サムティが参画する沖縄北部の新テーマパーク
「JUNGLIA OKINAWA(ジャングリア沖縄)」の開業日は
2025年7月25日(金)と発表されました
サムティホールディングス株式会社(所在地:大阪市淀川区、代表取締役社長:小川 靖展、以下「当社グループ」)は、沖縄北部において開業予定の新テーマパーク「JUNGLIA OKINAWA(ジャングリア沖縄)」を開発、運営する株式会社ジャパンエンターテイメント(以下「JE社」)の親会社である株式会社ジャパンエンターテイメントホールディングスに出資し、沖縄の未来に希望と活力をもたらす本事業を支援しています。
この度、本テーマパークの開発、運営会社であるJE社から、本テーマパークの開業が2025年7月25日(金)に決定したことと併せ、チケット料金やアトラクション概要、経済波及効果等の詳細が発表されましたので、お知らせいたします。
【テーマパーク イメージ】
JUNGLIA OKINAWA(イメージ) Ⓒジャパンエンターテイメント
【興奮と贅沢のテーマパーク JUNGLIA OKINAWA(ジャングリア沖縄)】
ジャングリア沖縄では、神秘と生命力に満ちた世界自然遺産「やんばる」を擁する沖縄北部の圧倒的な大自然を舞台に、都会にはない興奮と贅沢を体験いただけます。
コンセプトは、「Power Vacance!!(パワーバカンス)」。亜熱帯地域に位置する沖縄ならではの生命力に満ちた見たこともない植物が生い茂るやんばるの大絶景の中で、その地にしかない体験を通して生まれる“興奮”と本物の自然に没入する“贅沢”が重なり、今まで経験したことのない“解放感”が本能を貫き、人生最高に心が昂る“Power Vacance!!”を体験できます。
【施設概要】
・開業予定日 : 2025年7月25日(金)
・パーク名称 : JUNGLIA OKINAWA(ジャングリア沖縄)
・パーク所在地 : 沖縄県国頭郡今帰仁村字呉我山553番地1
・パーク総面積 : 約60ヘクタール (敷地総面積 約120ヘクタール)
・アトラクション数: 22*
・飲食施設 : 15*
・物販施設 : 10*
*2025年1月28日時点の情報です。
JUNGLIA OKINAWAロゴ
当社グループは、国内の主要都市を投資対象とした不動産開発、売買、物件管理、REIT等のファンド運用及び海外事業等を手掛ける「総合不動産会社」です。
主力事業である不動産開発においては、賃貸マンションブランド「S-RESIDENCE」シリーズを中心に、全国で約300棟の供給実績を有しています。また、成長を加速する事業の柱として、当社グループ内のホテルマネジメント機能と、ラグジュアリーホテルに強みを持つ関連会社等のリソースを活用し、時勢やエリア、顧客ニーズを捉えた様々なホテルへの投資・運用を手掛けています。
アフターコロナにおいて、人々の意識や消費行動は「コト・体験」にシフトするという予測のもと、世界的に活況を呈する観光・レジャー関連の「集客できる不動産」は、持続的成長が見込める有力なアセットであり、国内外の来場者を取り込み、収益機会を得ることができるとの考えから、当社グループはさらなる事業の強化を目指し、国内における成長戦略の柱として、2022年7月よりテーマパーク事業に進出し、「ネスタリゾート神戸」(兵庫県三木市 当社連結子会社)の運営を行っております。
【パノラマダイニング イメージ】
パノラマダイニング(イメージ)
【ヒューマンアロー イメージ】
ヒューマンアロー(イメージ) Ⓒジャパンエンターテイメント
我が国は人口が減少傾向にあり、将来的には当社グループが手掛けている住宅市場が縮小していくことも考えられます。当社グループは本テーマパーク「JUNGLIA OKINAWA(ジャングリア沖縄)」至近で、オフィシャルホテルや従業員向け住宅等をJE社と協業して優先的に開発することを目指しています。
沖縄県内では、国内外の観光需要が旺盛であり、今後も観光需要が増え続けると想定しており、現状でもホテル客室が不足している状況の中、本テーマパークが開業することにより、従来の観光資源である美ら海水族館、古宇利島、瀬底島等の人気と合わさり、観光の重心が北部に移る可能性が高まり、更なるホテル客室不足が懸念されます。
また、本テーマパーク、ホテルなどの開業等、雇用が創出されることにより、従業員の方々の住む場所の確保も重要な課題であると認識しております。これらの課題に対応するため、当社の不動産開発の経験を活かし、住宅やホテル開発をおこなってまいります。
また、インバウンド需要や観光産業に寄与するだけではなく、アジアの巨大人口圏において沖縄ブランドを強化し、地域の特性を活かした魅力づくりや地域社会の発展にも、様々な形で貢献ができるものと考えています。
【会社概要】
社名 : サムティホールディングス株式会社
(英文名:Samty Holdings Co., Ltd.)
代表者 : 代表取締役社長 小川 靖展
設立 : 2024年6月3日
本社所在地: 〒532-0004 大阪市淀川区西宮原一丁目8番39号 S-BUILDING新大阪
資本金 : 20,725百万円(2024年6月3日現在)
事業内容 : 不動産開発事業、不動産ソリューション事業、不動産賃貸事業、
ホテル開発・保有・運営事業等の事業を営むグループ会社等の
経営管理及びそれに付帯又は関連する業務等
鎹八咫烏 記
石川県 いしかわ観光特使
伊勢「斎宮」明和町観光大使
協力(敬称略)
紅山子(こうざんし)
※画像並びに図表等は著作権の問題から、ダウンロード等は必ず許可を必要と致します。
アーカイブ リンク記事をご覧ください。
今帰仁シリーズ(1)~(5)+(今泊)のタイトルそれぞれに添付したURLを開くと多数の画像と解説文をご覧になることが出来ます。
琉球の古謡集は、
今帰仁のことを、このように詠っています。(1)
今帰仁城跡(大隅城壁)
ドイツの城塞都市ローテンブルグ?万里の頂上?はて… あの曲線はガウディの蛇をモチーフにしたグエル公園・破砕タイルのベンチかな?? 正解➞
今帰仁城跡(大隅城壁)
聞こえ今帰仁(きこえみやきせん)
「名高い今帰仁城は」
百曲がり 積み上げて(ももまがり つみあげて)
「曲折した(曲線美の)城壁を積み上げて」
珈玻羅寄せ御ぐすく げらへ(かはらよせおんぐすく げらへ)
「玉のような石が寄せられ、城(グスク)が築城された」
鳴響む今帰仁(とよむみやきせん)
「名高く鳴り響く今帰仁よ」
※昔、今帰仁は『みやきせん』と呼ばれていました。
琉球列島は日本列島南端に位置します。14世紀中頃には三王国が分立していましたが、15世紀前半にこれらを統一して琉球王国が成立しました。
中国・朝鮮・日本・東南アジア諸国との広域の交易を経済的な基盤とし、当時の日本の文化とは異なった国際色豊かな独特の文化が形成されました。その特色を如実に反映している文化遺産が城(グスク)です。
今帰仁城・座喜味城・勝連城・中城城は、いずれも三国鼎立期から琉球王国成立期にかけて築かれた城であり、首里城は琉球王がその居所と統治機関を設置するために築いたものです。これらの城壁は、主として珊瑚石灰岩により造営されており、曲面を多用した琉球独自の特色を備えています。
さらに、王室関係の遺跡として円覚寺跡、玉陵、識名園(別邸)が残り、王国文化をうかがうことができます。
(詳細は下記のURLよりご覧ください。)
ZIPANG-3 TOKIO 2020 https://tokyo2020-3.themedia.jp/posts/6539473 「聞こえ今帰仁 百曲がり積み上げて 珈玻羅寄せ御ぐすくげらへ 鳴響む今帰仁(1)」
https://tokyo2020-3.themedia.jp/posts/6539473
国宝「宝剣千代金丸」 ~受剣石~ 今帰仁(2)
三山鼎立(さんざんていりつ)の時代
集落を統括していた各地按司(あじ)がまとまっていく過程で、やんばるでは今帰仁(なきじん)グスクへ、中頭(なかがみ)では浦添(うらそえ)グスクへ、島尻(しまじり)では大里(おおざと)グスクや南山(なんざん)グスクへその力が集約されていきます。
今帰仁・浦添・大里(高嶺)の三グスクを中心にまとまった時代が三山鼎立(さんざんていりつ)時代です。三山鼎立時代に至るまでには、大小様々なグスクが割拠(かっきょ)したと考えられ、今も残る遺跡にその痕跡(こんせき)を見ることができます。
『中山世鑑(ちゅうざんせかん)』や『中山世譜(ちゅうざんせふ)』によると「琉球は有史以来統一王統によって統治されてきたが、英祖王統玉城王代の延祐年間(1314年~1320年)に至って国政が乱れ、今帰仁按司と大里按司が離反して山北・南山を形成したため、統一王統は崩れ中山の勢力範囲が限定された」といわれます。
その見解は、『北山由来記』や野史(やし)、各地の門中(もんちゅう)の持つ『元祖由来記(がんそゆらいき)』などの背景になっていて、今でも根強く語られる歴史認識となっています。しかし、現在の研究では三山は諸按司(しょあじ)の抗争から形成された小国家であると理解されています。
中国の史書『明実録』に登場する山北の王は、怕尼芝(はにじ)・珉(みん)・攀安知(はんあんち)の三王で、各王の交易記録を見ますと琉球国山北王怕尼芝(1383年~1390年)は7年間に6回、琉球国山北王珉(1395年)が1回の交易、琉球国山北王攀安知(1396年~1416年)が19年間に11回の交易を行っています。
交易は時の中国明との間に公的に行われ宝物として冠帯や衣服などの品々を賜りました。三山でも中山は最も数多くの進貢(しんこう)を行うとともに留学生を送り直接中国の学問や政治・社会制度を学ばせ、中国から技術を持った人々を帰化(きか)させるなど、大陸の新しい文化を積極的にとりいれていきました。そのことがやがて他の二つの小国家をしのぐ勢力を築くことになり、琉球を統一する礎(いしずえ)となりました。
今帰仁城跡・伝説に見る今帰仁城
今帰仁グスクの物語は多く、旧家に残る家譜(かふ)や野史として伝えられています。物語の中で史実とは考えられない部分もあることなどから伝説として今に伝えられています。
築城物語 ~北谷なーちらー~
今帰仁城は固い黒石で城壁を築き上げる堅固な城として知られていました。しかし、この堅い黒石をけずるのが大変で工事がなかなかはかどりません。そんな折に北谷村に奇怪(きかい)な妖刀(ようとう)「北谷なーちらー」という極めて切れ味の鋭い刃物の噂が国中にひろまりました。
この刀を振ればなんでも二つに切れ、魔力のある包丁として話題となりました。石切り工事に大変苦労をしていたため、「そんなに切れるのなら石けずりに使いたい」と今帰仁城に献上(けんじょう)させました。これをもってすればまるで豆腐でも切るようにスパッと切れるので、思うとおりに丈夫な石垣ができあがったとされます。石垣にノミ跡が無いのはこの「北谷なーちらー」のおかげとされています。後に尚家の家宝として大切に伝えられました。
北山騒動
北山に若按司が生まれてすぐに国頭地方で謀反(むほん)が起こったという噂が流れました。武勇のほまれ高い家臣(謝名大主、潮平大主などの説がある)がこれを打つべく出発します。しかし、これは重臣の本部大主が手ごわい家臣を外に追い出して城を乗っ取ろうとする策だったのです。
若按司の誕生祝の宴(うたげ)が開かれるところへ、本部大主が軍勢で流れこみます。国頭から引き返した家臣に助けられ辛くも逃げのびましたが敵に追いつかれそうになりました。
そこで王妃は「産後でこれ以上歩けません、この子を頼みます」と言って乙樽(うとうだる)と家臣へ若按司を預け志慶真川へ身を投げてしまいました。家臣は乙樽を励まし、ようやくクバの御嶽(うたき)の岩屋にかくれ朝を待ち、恩納(おんな)の忠臣(ちゅうしん)山田大主を頼り逃げ延びます。
若按司が山田大主のところで8歳になった時、城主となった本部大主が討手を差し向けたという噂が流れたので、若按司は名を岡春と改め北谷間切の砂辺村へ落ち延び下人奉公しながらチャンスが来るのを待ちました。
それから10年後、ようやくその時が来ます。大宜味で旧臣たちが集まって旗揚げし準備した事を知り、若按司は勘手納港(かんてなこう)に旧臣を集め3千の大軍を旗揚げします。この勢いに城中の兵は戦意を失い城は落ちました。身を潜めていた乙樽も城内に駆けつけます。後に乙樽は忠誠と情けの深さに「神人」の位を授かりました。
国宝「宝剣千代金丸」 ~受剣石~
国宝金装宝剣拵(千代金丸)
北山王攀安知(はんあんち)は己の武勇にものを言わせ富を集めていましたが国頭、名護、羽地の諸按司たちは不満を募らせていました。やがて、佐敷の尚巴志(しょうはし)が台頭1416年、尚巴志の連合軍と攀安知は合戦を交えます。
しかし、屈指の堅城で攻めあぐんでいたためにらみ合いとなりました。そこで尚巴志は城中の大将で欲深い本部平原にワイロを贈り謀反を企てるよう誘いました。
翌日、本部平原は攀安知に「攻撃に出て、王は表、私は裏の敵を追い散らしましょう」と誘い、これを計略と知らず攀安知は尚巴志の軍勢を深追いします。
やがて、城中から火の手が上がるのを見てあわてて引き返すと本部平原が城門で「わが手に討たれよ」と叫び一騎打ちとなりました。
怒り狂った攀安知は先祖伝来の宝刀「千代金丸」で本部平原を斬り殺し、もはやこれまでと城の守護神カナヒヤブの霊石を切りつけ返す刀で切腹をしようとしました。しかし、これが切れなかったため志慶真川に投げ捨て、腰の小刀で切腹して果てました。
後に千代金丸は志慶真川から拾われ尚家に献上、天下の至宝として大切に保管されました。現在、国宝「宝剣千代金丸」は、今帰仁城跡にある今帰仁村歴史文化センターに展示されています。今帰仁城跡を訪ねられる折には、忘れず是非ご覧ください。
(詳細は下記のURLよりご覧ください。)
ZIPANG-3 TOKIO 2020 ~ 世界文化遺産 今帰仁城跡 ~「伝説と国宝『宝剣千代金丸』(2)」
https://tokyo2020-3.themedia.jp/posts/6548657
今帰仁村の海と今帰仁城跡の祭祀(3)
今帰仁村の景観の特性
本村の景観は、美しい自然海岸や乙羽岳を頂きとした山々、世界遺産に登録された「琉球王国のグスクおよび関連遺産群」のひとつである今帰仁城跡、今泊や諸志などに代表される緑豊かな集落の景観、低位段丘に広がる農地の景観、さらには古宇利大橋やワルミ大橋などの公共施設がつくりだす景観など、さまざまな要素で構成されています。
これらの景観要素を、「自然や地形が織りなす景観」「歴史や文化が醸し出す景観」「生活や営みが紡ぎだす景観」「公共施設がつくりだす景観」の 4 つに分類します。
今帰仁城跡・今帰仁上りの拝所とは
クバの御嶽
今帰仁城跡の西にある古生代~中生代の石灰岩からなる丘陵。琉球の時代から続く聖地で、地元ではウガーミと呼ばれる神域です。
「今帰仁上り(なきじんぬぶい)」は「今帰仁廻り(なきじんまわり)」とも呼ばれ、沖縄で親族一門が行う聖地旧跡(せいちきゅうせき)の巡拝行事(じゅんぱいぎょうじ)で「東廻り(あがりまーい)」と並び多くの門中(もんちゅう)によって行われています。
主な巡拝地は各門中や地域などによっても異なりますが琉球開闢(りゅうきゅうかいびゃく)の伝説に関わる御嶽(うたき)、三山時代の旧跡、村落のノロ殿内(どぅんち)、監守時代の墓などが毎年、あるいは3、5、7年ごとの奇数年を年期として廻(まわ)られます。
歴史的には1838年には既に実施されていたことが確認されています。かつては道のりに数日を要し、着替えと神々に供えるご馳走を担いで参詣したと言われますが、現在ではバスをチャーターし重箱、線香、酒などを持参し年長者の指導によって一族が主要な聖地を巡拝しています。
今帰仁城跡・今帰仁城内の御嶽と祭祀
(詳細は下記のURLよりご覧ください。)
ZIPANG-3 TOKIO 2020 ~ 世界文化遺産 今帰仁城跡 ~「今帰仁村の海と今帰仁城跡の祭祀(3)」
https://tokyo2020-3.themedia.jp/posts/6556323
今帰仁の文化に触れる
今帰仁村19の集落と祭り(4)
ぬーんねしが今帰仁村
「ぬーんねしが」とは沖縄方言で「何もないけど」という意味。
今帰仁村にはショッピングモールもファミレスも大型娯楽施設もありません。
だからこそ、手つかずの大自然や昔ながらの風景が残っている。
「何も無いけど満たされる。」それが今帰仁村。
今帰仁村では、一年を通じ各集落において沢山の祭やイベントが開催される。
本号では、その中から特に地域に根ざした「祭り」をご紹介!
各字の豊年祭
今帰仁村の各字では、五穀豊穣と村人の繁栄を祈願して豊年祭が開催される。この豊年祭で連綿と受け継がれてきた湧川区の路次楽(ろじがく)や謝名区のアヤーチ獅子は、県の無形民族文化財に指定され、そのほか各集落では多くの伝統芸能が受け継がれている。この日は、村内外から多くの人々が集い、華やかな伝統芸能が奉納される。
毎年開催:湧川区
隔年で開催:今泊区、兼次区、諸志区、与那嶺区、仲尾次区、崎山区、謝名区、仲宗根区、勢理客区、渡喜仁区、上運天区、古宇利区
今帰仁の文化に触れることができるまたとない機会である。
(詳細は下記のURLよりご覧ください。)
ZIPANG-3 TOKIO 2020 ~ 世界文化遺産 今帰仁城跡 ~「ぬーんねしが 今帰仁村19の集落と祭り(4)」
https://tokyo2020-3.themedia.jp/posts/6564987
琉球王国のグスク及び関連遺産群(5)
琉球王国の精華
琉球は中国(明)の解禁政策により海外貿易を制限していた中で冊封貿易を進めます。中国との交易により富を得、南はシャム、安南、マラッカなど、北は日本、朝鮮へと船を出し産物を仲介する貿易を行っていました。
主な交易品は中国陶磁、金、銀、生糸(きいと)、緞子(どんす)、麝香(じゃこう)などを中国から海外へ、逆に東南アジアからは香料、錫(すず)、象牙、酒などを満載して帰国します。
王国の繁栄は第二尚氏の誕生により隆盛(りゅうせい)を極め、王府組織の官僚制の整備と土着の宗教体制を整え、琉球独自の神女組織(しんにょそしき)ノロ制度を確立させます。
1609年薩摩の侵攻により大きなターニングポイントを迎えた琉球は日本と中国の狭間にあって新たな時代への対応を余儀なくされます。
時代に翻弄(ほんろう)されながらも17世紀後半に整備された王府身分制、羽地朝秀(はねじちょうしゅう)・蔡温(さいおん)らの改革等により国家経営を模索(もさく)、17~18世紀には現代に引き継がれる文学、芸能、美術工芸が発展し、王国文化に大輪の花を開花させることになります。
1879年明治政府は琉球藩を廃止、沖縄県を設置。ここに450年の琉球王国の歴史が閉じられます。
世界遺産
琉球王国のグスク及び関連遺産群
(詳細は下記のURLよりご覧ください。)
ZIPANG-3 TOKIO 2020 ~ 世界文化遺産 今帰仁城跡 ~「琉球王国のグスク及び関連遺産群(5)」
https://tokyo2020-3.themedia.jp/posts/6571862
今帰仁村 今泊のフクギ屋敷林及集落景観
(なきじんそん いまどまり)と読みます。
今泊集落は、豊かなフクギ並木の屋敷林が残る集落であり、馬場跡など歴史的資源も多く有します。また、今帰仁城跡のふもとに位置することから、今帰仁城跡からの眺望の対象となる集落でもあります。
したがって、豊かなフクギ並木屋敷林や、伝統的な地割を保全し、建築物や工作物はフクギ並木の高さを越えない高さを基本とします。さらに集落内道路については、排水溝の設置の仕方や、海を守るための下水処理対策を検討し、フクギに囲まれたのどかな集落道として相応しい道路景観の形成を図っています。
また、今帰仁城跡からの眺望に配慮し、大規模な屋根や派手な色彩の建築物など眺望に影響を与えるようなものは避けるよう努めています。
文化的景観の保存状況と基本方針
「今帰仁村 今泊のフクギ屋敷林及び 集落景観 」 は、各屋敷をフクギ で仕切った 屋敷林の集落景観が保たれ、今帰仁城下から集落(今帰仁ムラと親泊ムラ)移動の歴史に由来する集落形態と民俗文化が色濃く残されています。
また、「 今帰仁村今泊のフクギ 屋敷林及び集落景観 」 の価値を踏まえ、成り立ちやそれを支えてきた構成要素を良好な状態で継承することを目的とした基本方針を定めています 。
特に 、保存計画対象範囲の景観の 保全活用 を図るために、次の5項目を基本方針として定めています。
■保存活用の基本方針
① 集落形態の維持及び 、 フクギ 屋敷林の保存・修復に努める
② 沖縄の風水地理に基づいて形成された土地利用の維持に努める
③ 文化的景観の歴史・文化について 、積極的な普及啓発に努める
④ 祭祀空間及び 、祭祀・年中行事の保存継承に努める
⑤ 整備 ・ 活用は、住民 ・ 事業者 ・ 行政の連携により実施する
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