〜執行役員・スガイ マッシミリアーノによる、
故郷ピエモンテの情報発信事業を開始〜
合同会社G.I.Libera(本社:石川県かほく市、代表取締役:池島 範彦)は、この度、ピエモンテ州出身の執行役員・スガイ マッシミリアーノがピエモンテの地域活性のため、情報発信の事業を開始することが決まりました。日本全国にピエモンテの魅力を伝えるため、今回はピエモンテのビエッラで感じられるスローライフをお届けします。
空から見たピアッツォ村
広大なアルプスを背に、北イタリアのピエモンテ州に位置するビエッラ。この地には、時の流れから取り残されたかのような、特別な場所がいくつも存在します。
それは、まるで懐かしい故郷の風景を思わせる、素朴で温かい中世の村や山里。都会の喧騒から離れたビエッラの「スローな時間」は、日本人にとっての「ふるさと」の概念と共通する部分があります。
イタリアで最も美しい中世の村「リチェット・ディ・カンデーロ」
ビエッラの街からほど近い場所に、イタリアで最も保存状態の良い中世の村と称されるリチェット・ディ・カンデーロ(Ricetto di Candelo)があります。14世紀に築かれたこの村は、城壁に囲まれたユニークな構造が特徴です。
リチェットは「隠れ家」や「避難所」を意味し、かつては村人たちが食料や貴重品を保管し、有事の際には身を隠す場所として機能していました。
ルーエに佇むガット(イタリア語で猫の意味)
一歩足を踏み入れると、石畳の狭い路地「ルーエ」が迷路のように張り巡らされ、まるで中世の世界に迷い込んだかのようです。
一つ一つの家屋は、農産物の貯蔵庫として使われていたため、窓が少なく、閉鎖的な造りになっています。しかし、その無骨な佇まいの中にこそ、当時の人々の暮らしが息づいているのです。
この村の最大の魅力は、その「生きた」歴史です。
観光地として整備されながらも、今なお地元の人が暮らし、ワイン醸造が行われ、アート工房や小さな店が軒を連ねています。
特に、毎年春に開催される「カンデーロ・イン・フィオーレ(花咲くカンデーロ)」では、村全体が色とりどりの花で飾られ、歴史的な建造物と自然の美しさが織りなす幻想的な光景を楽しむことができます。
リチェット・ディ・カンデーロは、単なる歴史的建造物ではありません。それは、人々が長い時間をかけて育んできた共同体の記憶を今に伝える、生きた文化遺産なのです。
山の上に佇む歴史地区「ピアッツォ」
ビエッラの中心部から少し離れた丘の上に、静かに佇む歴史地区ピアッツォ(Piazzo)。ここは中世の時代からビエッラの政治・文化の中心として栄えてきました。
ピアッツォへは、レトロな雰囲気のケーブルカー「フニクラーレ」に乗って向かうのがおすすめです。わずか数分の空中散歩でたどり着くピアッツォの頂上からは、ビエッラの街並みと、その先に広がる雄大なアルプスを一望できます。
チステルナ広場のカフェがある通り
石畳の道「コルソ・デル・ピアッツォ」を歩くと、貴族たちの荘厳な邸宅「パラッツォ(建物)」が並び、かつての繁栄を物語っています。中庭を覗くと、まるで時間が止まったかのような静けさが広がっています。
歴史地区の中央に位置する「チステルナ広場」は、かつて市民が集った場所。今もカフェやレストランが軒を連ね、夕方になると地元の人々が談笑する声が聞こえてくるでしょう。
かつて貴族が住んでいたパラッツォ
中庭
ピアッツォは、慌ただしい現代社会とは一線を画した、穏やかで落ち着いた空気感に満ちています。ここでは、人々がゆったりと時間を過ごし、互いに挨拶を交わす日常が大切にされています。
それは、日本人が大切にする「故郷(ふるさと)」の風景と重なるものがあるのではないでしょうか。
謎に満ちた村「ロザッツァ」
ビエッラを訪れるなら、山奥にひっそりと佇む村、ロザッツァ(Rosazza)にも足を延ばしてみる価値があります。この村は、19世紀末にビエッラ出身の政治家フェデリコ・ロザッツァによって、まるで一つの芸術作品のように作り変えられました。
彼の神秘主義やフリーメイソンへの関心は、村の至る所に刻まれています。たとえば、村の中央を流れるチェルヴォ川にかかる橋は、五芒星や十字架のレリーフで飾られ、まるで秘密の儀式が行われる場所のようです。
石造りの家々の壁や通り沿いの噴水には、薔薇や星、不思議な記号が隠されています。
特に、村の中心にあるロザッツァの城と、その内部にある秘密の礼拝堂は、そのミステリアスな雰囲気を象徴しています。
フェデリコ・ロザッツァが友人ジュゼッペ・マッフェイと共に、魂や精神の世界との交信を試みたとされる場所です。
ロザッツァの各地にはこのような五芒星のモチーフが至る所にある
ロザッツァの村は、他の村とは一線を画した、独特のオーラを放っています。それは、ただ美しいだけでなく、歴史の裏側に隠された、人の心の奥底にある神秘的な探求心を感じさせてくれます。この村は、静かな山の風景と、見る者を惹きつける謎めいた建築物が織りなす、唯一無二の場所なのです。
薔薇のモチーフ
冬の神秘的なロザッツァ
ビエッラの「故郷」と日本の「ふるさと」
リチェット・ディ・カンデーロ、ピアッツォ、そしてロザッツァ。これらの村々は、それぞれ異なる顔を持ちながらも、私たちに共通の感覚を呼び覚まします。それは、まるで故郷に帰ってきたかのような、安らぎと懐かしさです。
ビエッラの村々で感じられるのは、物質的な豊かさだけではない、精神的な豊かさです。古い建物を大切に使い、自然と共生し、人との繋がりを重んじる。それは、日本人が大切にしてきた「ふるさと」の感覚、すなわち「故郷」という概念と深く響き合います。
リチェット・ディ・カンデーロの街並み
日々の忙しい生活の中で、私たちはしばしば、自分のルーツや大切な繋がりを見失いがちです。しかし、ビエッラの「スローな時間」の中で、石畳の道を歩き、古くからの人々の営みに触れることで、私たちは改めて自分自身の「故郷」を思い出し、心の平穏を取り戻すことができるでしょう。
ビエッラの村々は、単なる美しい観光地ではありません。それは、私たちの心の中にある「故郷」という場所を再発見するための、特別な旅の目的地なのです。
合同会社G.I.Liberaは、今後も執行役員スガイ マッシミリアーノを通じて、文化や歴史、人々の営みに根差したピエモンテ州の多様な魅力を発信してまいります。日本の皆様に、ビエッラが持つ「スローな時間」の価値をお届けし、地域間の文化交流を深める一助となることを目指します。
【お問い合わせ先】
合同会社G.I.Libera イタリア・ピエモンテ情報発信事務局
E-mail:massirenraku@gmail.com
マッシミリアーノ スガイ
続く・・・
鎹八咫烏 記
石川県 いしかわ観光特使
伊勢「斎宮」明和町観光大使
協力(敬称略)
紅山子(こうざんし)
※画像並びに図表等は著作権の問題から、ダウンロード等は必ず許可を必要と致します。
アーカイブ リンク記事をご覧ください。
【五稜郭の歴史】幕末の見果てぬ夢の象徴ー五稜郭
ペリーの黒船来航に始まる日本の夜明け
徳川幕府が200年以上にわたって行っていた「鎖国政策」は、嘉永6年(1853)のアメリカ合衆国からのペリー艦隊の来航、いわゆる「黒船来航」によって崩れ去った。
巨大な蒸気軍艦の威容を背景にしたアメリカ側の開国要求に屈し、アメリカ大統領からの親書を受け取った幕府は、翌安政元年(1854)、食糧・薪水などの欠乏品の補給や遭難民の保護・引き渡しを保障する「日米和親条約」を締結し、伊豆の下田と蝦夷地の箱館(江戸時代まで、「函館」は「箱館」と表記されていました)を「開港場」とし、同年、アメリカに続いてイギリス、ロシアとも同様の和親条約を締結した。
「箱館御役所」としての「五稜郭」は日本最初の西洋式城郭都市だった
開港を前にした徳川幕府は、開港場となる箱館での外国との交渉や蝦夷地の防衛などを担当する「箱館奉行」を配置したが、その役所や役宅が密集した市街地にあることや港に近く寒気が厳しいなどの生活環境、並びに上陸した外国人による市街地の遊歩に伴い役所が見透かされるといった幕府の威厳の問題、そして港に至近の位置のため艦船からの標的になりやすいといった防衛上の危機感などの理由から、役所、役宅ともに内陸の平坦地へ移転させることとなった。
移転に際しては、四方に土塁を巡らした中に役所を建設し、附近の河川から水流を引き込み周囲を水堀で囲む形態が計画された。
五稜郭夏 約150年前に築造された西洋式城郭・五稜郭跡(国の特別史跡)が、現在は公園になっている。夏には、隣の五稜郭タワーから緑豊かな星形城塞が一望できる。
当時、箱館には、幕府による蝦夷地巡検に同行し、その後、箱館奉行の支配下となった「蘭学者」武田斐三郎が在勤していたが、幕府は、移転計画にある役所の外郭施設である土塁の設計を武田に命じた。武田は箱館に入港していたフランス軍艦の軍人からの情報・教授をもとに、ヨーロッパで発達した「城郭都市」をモデルとした土塁を設計した。
箱館 五稜郭の四季・・・
「五稜郭」とは、近世西洋式城郭の特徴的な構造「稜堡」に学び、
星形五稜にした通称である
これは、近世ヨーロッパに於いて銃や大砲などの火器の発達に対抗するために考案された
土木技術で、武田は、フランス軍人からの助言に従い、さらに独自の工夫も加えたものである。
安政4年(1857)に着工した築造工事は、堀・石垣などの土木工事、附近の河川から水流を引き込むための治水工事、土塁内への役所や附属施設の建築、土塁北側一帯への役宅の建築などが進められ、ほぼ工事が完成した元治元年(1864)、箱館山の山麓市街地にある旧役所が移転し、「箱館御役所」として蝦夷地の政治を担う場所となった。
現在、一般的に使われている「五稜郭」という呼称は、近世ヨーロッパ式城郭に特徴的な構造である「稜堡」が五か所設置されている五稜星形の平面形状からの通称であり、また、当時の築造場所の地名「柳野」から「柳野城」という別称もあった。
(詳細・画像は下記のURLからご覧ください。)
ZIPANG-2 TOKIO 2020「函館市 西洋建築大博覧会(Webサイト)特別編その2【五稜郭】」
https://tokyo2020-2.themedia.jp/posts/4751663
慶祝!〜本年は【北海道】と命名されて150周年〜
平成30(2018)年は、明治2(1869)年に蝦夷地が「北海道」と命名されてから150年目の節目となりま す(明治元年から起算して満150年となる「明治150年」)。 安政6(1859)年の箱館(函館)港開港以降、様々な国との貿易を行っています。
えっ?150年前まで【蝦夷が島】だったの?
明治前期 【明治2(1869)年~同25(1892)年】
明治以前の北海道では、函館港のみが貿易港として開港しており、ロシア領海への出漁が対象となる漁業貿易が特色であったことから、輸出品は漁業関連物資や食料品、輸入品は漁獲した海産物類が 主でした。
その後、明治に入り函館港は豊富な海産物を輸出するための基地として発展し、昆布や鮑(あわび)、 煎海鼠(いりこ※)、鯣(するめ)等を中心に輸出されていました。
輸入については、主に函館に居留する外国人が使用するため、繊維製品 や砂糖類等が輸入されていましたが、輸入額としては僅少なものでした。
また、明治7(1874)年頃からは肥料や火薬の原料として、北海道で豊富 に採掘された硫黄が徐々に輸出され始め、同16(1883)年を境に輸出貿易を 支える主要品目となりました。
※煎海鼠:ナマコの腸を取り除き、塩水で煮た後乾燥させたもの。
知ってました〜? 今でこそ至極当然に堂々たる「北海道」ですが、明治以前は"蝦夷地"(えぞち)とか"蝦夷が島"(えぞがしま)などと呼ばれていたんですよ〜
次々と開港した小樽港・室蘭港・釧路港・根室港の役割分担
明治後期 【明治26(1893)年~同44(1911)年】
編集後記
ミシュラン・グリーンガイド・ジャポン」に、最高評価の三つ星が与えられるなど、函館山展望台からの眺望は国を超えた景観美としての普遍性があるのですね〜!
また、改めて感動するのは、 大東京のど真ん中、日比谷公園の開設が1903(明治36)年6月1日の仮開園式から数えて、今年で115周年らしいのですが、此処の函館公園ときたら、何とそれよりいち早く、1879年(明治12)年に開設24年間も先行しているんですよ。
小生が思うに、当時、特に庭園文化の美意識を尊ぶ祖国英国から派遣された駐在英国領事のユースデン氏の提言と、それに呼応する素地を持ち合せた地元豪商の渡辺熊四郎氏がいて、その他、目の超えた多くの領事館関係者や貿易商人の熱望と力強い応援の後押しが有ったればこそ、実現したに違いない!と自分勝手に想像逞しくしているのですが…(賛否両論お待ちしていま〜す!)
山烏の鳴き声とともに、夜が明け、予想を覆し天空はいきなり白み初めていよいよ朝日が昇ってきましたよ。確か、予報では名古屋地域は雨との事でしたが…本日は天も味方したのか朝日は拝めないものと高を括っていたら、定刻通り朝日のお出ましです。♫ この続きは明日の「函館市 西洋建築大博覧会(Webサイト)特別編その2」でご紹介致しましょう。
ああ〜疲れた〜!
(詳細・画像は下記のURLからご覧ください。)
ZIPANG-2 TOKIO 2020「函館市 西洋建築大博覧会(Webサイト)特別編その1」
https://tokyo2020-2.themedia.jp/posts/4747996
函館市 西洋建築大博覧会(Webサイト)特別編 最終話
平成30年(2018年)は明治元年(1868年)から満150年の年に当たります
明治以降、近代国民国家への第一歩を踏み出した日本は、明治期において多岐にわたる近代化への取組を行い、国の基本的な形を築き上げていきました。
内閣制度の導入、大日本帝国憲法の制定、立憲政治・議会政治の導入、鉄道の開業や郵便制度の施行など技術革新と産業化の推進、義務教育の導入や女子師範学校の設立といった教育の充実を始めとして、多くの取組が進められました。
また、若者や女性等が海外に留学して知識を吸収し、外国人から学んだ知識を活かしつつ、単なる西洋の真似ではない、日本の良さや伝統を活かした技術や文化も生み出されました。
政府では、「明治150 年」を迎える平成30 年(2018 年)を節目として、改めて明治期を振り返り、将来につなげていくために、地方公共団体や民間企業とも一緒になって様々な取組をしています。(内閣官房)
函館西部地区のランドマーク的存在の相馬株式会社の本社社屋です。
函館基坂の下に大正初期に竣工した木造洋館。モスグリーンに塗られた外観は美しく、貫禄十分。外観の意匠はルネサンス様式とされるが、屋根に付けられているぺディメント(破風)や屋根の造りは和風に近く、明治期から大正初期にかけての日本の洋館の特徴をよく示しています。
伝統的建造物の相馬株式会社の前で。
函館ハイカラ號は、1910年(明治43年)12月から千葉県成田市で運行していましたが、
1918年(大正7年)函館へ移り、1936年(昭和11年)まで大勢の函館市民の足として活躍していました。1992年(平成4年)函館市制70周年記念事業のひとつとして、現役復帰を果たし、今や函館の古い街並みにとってなくてはならない存在となっています。
金森赤レンガ倉庫
金森赤レンガ倉庫の生い立ち
金森倉庫の創業者、初代渡邉熊四郎氏
金森赤レンガ倉庫の歴史は、金森倉庫の創業者、初代渡邉熊四郎が最初の事業、金森洋物店を開業したところから始まります。
明治2(1869)年、榎本武揚ら旧幕府軍が降伏し、開拓使出張所が函館に置かれた年、まさに新しい時代の幕開けでした…。
24歳の時に長崎から函館にやってきた熊四郎は、旧金森洋物店(現市立郷土資料館)・旧金森船具店で輸入雑貨や船具の販売等、数々の事業を営むかたわら函館四天王の一人として創設期の函館に数々の業績を残しました。
特に社会、文化事業に果たした役割は大きく、学校や病院の建設、公園や水道施設の整備等、多くの公共事業に私財を投じました。
明治20年〜函館倉庫事業始め
明治後期〜明治40年大火からの復興
昭和後期〜夢倉庫として新たなる出発
昭和63年4月 金森赤レンガ倉庫へ
■函館の各国領事・領事館
アメリカ※ ・・・ 1857~1882、1904~1919
ロシア※ ・・・ 1858~1904、1906~1938、1939~1944
イギリス ・・・ 1859~1934
フランス ・・・ 1859~1874
ポルトガル ・・・ 1861~1888
オランダ ・・・ 1863~1875
スイス ・・・ 1865~1875
ドイツ ・・・ 1865~1876
デンマーク ・・・ 1867~1889
オーストリア ・・・ 1869~1911
イタリア ・・・ 1869~1875
ノルウェー スウェーデン ・・・ 1871~1921
中国 ・・・ 1886~1938
※アメリカ・・・1882年(明治15年)9月、函館在留のデビソン領事が任期を終え帰国、アメリカ人宣教師が事務を取り扱った。1904年(明治37年)キング代弁領事が就任し事務を開始した。1919(大正8年)7月キング氏の死去により閉鎖。
※ロシア・・・1904年2月日露戦争により日本国内の領事が引き揚げる。1906年5月領事が着任し現在の旧ロシア領事館の地で領事館を開いた。1944年(昭和19年)10月ソ連領事館閉鎖。
資料/市立函館博物館所蔵各国領事領事館・函館市史年表
■はこだて一番物語
❓
編集後記
北海道・函館編、今回が最終話となります。昔、金森赤レンガ倉庫さんのベイエリアのビヤホール・レストランのオープンにお招きいただいてからかれこれ30年になります。まるで昨日の出来事のようです。
あの時のことは鮮明に覚えています。1日目の夜は函館に住む知人の案内で、函館山から素晴らしい夜景を眺め、函館に来たら是非、食べさせたいものがあると言っていたイカ刺しをご馳走になりました。北陸の富山、石川、福井を歩いた折に食べたイカ刺しも美味しかったが、ご馳走になった分だけ函館のイカ刺しのほうが美味しく感じたように記憶しています(ゲンキンなものです)。
次の日は朝早く迎えに来てくれ、日本で一番美味しいソーセージをご馳走するからと、ドイツ人レイモンさんのそんなに大きくないけれど素敵なインテリアのお店に連れて行ってくれました。
お店のショーケースには見たこともないくらい沢山の種類のハム・ソーセージが並んでいたのにはビックリでした。数年後ドイツで食べたソーセージよりも美味しかった。(これはご馳走にあずかったからばかりではありません!)きっと、日本人の好む味に工夫されていたのかも?
五稜郭に着いた頃は昼で、お土産のソーセージを待ちきれず、たいらげてしまいました。
夕方には、味噌ラーメンが好みなのに、ここのラーメンは名古屋では食べれないと言われて嫌々食べた塩ラーメン、確かに美味い!試しに名古屋でも食べてみたけれど、その土地で食する味にはかなわないようです。その後、どうやって名古屋にたどり着いたのか、さっぱり思い出せない・・・
食べ物の力は大きい、そこだけは30年前のことを確り覚えている。
つくづく実感しました~おもてなしの心は食の心~と!(小生だけかも)
この度、当Webサイトにて「函館」をご紹介するにあたり、函館の大勢の皆様にお世話になりました。
末筆ですが、衷心より感謝申し上げます。ありがとうございました。
もう一度函館に帰りたいと思っています。出来ることなら青函連絡船で・・・
だけど…北海道新幹線は、快適で早そうですね~
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