から車で約20分の岩村町は、戦国の世に翻弄されながら必死に生きた、おんな城主の逸話が残ります。
(詳細・画像は下記のURLからご覧ください。)
ZIPANG TOKIO 2020「女城主の里 岩村(いわむら)織田信長の叔母にあたる、女城主を紹介します」
https://tokyo2020-summer.themedia.jp/posts/3249467
元岩村城天守閣の天井絵「八方にらみの龍」
元岩村城天守閣の天井絵「八方にらみの龍」明治維新に廃城になった岩村城より移築された「八方睨みの龍」と称される天井絵です。畳八畳分の天井絵でどこからみても龍が睨んでいるように見えることから、このように呼ばれる。
移築地は最後までご覧いただくとわかりますので・・・
山里の伝統的民家とは
~草屋根風の古い民家、
先人の生活を偲ばせる数々の民具は生活の知恵と技を教えてくれます~
国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された岩村城下町
明知鉄道岩村駅から岩村城跡までをつなぐ本通りに広がる女城主ゆかりの城下町。全長1.3kmの古い町並み周辺には当時の面影を残す商家やなまこ壁、旧家が今も佇みます。
山々を望みながら歩くと、それぞれの店先に見えてくる暖簾。城下町では「女城主」にち なみ、暖簾に「おかみさん」の名前が入っています。400 年前、戦乱の時代を生きた「おつや」を偲んで、代々続けられてきました。
家々の軒下に掲げられているのは岩村が生んだ偉人「佐藤一斎」の碑文。
「この人物がい なかったら、日本の夜明けはなかったかもしれない」
とまでいわれる江戸時代後期の儒学者で、著書『言志四録』は西郷隆盛、勝海舟、坂本龍馬など、幕末の志士に大きな影響を与え ました。
佐藤一斎「名言」
一灯をさげて暗夜を行く。暗夜を憂うなかれ、一灯を頼め。
少年のときはまさに老成の工夫を著すべし、老成のときはまさに少年の志気を存すべし。
春風をもって人に接し、秋霜をもって自ら慎む。
少にして学べば、壮にして成すあり。壮にして学べば、老いて衰えず。老いて学べば、死して朽ちず。
江戸時代に岐阜・東濃の政治・経済・文化の中心として栄えた城下町は、今も歴史的景観を保ちながら、訪れる人を受け入れています。
岩村伝建地区の建築的特徴
(詳細・画像は下記のURLからご覧ください。)
ZIPANG TOKIO 2020「女城主岩村城下町 山里の生活の中で生きるその土地の伝統的民家とは &(一社)日本色彩学会 平成29年度研究大会 NAGOYA」
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虎渓山 永保寺
夢窓国師作庭『永保寺庭園』
周辺の自然風景を借景に造られた庭園で、夢窓国師の作庭と伝えられる。国の名勝「永保寺庭園 無際橋」「永保寺庭園 梵音巌」舟遊、回遊、鶴亀の蓬莱と多彩な形式をもちい、自然の地形を見事に活かしている。巨大な岩盤から流れ落ちる滝は、仏の声を聞くとして「梵音巌」と名付けられている。清々しく爽やかで秋の紅葉は見事であり、冬の景色もまた別格である。
虎渓山略縁起
山号は虎渓山。
虎渓の名称は景色が中国廬山の虎渓に似ていることによるといわれています。1313年(正和2年)土岐氏の招きをうけた夢窓疎石が長瀬山の幽境に庵居しこの禅寺を開創されましたが、 1317年(文保1年)夢窓は同門の元翁本元(仏徳禅師)に寺の後事を託して上京されました。
1335年(建武2年)夢窓が臨川寺(京都)開山となられたとき、永保寺開山は元翁本元に改められました。 元翁の寂年は1331年(元弘1年)で、開山となられた時にはすでに遷化されていましたが、 元翁の塔所である南禅寺正的庵末寺の五山派寺院として展開しました。
しかし文明期以後には衰微しましたが、江戸時代の1746年(延享3年)には末寺28ケ寺、孫末寺1ケ寺を有し、 山内塔頭(たっちゅう)の輪番によって住持をつとめ護持されてきました。
現存する開山堂と観音堂は国宝に指定され、 両堂には南北朝期から室町初期における歴代住持や檀那の位牌が納められ、 開山堂には元翁本元と夢窓疎石の木像が安置されています。
絹本着色千手観音像(重要文化財)のほか、夢窓や元翁の墨跡など数多くの文化財を所蔵し、 観音堂前の庭園は臥竜池と称する池に反り橋の無際橋がかかり、浄土教的庭園の様式を感じさせる名庭で、 国の名勝に指定され、建築・庭園・墨跡など禅の美術で注目される禅寺です。
また近世末期には白隠慧鶴の一系に属する春応禅悦(霊機神応禅師)により僧堂が開かれ、 雲水が禅の修行に励む臨済宗南禅寺派の専門道場(虎渓僧堂)を併設しています。
夢窓国師
夢窓疎石は文永の役(一度目の元寇)の翌年、1275年に伊勢の国にお生まれになりました。
9歳で出家し、一山一寧や高峰顕日のもとに参禅されました。30歳の頃に悟りを開き、権勢に近づくことを好まず、諸国に小庵を建てて修行に励まれました。
1312年、三河鳳来寺の大徳寺を開かれ、一年あまり逗留されました。
1313年、夢窓疎石38歳の頃ですが、高峰顕日のもとで一緒に修行していた元翁本元とともに 土岐頼貞に招かれて長瀬山に来られました。
三河の大徳寺から来られたようですから、足助、土岐市を経由し、 現在の小名田・高田町を流れる川沿いに長瀬山をめざされたと考えられます。
夢窓疎石はこの地にしばしば逗留されること4年、1317年には虎渓山から出られることになりました。
(詳細・画像は下記のURLからご覧ください。)
ZIPANG TOKIO 2020虎渓山 永保寺 夢窓国師作庭『永保寺庭園』と『虎渓山のパワースポット』」
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織田信長公にえらばれし町
近江八幡市「安土エリア」見所ご紹介
安土城跡
近江の守護佐々木六角氏の居城“観音寺”や織田信長公の最後の居城“安土城”など歴史的な舞台となったエリア。 ハイキングやサイクリングで、四季の彩りを感じつつ戦国武将ゆかりの社寺仏閣や足跡めぐりがおススメです。
文芸の郷(信長の館)
スペイン・セビリア万博(1992年)で原寸大に復元された安土城天主(5・6階)が収蔵・展示されている。 内部には狩野永徳に描かせた「金碧障壁画」を復元。金箔10万枚を使用した外壁や金の鯱をのせた大屋根など絢爛豪華な安土城が蘇っている。このほか、織田信長関係の資料も展示。
住所 近江八幡市安土町桑実寺800番地
連絡先 0748-46-6512
老蘇の森 奥石神社
国道8号線より旧中仙道に入り石の鳥居をくぐり 、両側に杉の大木が林立する参道を100mほど進むと、正面に奥石神社の社殿が立ち並ぶ。 玉砂利が敷き詰められたゆったりした境内に入ると、静寂そのものの別世界となる。
この社、奥石神社は延喜式内社で御祭神として「天児屋根命」(あめのこやねのみこと)をお祀りしている。
本殿は天正9年織田信長が家臣柴田家久(勝家の一族)に命じて造営せしめたもので 国指定重要文化財となっている。
三間社流造で、桧皮葺の豪華の中に優美な落ち着きを持った建造物。
境内中央にどっしりした拝殿、本殿に向かって左には摂社諏訪明神社(市指定文化財)が鎮座する。
(詳細・画像は下記のURLからご覧ください。)
ZIPANG-5 TOKIO 2020 ~ 織田信長公にえらばれし町 ~ 近江八幡市の見どころ(Ⅱ)
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秀吉は織田信長の一字をとり長浜とする
長浜曳山まつりは、長浜八幡宮の春の祭礼
その始まりは、羽柴(後の豊臣)秀吉が、今浜(今の長浜)に初めての城を構えたころまでさかのぼります。(秀吉は織田信長の一字をとり長浜とする)
長浜曳山まつりの一番の見所は子ども狂言(歌舞伎)です。 長浜の子ども狂言(歌舞伎)は、寛保2年(1742)の台本や、明和6年(1769)以降の外題記録などから、この頃から歌舞伎が行われていたことがわかっています。
長浜の町衆は祭礼に出る曳山と当時流行っていた歌舞伎をつないでいち早く取り入れ、まちなかを巡行させて移動芝居の場に仕立て、今日あるような祭礼をつくりあげました。
長浜では歌舞伎のことを「狂言」または「芸」と呼び、曳山を持つ町(山組)の5歳から12歳くらいまでの男子によって演じられます。
演目は曳山の四畳半舞台と子ども役者用にアレンジされます。また、毎年新しい演目で演じられ、長浜独自の外題(題名)がつけられます。
上演時間は約40分で、本番の前に行われる線香番と呼ばれる公開稽古で時間が計られます。子どもたちの稽古は振付師の指導により、3月下旬(春休み)から4月の祭本日まで約3週間行われ、まず読み習いがあり、それに続いて立ち稽古を行い、最終的に三味線・太夫と合わせて本番を迎えます。
長濱八幡宮
長浜城主、秀吉公の厚い保護のもと千年の歴史をもつ長浜の氏神様です。 4月15日の春季例大祭には「長浜曳山まつり」が催されます。桜の花だよりと共に祭り囃子が聞こえ、絢爛豪華な「曳山」と、曳山の舞台の上で披露される「子ども歌舞伎」は見ごたえがあります。
由緒
長濱八幡宮は延久元年(西暦1069年)、源義家公が後三条天皇の勅願を受け、
京都の石清水八幡宮 より御分霊を迎えて鎮座されました。それよりこの地は八幡の庄と称えられ庄内十一郷の産土 (うぶすな)の神として深く崇敬される事となりました。
当時その社頭は三千石、一山七十三坊と 伝えられ、本宮の石清水八幡宮を凌ぐくらいであったといわれます。しかし、その後、しばしば 兵火にみまわれ、その社殿はほとんど消失されました。
時は流れ、天正二年(西暦1574年) 羽柴秀吉公が長浜城主となるや、その大社の荒廃を惜しみ、社殿の修理造営をなし再興に 努めました。この史実は、長浜曳山祭の起源とも言われています。
秀吉の長浜城
織田信長が浅井長政(あざいながまさ:信長の妹・お市の夫)の居城、小谷城(おだにじょう)を攻めたとき、横山城を守る木下藤吉郎(きのしたとうきちろう:後の豊臣秀吉)は大活躍しました。小谷城が落城する直前にお市と三人の娘を救出したエピソードは有名です。
天正元年(1573)9月、浅井氏が滅亡すると、藤吉郎は戦功により浅井氏の領地の大部分を与えられ、 羽柴秀吉(はしばひでよし)と名乗り、はじめて城持(しろもち)の大名に出世しました。
翌年、今浜(いまはま:現在の長浜)が交通の要衝であると考え、お城を造り始めました。築城工事のため領内の住民を集めたり、竹生島(ちくぶしま)の材木を運んだりした古文書は残っていますが、当時のお城の絵図面などもなく、長浜城がどのようなものだったか分からないことがたくさんあります。
天正3年秋頃、お城が完成すると地名を今浜から「長浜(ながはま)」に改め、秀吉は小谷城から家族とともに移り、天正10年(1582)まで住んでいました。 この間、秀吉はこの長浜城から信長の先兵として北陸攻めや中国攻めへと出発していったのです。
(詳細・画像は下記のURLからご覧ください。)
ZIPANG TOKIO 2020「無形文化の伝承こそ長浜市の誇り!ユネスコ無形文化遺産 日本三大山車祭『長浜曳山まつり』4月開幕!」
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信長が天下統一を志した時代を紹介
名古屋市秀吉清正記念館
名古屋市秀吉清正記念館
秀吉清正記念館のある中村区はじめ名古屋市の各区、各地名は、変遷を繰り返して現在の区域や名称になりました。
江戸時代以前の中村区周辺は、尾張国愛知郡中村郷という地名でした。 明治22年(1889)、名古屋市という行政組織と地名が生まれ、今の栄を中心とする地域が名古屋市になりました。
中村一帯は名古屋市には含まれず、愛知郡の一部になりました。明治41年、名古屋市は四区制となり中区、東区、西区、南区に分けられましたが、中村は愛知郡のままでした。
大正10年(1921)、名古屋市が拡張され、周辺の町や村が名古屋市に大併合されました。このときはじめて中村周辺は名古屋市に含まれ、北側が当時の西区、南側が中区に併合されました。さらに昭和12年(1937)10月1日、西区と中区から分区され、中村区が誕生しました。
今年は、中村区が誕生して80年になります。
尾張の戦国大名、織田信長はしだいに勢力をのばし、1568年(永禄11)に室町将軍・足利義昭を助けて、京(今の京都)に入りました。
秀吉は信長に仕え、長浜城主(現・滋賀県)、次に姫路城主(現・兵庫県)に取り立てられ、力をつけていきます。信長は1573年(元亀4)に室町幕府を滅ぼしますが、1582年(天正10)、本能寺で明智光秀に討たれ、天下統一を目の前にして倒れました。ここでは信長が天下統一を志した時代を紹介します。
名古屋市秀吉清正記念館は、名古屋市中村区に生まれた2人の武将、豊臣秀吉と加藤清正に関する資料を収集し、展示する歴史博物館です。
常設展は、織田信長が天下統一へ向かったころから、秀吉の天下統一、そして大坂の陣で
豊臣氏が滅亡するころまでを、5テーマに分けて紹介しています。また、毎年秋には、特別陳列を開催します。このほか、館蔵資料を中心とした特集展示、写真パネル展を随時開催しています。
中村公園文化プラザ内にあり、同じ建物に中村図書館、中村文化小劇場があります。記念館がある中村公園周辺には、秀吉・清正の生誕地碑、豊国神社、妙行寺(みょうぎょうじ)、常泉寺(じょうせんじ)など、多くの史跡があります。
記念館を出発点にしての、歴史散歩も楽しいでしょう。
「本能寺焼討之図」 秀吉清正記念館蔵 明治 楊齋延一画 大判三枚続 本能寺の変を描く浮世絵。右端が織田信長、中央が明智光秀配下の安田作兵衛、左端が森蘭丸。
(詳細・画像は下記のURLからご覧ください。)
北斎が名古屋に住んでいたとは?しかも北斎漫画が名古屋で描かれたそうですよ。
ZIPANG TOKIO 2020「(一社)日本色彩学会 平成29年度研究会《NAGOYA》大会及びLOJ&LC 大会前日(11月24日・金)プレ企画(見学・懇親会)のご案内(第一報)」名古屋市秀吉清正記念館ほか多数の見どころ!
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日本遺産 伊賀忍者の史跡
忍術の発祥 紀元前4000年頃に古代インド文化
忍者たちから忍者の祖として崇められていた「役行者」
忍術の歴史は、紀元前4000年頃に古代インド文化が中国大陸に伝えられ、そして西暦6世紀頃に、中国から朝鮮半島を経て日本に伝わった「兵法」に求められる。大陸的な兵法は日本で山岳的な兵法へと発展し、今日知られるような忍術が完成しました。
歴史を通じて発展した忍術の流派はいろいろありましたが、その中でも伊賀流(三重県伊賀市・名張市)と甲賀流(滋賀県甲賀市)の忍術は、その起源が同じで、もっとも優れた忍術といわれている。
赤目四十八滝
「赤目」の名は、役行者がこの地で修業をしている時、不動明王が赤い目の牛に乗って現れたという伝説に由来する。古来、役行者をはじめとする山伏の修行の地として知られ、三大上忍の百地丹波守も修行をしたといわれている。
(詳細・画像は下記のURLからご覧ください。)
ZIPANG TOKIO 2020「日本遺産 伊賀忍者の史跡 そのⅠ (参の巻)」
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甲賀忍者
軍神として崇められた聖徳太子
真田十勇士とは戦国末期、信州・上田城武将「真田幸村」の家臣で、大坂冬の陣、夏の陣に、大坂方のために大活躍した十人の勇士。その武勇伝は明治末から大正初期にかけて講談本「立川文庫」によって創作された。
甲賀忍者でずば抜けた忍術の持ち主「猿飛佐助」、伊賀忍者で百地三太夫の弟子「霧隠才蔵」怪力の「三好清海入道」弟の「三好伊三(いさ)入道」鎖鎌の達人「由利鎌之助」や、筧(かけい)十造、海野六郎、望月六郎、穴山小助、根津甚八、十勇士はそれぞれ得意の武芸で徳川方と戦ったのであった。
昭和20年代、悪ガキたちは、カバヤ文庫から発刊される十勇士の物語を胸躍らせながら読んだものでした。
忍者ってかっこいい?
忍者って、本当にいたんだろうか。 漫画や、映画、そして小説などによく出てくるし、スーパーマンの様に人間ばなれした活躍をするが、本当にそんな事ができたんだろうかと疑問がうかぶけど、実際はどうなんだろう。
我々のもっているイメージと、現実はずいぶん違う様である。忍者の行動は、遊びやスポーツではない。生活がかかっているだけではない。その一つ一つの動きには命がかかっている。失敗は一度たりとも許されない、真剣勝負の連続で、張り詰めた緊張の中での動きが要求される。
そのため、つね日頃から厳しい訓練と、その訓練に耐えるだけの頑健な身体である事がまず第一で、その技も、術も、人に見せるものでもなく、唯ひたすらに常に自分自身を切磋琢磨して来たるべきときに備えるという、まったく割りの合わない仕事である。
「忍術は国家を安平にして大敵悪党を滅ぼす術なり」又、「音もなく、臭いもなく、知名もなく、勇名もなし、その功天地造化の如し」ともいわれる。
様々な忍者の流派
忍術の流派、甲賀流、伊賀流はよく知られているが、それだけではない。日本全土には、四十九流派もあったと言われている。
その内訳は、北から
青森県「中川流」、山形県「羽黒流」、新潟県「上杉流」「加治流」、栃木県「福智流」「松本流」、長野県「芥川流」「青木流」「戸隠流」「伊藤流」、山梨県「甲陽流」「武田流」「松田流」「忍甲流」「忍光流」、神奈川県「北条流」、愛知県「秋葉流」「一全流」、福井県「義経流」、三重県「理極流」「辻一務流」「服部流」「滝流」「義盛流」「内川流」「滝野流」「沢流」「伊賀流」、滋賀県「甲賀流」、奈良県「飛鳥流」「秀郷流」「九州流」「蒲生流」「楠流」、和歌山県「名取流」「新楠流」「雑賀流」「根来流」「紀州流」、岡山県「備前流」、広島県「福島流」
などなど、まだ他にもあった。
それぞれの流派は、主君の為に又それぞれの地域の発展の為に活躍をしていたのだが、甲賀、伊賀ほどに存在した事すら知られていない。
忍者の活躍自体は、表街道で派手に立ち回るものではない裏稼業の様なもので、歴史上に記録として残ったり、名前が残ったりしないのが本来の姿なのである。
たまたま甲賀と伊賀は、都が京都であったのと戦国の時代、天下を争った武将「信長、秀吉、家康」が全部、愛知県の出身でちょうどその中間に位置し、交通の要衝であったので、歴史上の物語に登場する場面が多く、甲賀、伊賀が脚光を浴びる事になったのである。
忍者にスターはいない?
(詳細・画像は下記のURLからご覧ください。)
ZIPANG-7 TOKIO 2020日本遺産~忍びの里 伊賀・甲賀~甲賀忍者 軍神として崇められた聖徳太子
https://tokyo2020-7.themedia.jp/posts/42083048/
加賀藩祖・前田利家公
金沢百万石まつりとは
百万石まつりの由来
金沢百万石まつりは、加賀藩祖・前田利家公が天正11(1583)年6月14日、金沢城に入城し、金沢の礎を築いた偉業をしのんで開催されています。6月14日の日付は尾山神社誌に基づきます。
尾山神社での封国祭に合わせて、大正12年から昭和20年まで金沢市祭として行われてきた奉祝行事がルーツで、終戦後は進駐軍の指導により昭和21年から6年間、尾山まつりとして尾山神社奉賛会によって開催されました。
現在の金沢百万石まつりは、昭和27年に金沢市と金沢商工会議所が中心となって開催した商工まつりが第1回目となります。その後、豪華絢爛な百万石行列をはじめ、400年にわたり受け継がれてきた金沢ならではの伝統ある行事が賑やかに繰り広げられる現在の姿に発展しました。
昭和59年(第33回)に初めて、百万石行列の主役である利家役に俳優を起用して以降、全国に発信できる初夏の一大イベントに成長しました。
まつりに関わる歴史上の人物紹介
加賀百万石を語る上で切り離すことのできない歴史上の人物。
名前は知っているけれど何をした人?ここでご紹介します。
まずは、
「槍の又左」の異名をとった
前田利家公から
(詳細・画像は下記のURLからご覧ください。)
ZIPANG-6 TOKIO 2020 第71回 金沢百万石まつり 開幕迫る!
https://tokyo2020-6.themedia.jp/posts/34794823/
『松島や ああ松島や 松島や』
伊達政宗と仙台藩の文化
仙台藩を築いた伊達政宗については、戦国大名として政治・軍事面での活躍は広く知られているところですが、その一方で時代を代表する文化人でもありました。
上方に負けない気概で自らの“都”仙台を創りあげようと、政宗は古代以来東北の地に根づいてきた文化の再興・再生を目指しました。
伊達家で育まれた伝統的な文化を土台に、上方の桃山文化の影響を受けた豪華絢爛、政宗の個性ともいうべき意表を突く粋な斬新さ、さらには海外の文化に触発された国際性、といった時代の息吹を汲み取りながら、新しい“伊達”な文化を仙台の地に華開かせていったのです。
そして、その文化は政宗だけに留まらず、 時代を重ねるにつれ、後の藩主に、さらには仙台から全国へ、 武士から庶民にまで、さまざまな方面へ広がり、定着し、熟成を加えていきました。
政宗による文化の確立
伊達政宗は、政治の拠点として新たに仙台城を築くにあたり、これまでの伝統を重視する姿勢をみせました。
仙台は古代陸奥国府の所在地である宮城郡に位置することもあり、この地の名所・旧跡の再興と再生に力を尽くしています。
奈良時代の陸奥国分寺跡に薬師堂を建立し、平安時代の坂上田村麻呂にゆかりがあり、室町時代には奥州探題大崎氏の崇敬を受けた大崎八幡宮を仙台に移転させました。
また、鎌倉時代以来、陸奥国随一の名刹と称される松島円福寺を瑞巌円福禅寺として再興しています。その際、畿内から当代一流の技術者を呼び寄せ、手の込んだ彫刻や極彩色からなる装飾性豊かな建造物や、金地に色彩豊かな濃絵で描かれた豪華絢爛な障壁画といった、
桃山文化の豪壮華麗な手法を取り入れました。
その一方で、伝統的な水墨画の世界も取り入れられ、具足や衣装などにも斬新な美意識が徹底されています。さらには南蛮文化の影響も受けており、西洋世界への関心の高まりもみられました。
政宗の文化的素養は、和歌や連歌、茶の湯、能楽、香といった伝統的な文化にも発揮され、これらは伊達家伝来の学を通して身につけられるとともに、当代一流の文化人との交流のなかで磨かれていきました。
政宗以後の文化の広まり
時代を超えた広がり・・・
(詳細・画像は下記のURLからご覧ください。)
ZIPANG TOKIO 2020 「 政宗が育んだ “伊達”な文化 文化庁『日本遺産』認定のご案内 」
https://tokyo2020-summer.themedia.jp/posts/4167359/
八代 編
“石工の郷”「八代」石の匠たちの物語・・・
地域の特徴を活かしてまちづくり
八代の人々は、阿蘇山の噴火活動により堆積した「凝灰岩」や、良質な「石灰岩」の地層が点在する地の環境を活かし、古来より地域で採れる石材を活用してまちづくりを行ってきました。
石工たちは、八代に広大な平野と豊かな実りをもたらした「干拓事業」や、地域の交通を支えた「めがね橋」の架設などに携わり、八代の発展と人々の生活基盤づくりに長きにわたって貢献する中で、己の技を磨き上げ、一介の石工から名石工へと成長していったのです。
斯くの如く八代城の石垣・干拓樋門・石積みの棚田・また、先述のめがね橋など、八代各地に現存するこれらの石造建築物の数々は如何にも八代市の重厚な雰囲気を特徴付けております。
しかし、それ等が同時に多くの名石工を輩出し、この地で脈々と育まれてきたことを物語っています。「石工の郷」の風土は、そうした経緯があったらばこそでした。
『そうか!加藤清正公は、そういう背景があり城づくりの名人と言われた蔭には・・・⁉
肥後の石の匠たちが支えていたのか・・・合点!』
■ 「八代」の日本遺産を巡る、注目スポット&食文化
「八代」に残る、名石工たちの技術を体感することができる、必ず行くべき注目スポットと八代に根付く食文化・ローカルフードをご紹介します。
(詳細・画像は下記のURLからご覧ください。)
ZIPANG-5 TOKIO 2020 世界に誇る熊本の “日本遺産” 領主一族が“700年”統治し続けた「人吉球磨」と“石工の郷”「八代」の魅力に迫る(その2)
https://tokyo2020-5.themedia.jp/posts/21870682
ユネスコ無形文化遺産 新庄まつり
領民を思う藩主の心づかいから始まった
日本が世界に誇る山・鉾・屋台行事
江戸中期の宝暦5年(1755)、凶作飢饉に見舞われた新庄領内では多くの餓死者が出て、これに心を痛めた時の藩主(五代)戸沢正諶は、領民たちを励まし、五穀豊穣を祈願するために、戸沢家氏神の天満宮の「新祭」を命じました。
翌年(1756)から始まったまつりでは、天満宮の神輿が領内を巡行し、町方にはお触れを出して、それぞれが趣向を凝らした飾り物を出すよう仰せつけ、飲酒や賭け事などの取締をゆるやかにしました。気力を失っていた人々は、競って飾り物を作り、華やかな着物に身を包んでまつりに加わりました。城下には見世物や出店が出て、近在からまつりを見に来た人々で大層な賑わいをみせました。
山車は、城下の町人町ごとに作られました。文献によると開始から20年後には、町内から14台もの山車が出ており、そのうち9台が歌舞伎の名場面を模したもので、すでに現在に近い形の山車が作られていたようです。
当時は毎年の開催ではなく、藩主が参勤交代で江戸勤番の時には行われず、藩主が在城の年、隔年ごとに行われていました。
(詳細・画像は下記のURLからご覧ください。)
ZIPANG TOKIO 2020「ユネスコ無形文化遺産『新庄の夏は新庄まつりでフィナーレを迎える』日本が世界に誇る山・鉾・屋台行事(特別編)」
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ZIPANG-3 TOKIO 2020 ~ユネスコ無形文化遺産登録~ 新庄まつり「勇壮にして華麗な3日間。囃子の響きがまちを包み込む、山形・新庄の夏!」始まる
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日本庭園の極致 【 好古園 】
世界遺産・国宝姫路城を借景とした日本庭園
姫路城は法隆寺とともに1993年12月、日本で初めてユネスコ(国際連合教育科学文化機関)の世界文化遺産に登録され、日本に現存する城の中でも世界的に高い評価を受けています。
その理由は、連立式天守をはじめとする独特の建築構造と白鷺城とも呼ばれる美しい形容、要塞として精巧な意匠と工夫の凝らされた巧みな機能、そして城全体がよく保存され、内曲輪の城郭建築がほぼ完全に当時の様式を伝えるところにあります。
姫路城西御屋敷跡庭園「好古園」は、市制百周年を記念して建造された約1万坪の日本庭園で文化財の保全と活用を兼ねた新しい文化の場として平成4年4月29日に開園しました。
整備に先立つ7次にわたる発掘調査で、元和4年(1618)に本多忠政が造営した西御屋敷や武家屋敷、通路跡等の遺構が確認され、これは酒井家時代の「姫路侍屋敷図」に記されたものとほぼ合致しています。
9つの趣の異なる庭園群で構成
庭園の計画は、京都大学教授中村一氏の設計監修を受けたものであり、確認された屋敷割や通路の地割を活かした9つの大小庭園群及びアプローチ樹林帯・広場で構成しています。
また庭園内には、築地塀・屋敷門・長屋門や渡り廊下で結んだ「活水軒」「潮音斎」をはじめ、裏千家第十五代家元千宗室氏の設計・監修による本格的数寄屋建築の茶室「双樹庵」を配しています。
この庭園は池や水の流れで結ばれた池泉回遊式庭園ですが、最大の特徴は世界遺産・国宝姫路城を借景としていることです。
姫路城西の丸一帯の豊かな原始林を借景とした庭園は、歴史と自然が調和した優美な景観を創り上げています
(詳細・画像は下記のURLからご覧ください。)
ZIPANG TOKIO 2020「 世界文化遺産・国宝 姫路城を臨む日本庭園の極致 【 好古園 】 市制百周年を記念して建造 」
https://tokyo2020-summer.themedia.jp/posts/1719021
犬山の見どころ!
国宝 犬山城 犬山祭
有楽苑 国宝茶室「如庵」
信長の実弟である有楽齋の遺構で「国宝三名席」のひとつ。
普段から内部をご覧いただける唯一の国宝茶室で古暦を腰貼りにした暦貼り、竹を詰め打ちにした有楽窓、躙り口など随所に独創的な工夫が凝らされています。
元庵
有楽齋が大阪・天満に構えた茶室を古図に基づいて復元。亭主が上座につく、亭主床と呼ばれる床構えになっています。
弘庵
苑内で四季折々催される茶会のために新築された茶席。つくばいは風雅な音色を奏でる
水琴窟。
旧正伝院書院
如庵に隣接して建てられた有楽齋の隠居所で内部には長谷川等伯や狩野山雪などの襖絵が残っています。(普段は非公開)
有楽苑内の楽しみ方-呈茶-
重要文化財である旧正伝院書院でいただく呈茶。犬山焼の茶器で、有楽苑でしか取扱のない有楽風という和菓子に舌鼓を打ち、のんびりと美しい庭園の風情を楽しめます。
家康好みの尾張最古の銘酒
『荵苳酒(にんどうしゅ)』は尾張最古の銘酒で、創業は慶長2年(1597)です。犬山城主が将軍家に献上しており、徳川家康も好んで飲んだと伝わっております。
木曽川うかい
西暦636年に中国で執筆された隋代を扱った歴史書「随書」に鵜飼のことが書かれています。
日本の鵜飼は一か所を除きウミウですが、中国ではカワウを使います。
ヨーロッパにおいては16~17世紀にかけて鵜飼はスポーツとして行われていました。
竿で魚を釣るように大方の人にできる漁法ではありませんが、鵜飼は一部の人たちによって伝統漁法として現代まで受け継がれてきました、それだけに鵜飼は、日本の伝統として後世に伝えていくべき大変貴重な漁法であると思います。
鵜飼は、美濃国では702年(大宝2年)の各務郡中里の戸籍「鵜養部目都良売(うかいべめづらめ)」の記述が最も古い資料です。この資料から木曽川うかいの起源は、今より1300年前と考えられています。
犬山では、今から340余年前に犬山城3代目城主成瀬正親公が御料鵜飼として始められ鵜匠を保護したと言われています。昔は漁として行っていたため、満月・水の濁ったときは鵜飼をとりやめていましたが、明治42年頃より観光を取り入れて行っているため、増水・台風時以外のときは行われています。
ライトアップされた国宝犬山城を背景に、1300年もの伝統を誇る、幻想的な歴史絵巻が目の前でくり広げられます。
(詳細・画像は下記のURLからご覧ください。)
ZIPANG-4 TOKIO 2020 徳川家康も好んで飲んだと伝わる 尾張最古の銘酒『荵苳酒』と犬山の見どころ!
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江差の こころ をたずねて ~江差追分~いにしえ街道~
エエ町、江差には
家の数だけ印があります。
古くは江戸時代から、江差に住む人たちはみな家印という独特の記号、今でいうアイコンのようなものを持っています。
屋号とも家紋ともまた違う家印は、その家の目印として各家の棟や蔵などに刻まれ、遠く海を渡ってやってくる北前船の指標にもなっていました。
家紋などのように代々受け継がれるだけでなく、家の主となるものは新たにつくることもできるという家印。
それは、一家の理念や願望が記号化された、江差の人びとにとって特別な印なのです。
江差追分
-前 唄-
国をはなれて 蝦夷地が島へヤンサノェー
いくよねざめの 波まくら
朝なタなに聞こゆるものはネ~
友呼ぶかもめと 波の音
-本 唄-
かもめの なく音に ふと目をさまし あれが蝦夷地の 山かいな
-後 唄-
沖でかもめの なく声聞けばネ~
船乗り稼業は やめられぬ
~江差追分は、一度聞いて惚れ、二度聞いて酔い、三度聞いて涙する~
と言われています。
(詳細・画像は下記のURLからご覧ください。)
ZIPANG-2 TOKIO 2020 ~江差・姥神大神宮渡御祭~(その2)「江差の こころ をたずねて ~江差追分~いにしえ街道~」
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この国の原点の風景が息づく
関ケ原古戦場グランドデザイン
関ケ原では、日本の歴史上避けて通れない大きな“天下分け目の戦”が二度ありました。
672年、大海人皇子と大友皇子による、日本最大の内乱「壬申の乱」。
そして1600年、石田三成率いる西軍と徳川家康率いる東軍が東西を二分するこの地で繰り広げた、戦国最大ともいわれる天下分け目の戦「関ケ原の戦い」。
この二度の戦がなければ、今の日本はガラリと変わっていたかもしれません。
関ケ原には今も、どこかなつかしくて、なぜかホッとする、
そんな、この国の原点の風景が、息づいています。
関ケ原という地名の由来は、「関所」のある「原っぱ」だった、という一説があります。 日本三大関所のひとつにも数えられる「不破の関」が置かれていたこと、そして、江戸と京都を結ぶ中山道の六十九宿のうち、「今須宿」「関ケ原宿」、二つの宿場があったことからもこの地が古くから交通の要衝だったことがうかがえます。
現在の「関東」「関西」という呼び名も、“関”ケ原を境にしているとか。
関ケ原は、古き日から今に至るまで、交通の要衝として人々の暮らしを支えています。
力強く萌黄色の若葉が芽吹く春、あくまでも澄み切った紺碧の空と深緑の対比が何やら不穏な胸騒ぎのする美しい夏、戦いの傷痕を癒すかの如き紅葉のグラデーションに染まる秋、何事も無かったかの様に一面、白銀の雪景色と化す冬…そんな、四季を通してどこまでも広がる田園風景も、凛とした竹林の一本道も、どこにでもありそうな田舎道も、道端に咲く一輪の花も・・・
あれから手付かずの自然が残る関ケ原。
(詳細・画像は下記のURLからご覧ください。)
ZIPANG-2 TOKIO 2020~この国の原点の風景が息づく~「関ケ原古戦場グランドデザイン(その1)」
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〜古から✹むらさき✹
色の藤川宿(岡崎市)は天下人家康の生誕地 〜
「ここも三河 むらさき麦の かきつばた」 芭蕉
藤川宿(現在の愛知県岡崎市藤川町辺り)は、東海道の前身である鎌倉街道の時代から交通の要衝とされています。
藤川宿の名物はむらさき麦と藤の花で、「ここも三河 むらさき麦の かきつばた」その美しさは、松尾芭蕉の俳句に詠まれています(句碑は十王堂境内にある)。
平成8年(1996年)には現在もなお重要な歴史的・文化的価値を有する道として、国土交通省の「歴史国道」の選定を受けました。(愛知県では唯一)
岡崎は矢作川の水運や奥三河からの物資集積で栄えた、東海道で三番目の規模を誇る宿場町であり、また徳川家康が生誕した岡崎城の城下町でもあった。
しかし、この町を飛躍的に変えたのは豊臣秀吉家臣の田中吉政でした。吉政は家康の江戸入りの後に岡崎城城主となり、城下を拡張整備したのです。特に東海道を城下町に引き入れ、それ故に「二十七曲り」と呼ばれる屈折の多い道筋となりました。
これは城下防衛とともに、街道筋に店舗を並べ旅人たちを滞留させる経済効果もあったのです。現在も二十七曲りの要所に道標が残り、岡崎城周辺には寺社も多く点在しています。
また岡崎城の北3kmにある大樹寺(徳川家の菩提寺)山門から岡崎城への眺望景観は江戸時代から守られていて、この眺望ラインはビスタラインと呼ばれ、岡崎市民に広く知られています。
“おかまいり”とは
200 年前の人々と同じ道を、同じように歩いて神社と寺院を巡る!
第一番札所 六所神社
祭神
塩土老翁命(安産の神様/しおつちのおじのみこと)
猿田彦命
衝立船戸命(つきたつふなどのみこと)
太田命
興玉命(おきたまのみこと)
事勝国勝長狭命(ことかつくにかつながさのみこと)
創建
600年代
由緒・歴史
由緒によれば、37代斎明天皇(655~661年)の勅願によって、奥州塩竃六所大明神が勧請され、神領の寄進を受けて創立されたと伝えられています。
その後、桓武天皇(781~806年)の時代、坂上田村麻呂が東夷征伐に向かう折に祈願し、天皇に願い出て許可を得たことで再建され「六所大明神」の勅額(天皇が神社に特別に与える直筆の神額)をいただいたとの言い伝えもあります。
産土神として松平家・徳川家の崇敬が篤く、天文11年(1542)には竹千代君(家康公)ご誕生の折にも拝礼されたことから「家康公の産土神」として江戸幕府の厚い保護を受け、楼門前の石段は5万石以上の大名しか上ることができなかったそうです。
江戸幕府が開かれる前年の慶長7年(1602)、六所神社は家康公からご朱印状と62石7斗を贈られ、慶長9年(1604)には社殿を造営して神器の品々をくだされました。
3代将軍家光公も、寛永11年(1634)上洛の折に岡崎城から遥拝し、名代である松平伊豆守を使わして100石が加増されました。
朱印状には「六所大明神は東照大権現降誕の地にある霊神なり、是を以て崇敬他と異なり」とあります。家光公はさらに寛永11年(1634)から寛永13年(1636)にかけて、御普請奉行・本多伊勢守と神主大竹大膳久次に社殿と神供所を造営させたことで、本殿、幣殿、拝殿が連結した華麗な彩色の権現造の社殿が完成しました。
貞享51年(1688)には楼門が建てられ、現在では本殿・幣殿・拝殿・楼門・神供所と御神体を納める御厨子6基、社殿の棟札6枚と共に国の重要文化財に指定をされています。
昭和48~51年(1973~1976)と平成26~29年(2014~2017)に、大修復工事が行われ、建立当時の美しさがよみがえった六所神社は、現在も「安産の神様」として信仰を集めています。
(詳細・画像は下記のURLからご覧ください。)
ZIPANG-5 TOKIO 2020速報“おかまいり”知ってますか?200 年前の人々と同じ道を、同じように歩いて神社と寺院を巡る!
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【徳川美術館】もののふの備え 甲冑の美学 / 馬とともに
~南部藩総鎮守、櫛引八幡宮~
美しさと機能性が融合した日本の甲冑を紹介する「甲冑の美学」、
馬とともに生きた武士の感性を紹介する「馬とともに」。
”もののふの備え”を共通テーマにした2展を同時期開催します。
(詳細・画像は下記のURLからご覧ください。)
南部藩総鎮守、櫛引八幡宮
ZIPANG-9 TOKIO 2020 【徳川美術館】 夏季特別展「もののふの備え 甲冑の美学 / 馬とともに」開催!!!7月27日(土)~9月16日(月・祝)まで
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津軽デジタル風土記 ー ねぷたまつりと北斎 ー
弘前市の市章「卍(まんじ)」
卍(まんじ)は、藩政時代に津軽氏の旗印として用いられた由緒あるもので、功徳・円満の意味で、吉祥万徳の相を表すといわれ、明治33年6月から旧弘前市の市章として用いられてきました。
北斎の晩年期の画号もまた、卍[まんじ]なのである・・・
「津軽デジタル風土記」
ねぷた見送り絵プロジェクトとは
(詳細・画像は下記のURLからご覧ください。)
ZIPANG-5 TOKIO 2020 古今折衷 津軽デジタル風土記 ー ねぷたまつりと北斎 ー その邂逅への経緯 (二)
https://tokyo2020-5.themedia.jp/posts/17336141
『會津十楽 』
450年の時を超えて自由市「會津十楽」が復活
會津十楽とは
~会津で花開いた独自の食や工芸文化を体感できる會津十楽 現代に再現された味覚やデザインに触れ400年以上前にタイムスリップ~
洗練された南蛮文化の他、漆器や酒造りを奨励した蒲生氏郷公。織田信長公の“楽市”をさらに発展させた「十楽」という制度を城下に敷き、経済・文化振興を図りました。この制度を再現する物産イベント「會津十楽」です。
南蛮寺をイメージしたオリジナルデザインの南蛮小屋(ブース)を並べ、 時代衣装を身に纏ったスタッフが当時の食文化、当時の食を再現した「食楽」、匠の技を展示・販売する「匠楽(しょうらく)」、お伽衆朗読劇や絵付け体験などの「興楽(きょうらく)」など3つのコーナーで400年以上前の時代にタイムスリップしたかのような雰囲気を再現します。
會津十楽開催概要
開催目的
サムライシティプロジェクト実行委員会では2013年より「會津十楽」を開催し、鶴ヶ城内やまちなか等で蒲生氏郷公が作り上げた会津固有の制度であった経済と文化が融合した「會津十楽」を再現し、歴史的な背景を含めた新たな観光資源とし、県内外に「会津南蛮文化」を発信する事業を展開してきました。
昨年度は4月~6月のディスティネーションキャンペーン期間の3か月間、会津若松市の観光誘客に繋げていくことを目的として、鶴ヶ城本丸北エリアにて「會津十楽」を開催しました。
この度、ふるさとイベント大賞最優秀賞(総務大臣賞)を受賞し、対外的にも大きな評価を頂きました。今年度は、春の陣、秋の陣を主宰するほか、地域のイベントにも出店し、400年以上前の市を現代の形で再現します。
4年目の開催となる平成29年度は、ラストサムライの地「會津」を広く海外にアピールするインバウンド事業を視野に近隣都市と連携を図り、外国人観光客誘客に取り組みます。
(詳細・画像は下記のURLからご覧ください。)
ZIPANG TOKIO 2020「『會津十楽 』450年の時を超えて自由市會津十楽が復活 鶴ヶ城で開催」
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世界記憶遺産認定
朝鮮通信使 日韓友好の共同登録!
時代背景としては、
■ 文禄慶長の役(豊臣秀吉の朝鮮出兵)により日朝関係が致命的に悪化。
■ 新たに天下人となった徳川家康、農地が少なく交易が命綱の対馬、北方の女真族の脅威にさらされる朝鮮など、それぞれの事情により和平を模索。
■ 初代対馬藩主・宗 義智(そう よしとし)による外交交渉が始まるが、家康から先に国書を出す(謝罪を意味する)という難題に直面し、宗家による「国書偽造」が行われる。
■ 朝鮮から江戸幕府へ「回答兼刷還使」が派遣される。目的は、国書による回答(謝罪要求)、文禄慶長の役の捕虜の送還など。
■ 二代藩主・宗 義成の時代に、柳川一件(対馬藩家老による国書偽造の暴露、いまで言う内部告発)が発生し、徳川家光(三代将軍)直々の裁判により、宗家は安堵される。
■ 戦後処理が一段落し、回答兼刷還使が「通信使」となり、徳川将軍の襲名や世継ぎ誕生のお祝いを名目に派遣されるようになる。
■ 江戸元禄時代、倭館(釜山の龍頭山周辺にあった対馬藩の出先機関で、面積は10万坪)を拠点とする朝鮮貿易により対馬藩は空前の賑わいをみせ、城下町整備や有能な儒学者の起用など政治・経済・外交など様々な面で爛熟期を迎える。
■ 通信使の来日は数十年に一度であり、幕府は政権の権威付け、朝鮮は日本の内情視察、対馬は外交能力の誇示などさまざまな利害が合致したこともあり、その盛大なパレードは庶民から文人まで熱狂的に歓迎され、文化交流も行われる。
■ やがて、莫大な経費を必要とする通信使の派遣は日朝両国の負担となり、12回目の通信使派遣の際は対馬で国書が交換され、以降、通信使の派遣は途絶える。
朝鮮通信使が往来した200年間、日朝両国間で戦争は起きませんでした。
(詳細・画像は下記のURLからご覧ください。)
ZIPANG TOKIO 2020「世界記憶遺産認定 朝鮮通信使 日韓友好の共同登録!」
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徳川家康公の
国宝・久能山東照宮
久能山の歴史
史跡久能山
太古久能山は日本平と共に平野でありましたが、その後隆起によって出来たもので、昔は日本平と続いていましたが、長い年月の間に浸食作用等のため堅い部分のみ残り現在のように孤立した山となりました。
高さ216mの前面は眼下に駿河湾を見下ろし、東は近くに伊豆半島を西は遥かに御前崎を一望できる雄大な景色が広がっています。
遥か遠い昔、この山は観音菩薩の霊場とされ、観音信仰の聖地でした。
補陀落山久能寺のころ
久能山の歴史は『久能寺縁起』によると、推古天皇の御代(7世紀頃)秦氏の久能忠仁が初めて山を開き一寺を建て、観音菩薩の像を安置し補陀落山久能寺と称したことに始まります。久能山の名称もここから起こりました。
縁起によると久能寺は平安朝の仏教隆昌と共に多くの僧坊が建てられ、僧行基、伝教大師等を始め多くの名僧知識が相次いで来往し、平安末期から鎌倉初期にかけては、360坊、1500人の衆徒をもつ大寺院となったといいます。また、国宝の『久能寺経』なども伝来しており、都との縁も深かったことがうかがわれます。
さらに、源頼朝は伊豆国内から所領を寄進、源義経も薄墨と呼ばれる笛を奉納したなどとも伝えられています。
また、鎌倉時代の紀行文である『海道記』には山上山下にわたって300余の禅坊が建てられてあったことが記されており、鎌倉時代前後にかけての久能寺はまさに東海道屈指の寺院として栄えていました。
ところが、鎌倉時代中期の嘉禄年間(1225年~1227年)山麓の失火によって類焼し昔の面影はなくなりました。
久能城のころ
かくして元和2年(1616年)4月17日徳川家康公の薨後、御遺命により御遺骸を久能山に
埋葬、久能城を廃止し東照宮(はじめは東照社と称しました)が創建されました。
特に50年毎の神忌に当たっては式年大祭を斎行し平和への祈りを捧げてまいりました。
そして、平成27年(2015年)には御鎮座四百年大祭を斎行し現在に至ります。
このように、久能寺建立よりおよそ1,400年余りの悠久の歴史を有する久能山は、古くから
多くの人々の信仰を集め様々な歴史を刻んできたかけがえのない聖地といえるでしょう。
(詳細・画像は下記のURLからご覧ください。)
ZIPANG-9 TOKIO 2020 【開催中】国宝・久能山東照宮夜間特別拝観 「天下泰平の竹あかり 2024 」【同時開催】徳川歴代将軍名宝展
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番外編
鬼が積んだ999段 秋田県男鹿市
国宝・重要文化財 『赤神神社 五社堂』
男鹿半島の西端の本山は、赤神権現を信仰する修験道場として開かれました。赤神神社はこの一郭をしめ、秋田藩主佐竹氏の厚い保護を受けてきました。
五社堂は、中央に正面入母屋造、妻入の赤神権現堂をおき、この両側にやや小規模の同形式の堂を二棟づつ並べている。各堂とも要所に彫刻を施して装飾してある。
赤神神社五社堂は、同形式の五棟の堂が並び建って壮観であり、細部には秋田県の近世社寺建築にみられる地方的な特色をよく示していて、大変に資料的価値が高い建築である。
五社堂は赤神神社の本縁とされており、中央堂に主神として赤神を祀ったの で、赤神神社の名称になったとされている。
建保四年(1216)別当円転が霊夢に感じて鎌倉の右大臣源実朝公に請願、 円転に命じて叡山山麓の山王上七社を勧請したもので二社廃れたので五社に 配祀されたとされている。
各堂の名称は向かって左から、「十禅師堂」「八王子堂」「中堂」 「客人(まろうど)権現堂」「三の宮堂」と呼称されている。また、この 五社堂は建立、再建、修理の年代がよく解るため、近世社寺建築の編年上重 要な建物とされている。
現存の五棟の社殿は江戸時代の中ごろ(1710年 宝永7年)に建てられたものといわれ、向拝、屋根、柱、組み物などに珍しい 工夫がみられる。平成10年10月1日より3年6ヶ月、平成の大修理が行わ れた。
構造及び形式等: 桁行二間、梁間三間、一重、正面入母屋造、背面切妻造、妻入、向拝一間、 唐破風造、鉄板葺
赤神神社五社堂(中央堂)内厨子
赤神神社の創立はきわめて古く、貞観二年(860年)に慈覚大師(円仁)が寺院を建て、鎌倉時代の建保四年(1216年)に源実朝が堂社を比叡山(ひえいざん)に模して造営したといわれている。厨子は五社堂の中央堂内にあり、室町時代末期の時代的特性をよく伝えている。
国指定重要文化財
数多き伝説と今に残る神話の足跡 赤神神社 五社堂
五社堂への石段には地元では有名な言い伝えがある。 およそ2000年の昔、漢の武帝が5匹のコウモリを連れて男鹿にやってきた。
コウモリは5匹の鬼に変わった。武帝は5匹の鬼たちを家来として使ったが、1年に一度正月を休みにさせた。鬼たちは大喜びして里へ降り、作物や家畜を奪って大暴れし、ついには里の娘までさらっていくようになった。
困った村人たちは、一夜で千段の石段を築くことができれば1年に1人ずつ娘を差しだすが、もしできない時には二度と里に降りてこない、という賭けをした。
鬼たちは精魂を尽くして積み上げあと一段!
正に完成寸前、というところで「コケコッコー」と一番鶏の鳴き声。鬼たちはあきらめて、約束どおり山奥へと立ち去ったといわれている。
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