岡山市北区吉備津に鎮座する吉備津神社(岡山市北区吉備津931、代表者 宮司:藤井 崇行)は、大吉備津彦命を主祭神とし、本殿及び拝殿が国宝に指定される山陽道屈指のお社です。今年、本殿・拝殿 再建600年の記念の年を迎えました。この歴史的な節目を祝し、「特別参拝」を令和7年6月22日(日)に行います。
通常は立ち入ることのできない国宝の本殿内での参拝や、古くから続く神秘的な神事、御札の奉製など、吉備津神社ならではの厳かな体験を通じて、この機会により豊かな神縁を結ぶ特別な時間を提供します。
吉備津神社 国宝 本殿・拝殿
吉備津神社 南随神門と本殿
吉備津神社 国指定重要文化財 南随神門
■開催概要
・開催日 :令和7年6月22日(日)
・参拝時間 :10時~12時
※参拝状況によって多少前後する場合がございます。
・参拝場所 :吉備津神社 岡山県岡山市北区吉備津931
・参加費 :おひとりさま3万円
・定員 :先着10名様
※定員に達し次第締め切らせていただきます
・応募締め切り:6月15日
※配布タイプのパンフレット(裏面に記入欄有)からお申し込みの場合はご記入の上、神社受付へお持ちください(FAX・郵送可)。
※担当者からのメール、電話の返信をもってお申し込みの確定とさせていただきます。
※昇殿参拝がございますので、不敬にならない程度の服装をお願いいたします
■当日の行事予定
・9時45分~ :受付所で受付
・10時~ :本日の行事の説明
・御札の奉製体験 :神社の文化・伝統を学びながら、御札を奉製する貴重な体験
・本殿前で記念撮影:国宝の本殿・拝殿の前で記念に残る撮影を実施
・本殿で参拝 :普段立ち入ることができない本殿内で神職の特別な
祝詞による特別な参拝を体験
・巫女舞奉納 :神様への感謝と祈りを込めた優雅な舞の奉納
・神職による本殿 :本殿内部の構造や収められている神宝等について
内部の説明を詳しく解説
・神職による本殿の建築様式等の説明:
吉備津神社の歴史や桃太郎伝説、本殿の建築様式等について詳しく解説
・神職・巫女による境内の説明:
廻廊や南随神門を始め境内の文化財や摂末社の解説
・御釜殿で「鳴釜神事」:
古くから続く吉凶を占う神秘的な神事「鳴釜神事」を体験
・記念品授与
・宮司挨拶
12時頃:終了予定
※予定ですので多少前後する場合がございます
※行事の予定も多少前後する場合がございます
吉備津神社の歴史と伝統につつまれた神聖な空間で御神徳を深く感じていただき、心静かに過す貴重な機会となります。皆様のご参拝を心よりお待ちしております。
■施設概要
施設名: 宗教法人 吉備津神社
代表者: 代表役員 宮司 藤井 崇行
所在地: 〒701-1390 岡山県岡山市北区吉備津931
■お問い合わせ先
吉備津神社 社務所(9:00~16:30)
〒701-1341 岡山県岡山市北区吉備津931
Tel : 086-287-4111
メール : info@kibitujina.com
鎹八咫烏 記
石川県 いしかわ観光特使
伊勢「斎宮」明和町観光大使
協力(敬称略)
紅山子(こうざんし)
※画像並びに図表等は著作権の問題から、ダウンロード等は必ず許可を必要と致します。
アーカイブ リンク記事をご覧ください。
国宝 吉備津神社は日本建築の傑作
全国唯一の建築様式『吉備津造り(比翼入母屋造)』
吉備文化の基礎を造った四道将軍が祀られている
吉備津神社とは
吉備津神社は岡山県岡山市にあり、大吉備津彦大神を主祭神とする山陽道屈指の大社です。 大吉備津彦大神は、記紀によれば、崇神朝四道将軍の随一として、この地方の賊徒を平定して平和と秩序を築き、今日の吉備文化の基礎を造られたとされています。
古来より、吉備国開拓の大祖神として尊崇され、吾国唯一の様式にして日本建築の傑作「吉備津造り(比翼入母屋造)」の勇壮な社殿、釜の鳴る音で吉凶を占う鳴釜の神事、また桃太郎伝説のモデルなどで知られています。
縁起
吉備津神社は大吉備津彦命を主神とし、その異母弟の若日子建吉備津日子命と、その子吉備武彦命(キビタケヒコノミコト)等、一族の神々を合わせ祀っております。大吉備津彦命は第七代孝霊天皇の皇子にあたられ、もとのお名前を五十狭芹彦命(イサセリヒコミコト)と申し上げ、武勇の誉れ高いお方であられます。
一説によりますと、第十代崇神天皇の御代、災害もなくなり天下もようやく治まってまいりましたが、都から遠く離れた地方には未だ朝廷に従わない者が多数おりました。そこで天皇即位十年に皇族の中から四人の将軍を選び、印綬を授け各地方に派遣し討伐することとなりました。
すなはち、北陸道には大彦命(オオヒコノミコト)、東海道には武渟別命(タケヌナワケノミコト)、丹波には丹波道主命(タニハニミチヌシノミコト)、そして西道のちの山陽道には大吉備津彦命が派遣されることとなりました。
吉備津彦命と異母弟若日子建吉備津彦命は兵を率いて山陽道を進軍し、まず播磨国に達してここを「吉備の道口」と定められ加古川の畔で神祭を行っております。
その場所と思われるところに日岡神社が現存し天伊佐々比古命がお祀りされています。 こうして命は吉備国に入り、人々を苦しめ鬼と恐れられていた温羅一族を苦戦の末退治することができ、この地方に平和と秩序をもたらしたと云われております。
吉備津神社がいつごろ誰によって造営されたのかについては、文献もなく確かなことはわかりませんが、ただ言い伝えによると、一説に吉備津彦命から五代目の孫にあたる加夜臣奈留美命(カヤオミナルミ)という人が祖神として吉備津彦命をお祀りしたのが起源であると云われております。
また一説に若建日子吉備津彦命から三代目の孫と云われる稲速別命(イナハヤワケ)・御友別命・鴨別命(カモノワケ)が始めて社殿を造りお祀りしたとも云われます。さらに一説に仁徳天皇が吉備海部直の娘である黒媛を慕ってこの地に行幸したときに、吉備津彦の功績を聞き称えるために社殿を創建してお祀りしたのが起源とも伝わっております。
鬼退治神話
吉備津神社には、あの桃太郎のお話のもととも云われる温羅退治のお話しが伝わっています。 それは、諸説ありますが大要は次のようなお話です。
(詳細・画像は下記のURLからご覧ください。)
ZIPANG TOKIO 2020「国宝 吉備津神社は日本建築の傑作 全国唯一の建築様式『吉備津造り(比翼入母屋造)』一見の価値あり!吉備文化の基礎を造った四道将軍が祀られている」
https://tokyo2020-summer.themedia.jp/posts/2386157
香川県
東かがわ市の概要
平成15年4月1日に引田町・白鳥町・大内町の3町が合併して、東かがわ市が誕生しました。
東かがわ市は、香川県の東の端で徳島県鳴門市と接しています。
地場産業の手袋生産は、伝統産業であり、はまち養殖の発祥地、そして有名な製薬や和三盆糖などの伝統を今なお受け継ぐ、伝統と文化、自然環境豊かな市です。
地勢
東かがわ市は、香川県の東端に位置しています。
東南は東西に連なる阿讃山脈によって徳島県に接し、西はさぬき市に隣接し、東北は国立公園瀬戸内海播磨灘に臨み、高松市と徳島市のほぼ中間に位置する自然環境に恵まれた地域です。
瀬戸内海に注ぐ馬宿川、小海川、新川、湊川、与田川、番屋川などの流域に平野部が開け、市街地と田園地域を形成しています。気候は、比較的晴天の日が多く降水量が少ない瀬戸内海特有の温暖で穏やかな気候です。
日本武尊の白鳥伝説地
白鳥神社
由緒
日本武尊(ヤマトタケルノミコト)は人皇(ジンコウ)十二代 景行(ケイコウ)天皇の皇子に在らせられ、勅命に依りて九州中国を、その後東国を征定し、帰途の途次、近江国の伊吹山にて病に触れさせ給ひ尾張国を経て伊勢国能褒野(のぼの)に至り病篤あつく、終に亡くなる。
実に、景行天皇四十一年なり、天皇その功をたたえ、武部を定め群臣に命じその地に山陵を造り厚く葬る。群臣入棺し奉まつりしに、神霊白鶴に化し西方に飛び去る、棺内にはただ衣冠のみ空く在す、その白鶴は大和国琴弾原に、また飛て河内国旧市の邑に至りまた更に飛て讃岐国大内郡鶴内の里に止りる。よってこの所に神陵を建てさせる。
成務天皇の時代、天皇の御兄弟神櫛王(カングシオウ)をして日本武尊の御子、武皷王(タケミカツチノオウ)に従わせて、讃岐の国造に封じ神陵を作らせる(武皷王の神陵は綾歌郡に、神櫛王の神陵は木田郡牟礼町にあり)。
日本武尊の御子 仲哀(チュウアイ)天皇の時代神籬(ひもろぎ)を建て封戸を寄らせる。今の神社即ちその御跡である。
その後一盛一衰あるが、武家は弓矢の神となし崇敬深い。寛文4年讃岐守高松藩祖松平頼重(ヨリシゲ)侯こうおおいにその規模を拡め、社殿の修築をなし、領地をさき神領に寄し、幕府の朱印地に改めた。明治五年県社に列せられ現在に及ぶ。
日本武尊の話
大碓(オオウス)命と小碓(オウス)命の双生児がいました。しかし、あやまって小碓は大碓を殺してしまいます。そのことに帝は怒り、小碓を熊襲(くまそ)征伐という名目で大和から追放してしまいます。
熊襲の国ではタケルの宮殿が新しく造られ、各国造の客人で宴がたけなわです。その時、宮殿が闇となり、その一瞬にタケルが殺されます。そして混乱の中で、自分を討った小碓に、自分の名をとりヤマトタケルと強者の魂を授けました。
大和国に熊襲より帰ったヤマトタケルでしたが、父帝は蝦夷(えみし)征伐に行けと命じます。ヤマトタケル命は、伊勢の倭姫を訪ね、出発します。
相模の国造の計略で四方を火に囲まれ、倭姫にもらった火打石と剣で難を逃れます。
次に走水の嵐の中で橘弟姫は海に身を踊らせ、海を鎮めます。 大和への帰りに伊吹山の神の退治に出かけ、病に冒され、能煩野(のぼの)で息を引き取ります。しかし、ヤマトタケルは白い鳥となり、飛び去ったと伝えられています。 そして、讃岐の国松原村に舞い降りて、白鳥神社として祀られた。
さぬき七福神
平成13年正月から、東かがわを中心に「さぬき七福神」が開創されました。
白鳥神社 恵比須神(えびすしん)
田村神社 布袋神(ほていしん)
滝宮天満宮 福禄寿(ふくろくじゅ)
與田寺 寿老人(じゅろうじん)
法然寺 大黒天(だいこくてん)
香西寺 毘沙門天(びしゃもんてん)
国分寺 弁財天(べんざいてん)
以上三社四寺の神仏混ごうです。 それぞれの神社仏閣は、古より篤い信仰を集めており、それぞれの福神を祀る由緒ある社寺です。 七福神の社寺それぞれにカードを授与しております。また、七福神の軸もできました。 三社四寺を巡り、東かがわの歴史とロマンを楽しみ、ご参拝ください。
安倍氏 藤原氏 源氏 系図
三十六歌仙扁額
境内案内図
大神神社、四道将軍と雛祭り関連情報
(詳細・画像は下記のURLからご覧ください。)
ZIPANG-4 TOKIO 2020東かがわ市~美しい日本の伝統・伝説の地~ 日本の精神文化と国土の美しさ 再発見!(その1)~白鳥神社~
https://tokyo2020-4.themedia.jp/posts/9323085
「出雲と吉備」
島根県立古代出雲歴史博物館
1.開催趣旨
古代の出雲と吉備は、畿内と北部九州の中間にあって、弥生時代以来、大陸との交渉、列島における東西交通や各地域との交流の窓口として重要な地域だったと考えられています。
両地域に独自の文化や政治勢力が生まれた背景には、弥生時代後半に見られる相互の交流だけでなく、6世紀後半以降の朝鮮半島をめぐる東アジア情勢の緊迫化に対する倭王権の対応という地政学的な理由があり、両地域はとりわけ重要な地域であったことが、記紀神話や伝承からも読み取ることができます。
本展では、他地域に先駆けて青銅器祭祀から弥生墳丘墓を舞台とする儀礼へ転換する弥生時代後半期と、倭王権が地域支配を強めていく古墳時代後期以降という特徴ある二つの時代の出土品を中心に、出雲・吉備地域の形成や統合の過程、地域間交流や王権との関係性を紹介します。
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