ZIPANG-10 TOKIO 2020 萩の宮 梨木神社 (京都) 萩の花が咲きみだれる 9月 ​萩まつり開催❣

​      梨木神社(なしのきじんじゃ)

          『萩まつり』



萩は万葉の時代に最も愛された秋草で、その字もくさかんむりに秋と書いて表し、国訓で「ハギ」と読みます。


万葉集に詠まれた植物の中で最も多く(4516首のうち約140首)、観賞だけでなく食料、薬草、屋根材として暮らしに深い関わりをもつ植物でもありました。


当社は「萩の宮」ともいわれ、京都を代表する萩の名所として知られています。
​境内には500株以上の萩が植えられており、しなやかにたわむ枝と可憐な花が秋らしい情景をつくり出します。


梨木神社 萩まつり 舞踊


梨木神社 萩まつり 舞楽


梨木神社 萩まつり 弓道


​毎年9月、萩の花が咲きみだれる頃に俳句・短歌の短冊が結ばれ、第3または第4日曜日前後に行われる「萩まつり」では、舞踊、邦楽、弓、居合などの奉納行事やお茶会が催され、多くの参拝者で賑わいます。


ご挨拶

梨木神社の萩の花も、咲き始める候と相成り、益々御清祥の段およろこび申し上げます。

扨、梨木神社では恒例の『萩まつり』を、下記の通り執り行います。

​御家族・御友人、お誘い合わせの上、御参拝旁々ご観萩下さいますよう、ご案内申し上げます。

​               令和7年8月 萩の宮 梨木神社 宮司 多田隆男


萩まつり催しもの

令和7年 9月21日(日曜日)〘萩まつり協賛〙

『府市民俳句大会』   

 参加自由(一人二句まで)

 (投句料一人:1,500円)   

 出句受付:午前10時から​ 

 締め切り:午前11時半まで


令和7年 9月27日(土曜日)

<奉納行事>

・午前11時~    

 上方舞 上方舞友の会     

 舞   吉村桂充社中     

​ 演奏  市川佐代子社中

・午后1時~ 

 小笠原流礼法 三三九手狭式   

 弓術披露 弓馬術礼法 ​  ​ 

​ 小笠原教場門人一同


<抹茶席(呈茶)> 

午前10時~午后3時​ ​ 

チャネル宗榮社中 奉仕


令和7年 9月28日(日曜日)

・午前11時 ≪萩まつり神事≫​ 祭典

<奉納行事> 

・午前11時半~ 

 京舞・篠塚流  

 篠塚梅輪社中

・午后1時~     

 居合抜刀術    

 京都山内派 刀新會 

・午后2時~  

 地唄・箏曲​ 

 吉楽会


<抹茶席(呈茶・立礼式)> 午前10時~午后3時​ ​ 

​ 萩の会 奉仕

​※奉納行事等は予定でありますので、当日変更や中止になる場合もございます。

※拝服券・記念品は当日(27日・28日)神社にてお買い求め願います。

  ・拝服券   1,000円

  ・記念品絵皿 1,000円

今年の絵柄は『オミナエシ』です


萩の宮 梨木神社



御由緒

当社は、明治18年10月に三條實萬公を御祭神として創建、別格官幣社に列せられ、大正4年の大正天皇即位式にあたり實萬公の御子實美公が第二座御祭神として合祀されました。


梨木神社という社名は旧地名の梨木町に由来し、転法輪殿(三條家嫡流の邸)は梨木町西側に位置していました。


三條家は五摂家に次ぐ公卿最高の名家で、代々質素清廉を旨とし清貧に甘んじて学を修め徳を養うということが家風であり、すぐれた歌人、学者など賢才偉人を続出した家です。中でも實萬、實美両公は殊に傑出した方であったといわれます。


両公は、学問・文芸の神様として崇敬を集めており、境内にはその御神威にふさわしく江戸後期の国学者で『雨月物語』の著者である上田秋成翁や、日本最初のノーベル賞受賞者の湯川秀樹博士の歌碑が建立されています。


拝殿のかたわらにある天壌無窮の石碑は、實萬公が天壌無窮の神勅を軸に書かれ、日夜皇室の弥栄をご祈念されていた文字を石に刻んだものと伝えられています。


明治天皇はこのことをお聞きになり、石碑の拓本をとられ、2月11日の今の建国記念日にお居間に掲げられ、国家の弥栄、国民の安泰をご祈念されたといわれています。


当社境内辺りは、平安時代前期に臣下として最初に摂政に任じられ藤原北家全盛の礎を築いたとされる藤原良房の邸「染殿第」があった場所とされています。


染殿第は、良房の娘明子(あきらけいこ・文徳天皇の后で清和天皇の生母)の御所としても使われ、当社の手水舎に現存する「染井」は宮中御用の染所で用いられていたといわれています。


また、京都御所の東側は公家衆屋敷が建ちならび、当社と御所の間にある梨木通りは、朝夕参内する公卿たちの参内道であったといわれています。


当社は別名「萩の宮」とも称され、境内には萩が咲き誇り古今を通じて和歌が詠まれてきました。


現在も京の萩の名所として、参拝者の目を潤す場所となっています。 


御祭神

贈右大臣 正一位
三條實萬公(さんじょうさねつむ)



實萬公は、生来すこぶる賢明で温雅高尚なご性質でしたが、尊皇愛国の精神においては確乎不抜の志をお持ちでした。幼少の頃から広く和漢の学を修められ、政令宮中の古実礼典に精通され、幕末の詔勅、諸政令を制定されました。


光格、仁孝、孝明の三帝にお仕えし、幕末国事多難の際には武家伝奏の職にあって清廉に朝幕関係の周旋に奮励され、朝権回復に尽力されました。


安政5年、日米修好通商条約勅許問題に関して反対の立場に立ち、将軍継承問題では一橋慶喜擁立に動いたことから安政の大獄により弾圧を受け、翌6年落飾して一乗寺に幽棲され
10月6日この地で薨ぜられました。


明治2年、明治天皇から「忠成公」のおくり名を賜り、明治18年10月、公の生地である旧梨木町に神社が創建され、別格官幣社の御祭神として奉斎されました。


内大臣正一位 大勲位公爵
三條實美公(​さんじょうさねとみ)



實美公は、和漢の学を始め作歌、作詩、書画の道にいたるまで秀でた才能を発揮されました。ご性質は温雅で玉のごとき君子人の風があったと伝えられています。


このご人徳が多くの人心をとらえ、また一面家訓を厳守され位人臣を極められた時も衣服、飲食、居邸にいたるまで奢るところがなかったといわれています。


實萬公薨去後、その遺志を継がれ幾多の困難を乗り越え、果ては「七卿落ち」となり長州、筑州に不遇をかこたれること4年の長きにわたり、ついに明治維新の大業を達成されました。


明治4年、太政官制における最高官職である太政大臣に就任、明治18年の内閣制度発足後は内大臣に転じられ、一時内閣総理大臣を兼任されるなど、明治政府の要職を歴任されました。


かくて明治24年、54才で病を得て薨去、国葬をもって送られ、大正4年の大正天皇即位式にあたり梨木神社の第二座御祭神として合祀されました。


境内案内

【染井の井戸】


京都三名水 梨木神社 手水舎「染ヰの井戸」


京都三名水『染井(そめい)・佐女牛井(さめがい)・縣井(あがたい)』のひとつである染井の井戸が神社の境内の手水舎にあり、今も名水を拝受しています。

当社の境内は、藤原良房の娘明子(あきらけいこ-清和天皇の御母染殿皇后)の御所の趾で、宮中御用の染所の水として染井の水が用いられたといわれています。染井は甘くまろやかな味で、茶の湯にも適す水としても知られています。​


【御神木 愛の木】



御神木の「桂の木」は葉がハートの形をしている事から、「​愛の木」という名称で親しまれてきました。

​木に触れながら祈ると願いが叶うといわれています。


【天壌無窮の石碑】



三條實萬公が軸に書かれ、日夜皇室の弥栄をご祈念されていましたが、その軸の破損を危惧し石に刻まれたと伝えられています。

明治天皇はこれをお聞きになり、石碑の拓本をとられ、2月11日の今の建国記念日にお居間に掲げられ、国家の弥栄、国民の安泰をご祈念されたといわれています。


『宝祚之隆当与天壌無窮者矣』

宝祚(あまつひつぎ)の隆(さか)えまさむこと
当(まさ)に天壌(あめつち)と窮(きはま)り無(な)かるべし


【湯川秀樹博士 石碑】



日本人初のノーベル賞受賞の理論物理学者である湯川秀樹博士は、生涯の殆どを京都で過ごし、京都大学、大阪大学名誉教授などを歴任されました。京都市名誉市民として表彰されており、学士院恩賜賞受賞、最年少で文化勲章を受章したことでも知られています。
当社「萩の会」初代会長。


 『千年の昔の園も かくやありし
            木の下かげに 乱れさく萩』


​【上田秋成翁 石碑】



上田秋成翁は江戸時代後期の読本作者、国学者、歌人、茶人であり、近世日本文学の代表作『雨月物語』の作者として知られています。

この石碑は、秋成翁が晩年を過ごした羽倉信義邸がこの近辺(寺町荒神口上ル)にあったことから、当社に奉納されたものです。


 『ふみよめば 絵を巻きみればかにかくに
              昔の人のしのばるるかな』


​【お茶室】


梨木神社 お茶会「虚中庵」


大正4年に宮中の賢所(かしこどころ)旧春興殿の一部を払い下げられた建物を茶室として利用していましたが、昭和60年に「虚中庵」が新設されました。

虚中庵は8畳2間の広間で、主に月釜などで使われており、
名水でお茶をいただくことができます。


​【参集殿】


諸祭典の直会や、結婚式のお控室などで使用しています。
机と椅子を常備しており、最大で40名程度のご利用が可能です。

広さ 27畳・21畳


【能舞台】


梨木神社 能舞台(小笠原流元服式)


大正4年に建築された能舞台です。主に結婚式のお控室と写真撮影で使用しています。また、謡や舞踊などのお稽古場としても活用されています。

広さ 舞台  15畳

   舞台外 12畳・12畳・12畳


能舞台にて

当社ではお茶室、参集殿、能舞台のお部屋をお貸ししています。
ご利用希望の旨をお伝えいただければご見学も可能です。
お電話またはメールでご連絡いただくか、ご来社の際に授与所受付にてお尋ねください。


御神水

お水汲みについて

御神水を​お汲みになる際は、手水舎にある蛇口をご利用ください。
蛇口の開栓時間は午前6時~午後6時半頃までです。

授与所にて御神水用のペットボトル(500ml)をお頒かちしておりますので、お土産にもご利用いただけます。


〈決まり事〉

ポリタンクなど大きな容器のお持ち込みはお断りいたします。
手水舎で御神水を用いて容器を洗浄する行為はお止めください。

(容器はご自宅で洗浄してからお持ち込みください。)


神社駐車場はご参拝の為の場所なので、お水汲みの方のご利用はお断りいたします。
その他、お水汲みのマナーについては手水舎の立札に記してあります。
よくお読みになってからご利用いただきますようお願い申し上げます。



染井の水 保存会

御神水「染井」は京都三名水のひとつで、三名水の内いまだ枯れずに現存する唯一の名水です。


当社の境内地は、平安時代に摂関政治の礎を築いた藤原良房の邸「染殿第」があった場所といわれております。染殿第は良房の娘明子(清和天皇の生母)の御所としても使われ、清和天皇も陽成天皇に譲位した後の御在所とされておりました。


「染井」の名称は、その染殿第に因んで名づけられたという説や、宮中の染所で用いられていたことに由来する説など諸説ありますが、千年以上前からこの水が使われていたのではないかと考えられます。


私たちは、この貴重な水を後世に守り伝えるべく、染井の護持運営に努めております。
保存会では、毎月有志の方にお集まりいただき、井戸および境内の清掃を行っております。どなたでもご自由にご参加いただけますので、お気軽にお問い合わせください。


お問い合わせ

梨木神社

〒602-0844 京都市上京区染殿町680
TEL:075-211-0885
FAX:075-257-2624
メール:mail@nashinoki.jp



鎹八咫烏 記
石川県 いしかわ観光特使
伊勢「斎宮」明和町観光大使


協力(順不同・敬称略)

梨木神社

紅山子(こうざんし)


※画像並びに図表等は著作権の問題から、ダウンロード等は必ず許可を必要と致します。



アーカイブ リンク記事をご覧ください。


南部藩総鎮守、櫛引八幡宮。(1)

亭亭と空を差す杉に護られた静寂の空間で、

ひとびとの祈りに寄り添い、佇む。



櫛引八幡宮の草創

櫛引八幡宮は南部家初代光行公の草創と伝えられる。


南部家文書(八戸根城南部家・『八戸家系』、『八戸家傳記』)によると、 文治5年平泉合戦(1189年)に戦功をたてた光行公は源頼朝から糠部郡(ぬかのぶのこおり、 岩手県北部・青森県東部の広大な地域)を拝領し建久2年(1191年)に入部、 後に家士を遣わして甲斐南部郷の八幡宮御神体を奉持せしめ、霊地をトして櫛引村に 宮社を造営し武運長久を祈ったという。


「櫛引八幡宮縁起旧記」によれば、このとき遣わされた家臣とは津島平次郎で、
平次郎は宮地が決まるまで六戸の瀧ノ沢村に仮宮を営んで奉祭した。


また、甲斐から別当僧の 宥鑁(ゆうばん)が供奉し、別当普門院の祖となったという。


津島平次郎の子孫に当たる 滝沢家は八幡宮の鍵守として、普門院とともに代々祭礼を取り仕切った。


また、『櫛引八幡縁起』には、櫛引村に大同年間(806~810)に坂上田村麻呂が祀った 八幡宮の小社があり、同神同体であるので瀧ノ沢の仮宮からこの地に遷座したとある。
以後、 櫛引八幡宮と称し、南部の総鎮守となったのである。


(詳細・画像は下記のURLからご覧ください。)


ZIPANG-2 TOKIO 2020 ~ 南部一之宮 櫛引八幡宮 ~「本日から25日まで、櫛引八幡宮秋季例大祭が執り行われます。(その1)」
https://tokyo2020-2.themedia.jp/posts/4921083



別名「菊一文字の鎧兜」

国宝の「赤糸縅鎧兜」所蔵(2)


櫛引八幡宮は、鎌倉時代より南部藩(青森県南部・岩手県北部)の総鎮守として、多くの人々に尊崇されてきました。現在の社殿は南部重直が慶安元年(1648に)建立したものであり、また、所蔵の国宝・赤糸威鎧をはじめとした宝物、国指定重要文化財の御本殿など、八幡宮全体が文化財となっています。


境内の国宝館には、国宝の「赤糸縅鎧兜」が所蔵されており、これは別名「菊一文字の鎧兜」と呼ばれ、奈良・春日大社の鎧兜と現存甲胄の双壁をなすと言われています。


(詳細・画像は下記のURLからご覧ください。)


ZIPANG-2 TOKIO 2020「櫛引八幡宮の国宝と本殿の彫刻に匠の技を見る!(その2)」
https://tokyo2020-2.themedia.jp/posts/4926609



櫛引八幡宮の建築と昔話(3)


櫛引八幡宮は、盛岡藩の総鎮守としてさかえた神社で、青森県八戸市の西方郊外に位置します。


本殿など現在の各社殿は、正保二年~慶安元年(一六四五~八)に盛岡藩の直営で造営が行われた。 三間社流造で、各部を彫刻と極彩色で飾った華やかな意匠をもつ本殿や、東日本で類例の少ない春日造社殿の末社春日社本殿(前号にてご紹介)をはじめとして、同時代の建物が群としてのこっていることが大変に貴重です。


(詳細・画像は下記のURLからご覧ください。)


ZIPANG-2 TOKIO 2020 ~南部一之宮 櫛引八幡宮~ 「櫛引八幡宮の建築のご紹介と昔話(その3)」
https://tokyo2020-2.themedia.jp/posts/4931072



櫛引八幡宮の流鏑馬とは

宝物や建築装飾など、多くの文化財を所蔵(4)

境内の「明治記念館」は、青森県に現存する最古の洋風建築


奥州藤原氏討伐の戦功により糠部郡(ぬかのぶのこおり)を賜った南部光行が、甲斐国の八幡大明神を六戸に勧請し、貞応元年(1222)に四戸の櫛引村に社殿を造営し遷宮したのが始まりとされ、南部一之宮として多くの信仰を集めてきた八幡宮。


本殿は、江戸時代前期の社殿形式を伝える貴重な遺構として、国の重要文化財に指定されました。国宝・赤糸威鎧(あかいとおどしよろい)、国宝・白糸威褄取鎧(しろいとおどしつまどりよろい)をはじめとする宝物や建築装飾など、多くの文化財を所蔵しています。また、境内の「明治記念館」は、青森県に現存する最古の洋風建築として知られています。


(詳細・画像は下記のURLからご覧ください。)


ZIPANG-2 TOKIO 2020 ~南部一之宮 櫛引八幡宮~ 「櫛引八幡宮の建築のご紹介と流鏑馬について(その4)」
https://tokyo2020-2.themedia.jp/posts/4936982



~建築と工芸~

南部一之宮・櫛引八幡宮の国宝(5)


櫛引八幡宮の文化財

鎌倉時代以来の由緒をもつ南部一之宮・櫛引八幡宮には、その歴史と格式にふさわしくすばらしい宝物が数多く所蔵されています。


中でも 国宝赤糸威鎧「菊一文字」・国宝白糸威褄取鎧を はじめとする国宝2領、国重要文化財3領の鎧はわが国甲胄工芸を代表するもので誠に壮観であります。


そのほか、9面の舞楽面、太刀1振、鰐口2口など中世以来の文化財を伝え、社殿も江戸前期盛岡南部藩主によるもので、八幡宮全体が文化財であり、


灯りに映し出された黄金色の輝き、木のぬくもりを感じる南部一之宮・櫛引八幡宮の
「国宝 御正門」


「国宝 御本堂」左甚五郎作 木鼻 獅子


国宝赤糸威鎧「菊一文字」・国宝白糸威褄取鎧


県重宝 舞楽面 陵王 (ぶがくめん りょうおう)
兜・大袖付附唐櫃  南北朝時代


陵王は羅陵王とも蘭陵王とも呼ばれ、金色の肌で、頭上に首をもたげた龍をつけています。
陵王は中国北斉の武将の名で、怪異な面をつけてよく敵を破ったところから作られた舞といわれ、本来は戦勝を祝うめでたい舞であったが、水の神である龍をつけているところから雨乞いの舞として盛んに舞われました。


この陵王面は吊顎で、目は共彫り、龍が前足を額においてふんばり、炎髪は上部を波形に造り、金色の彩色も良く残っています。


(詳細・画像は下記のURLからご覧ください。)


ZIPANG-2 TOKIO 2020「南部一之宮・櫛引八幡宮の国宝~建築と工芸~(その5)」
https://tokyo2020-2.themedia.jp/posts/4942462



~南部一之宮 櫛引八幡宮~

「日本の伝統と文化を継承(最終話)」


櫛引八幡宮では一年間を通していろいろなお祭りが執り行われます。 お祭りは時代を超えた日本文化の結晶であり、伝統・文化を継承させる場でもあります。


余滴

一戸から九戸まで戸(へ)の付く地名の由来

青森県東部から岩手県北部にかけて一戸から九戸という大変に珍しい数字に戸(へ)の付く地名があります。その由来について簡単にご紹介します。


馬の木戸(きど)説

鎌倉時代のこと源頼朝は、南部氏を甲斐の国(山梨県)から糠部(ぬかのぶ)という地に転封しました。その地の環境から南部氏は領内の各地に牧場をつくり、軍馬を生産したのでした。自然と人々が集まり近くには集落ができました。数字と戸(へ)の付く地名は、元々は牧場の木戸に付けられた番号であったという説です。


柵戸(きのへ)説

奈良・平安時代のことです。蝦夷征伐にやってきた軍隊の駐屯基地では、周辺に柵を巡らして食糧を生産し自給自足で戦っていたようです(当時は、想像するに補給が困難なのと、戦いは人海戦術で長期戦だったのでしょうかね~)。


この柵のことを柵戸といって、それぞれに番号を付けていたものが、地名となったという説です。因みに一戸から七戸までの町村の距離は何と、計ったように約20㎞になります(恐らく、牧場として管理し易いように均等割に計画されたものでしようか?)。


ただし、四戸については当時の細長い地形のせいか現存していませんが(本当にそれだけなのかな~、病室などの4という番号は縁起を担いで使われないのと同じ理由ということも考えられないだろうか?)とは言えその名残として人名の姓だけは残っているようです。


次回以降は、長崎市、対馬市、高山市、名古屋市、天竜市、稚内市、沖縄県等…順不同にてご紹介いたします。


(詳細・画像は下記のURLからご覧ください。)


ZIPANG-2 TOKIO 2020 ~南部一之宮 櫛引八幡宮~「日本の伝統と文化を継承(最終話)」
https://tokyo2020-2.themedia.jp/posts/4947411/



 八戸三社大祭

豪華絢爛 日本一の山車絵巻『前編 』


八戸三社大祭とは

およそ300年の歴史と伝統を誇る、国の重要無形民俗文化財「八戸三社大祭」(はちのへさんしゃたいさい)。2016年12月1日には、ユネスコ無形文化遺産「山・鉾・屋台行事」への登録が決定しました。


一番の見どころは、おがみ神社・長者山新羅神社・神明宮の三神社の神輿行列と、神話や歌舞伎等を題材に各山車組が制作した27台の山車の合同運行。高さ10m・幅8mにもなる山車が通るたび、沿道では大きな歓声があがります。また、ライトアップされた山車が夜空に浮かび上がり、幻想的な雰囲気を醸し出す夜の運行では、昼とはまた違った雰囲気に。


毎年7月31日から8月4日までの5日間、八戸のまちが独特の熱気に包まれ、期間中の人出は100万人以上。青森県には青森ねぶた祭・弘前ねぷたまつり・五所川原立佞武多など津軽地方を中心に有名な夏祭りが多いですが、それらに全くひけをとらない活気と迫力を誇るお祭りです。一足早く始まる八戸三社大祭を見てから、津軽のお祭りを巡るのもオススメです。


「八戸三社大祭」山車のご紹介

おがみ神社・長者山新羅神社・神明宮の三神社の神輿行列


(詳細・画像は下記のURLからご覧ください。)


ZIPANG TOKIO 2020「 八戸三社大祭 豪華絢爛 日本一の山車絵巻『前編 』~みどころ ~」 八戸三社大祭とは
https://tokyo2020-summer.themedia.jp/posts/2360064



八戸三社大祭の歴史

義経北行伝説は今も北の大地で生き続けている!『後編』


八戸三社大祭の始まり

享保5年(1720)、凶作に悩む八戸の有力者たちが、法霊大明神(現在のおがみ神社)に天候の回復と豊作を祈願したところ、無事に秋の収穫を迎えることができました。その御礼として、八戸藩の許可のもと、武士や町人から寄進を募って神輿を建造し、享保6年(1721)、長者山三社堂(現在の新羅神社)に渡御したことが、八戸三社大祭の始まりと言われています。


祭りの変遷

やがて、この祭りには、八戸藩の有力な商人が買い入れた人形を載せて担いだ「屋台」や「虎舞」など、町民で編成した行列が参加するようになり、まちの安泰や豊作を祈願する大規模祭礼として発展していきました。


明治17年(1884)には新羅神社が、その5年後には神明宮の行列が加わって三社の祭りとなり、それまでの同じ人形を屋台に載せるスタイルから、毎年新しく作った山車を運行する形へと変化し、現在の祭りの原型となりました。


現在の八戸三社大祭は、行列の運行経路や参加する民俗芸能など伝統を保ちつつも、民話や歌舞伎などを題材として製作された27台の山車が祭りの余興「附祭」(つけまつり)として参加し、祭りをより華やかで迫力のあるものにしています。


(写真:江戸時代の屋台山車「太公望」。豪華絢爛な現代の山車とは違い、三社大祭の長い歴史の重みを感じさせます。普段はおがみ神社にて通年展示しています。)


おがみ神社


(詳細・画像は下記のURLからご覧ください。)


ZIPANG TOKIO 2020「『八戸三社大祭』神社とともに伝統を守り伝える八戸の人々…義経北行伝説は今も北の大地で生き続けている!後編」
https://tokyo2020-summer.themedia.jp/posts/2368694



~上賀茂神社~

「パンの街」京都が誇る、有名ホテルや人気ベーカリーが多数出店


これまでに約20万人を動員し大盛況だった「京都パンフェスティバル in 上賀茂神社」が3年ぶりにかえってきます!有名ホテルや人気ベーカリーが多数出店予定です。


上賀茂神社 KAMIGAMO SHRINE

賀茂別雷神社 田中 安比呂 宮司

京都最古の神社である上賀茂神社は、賀茂祭(葵祭)の神饌が京料理の源と伝えられているように、古来より食文化との強い結びつきがあります。

現代の食文化の一つである「パン」に焦点を当てたパンフェスティバルは、平成27年に迎えた21年に一度の「式年遷宮」の奉祝事業として初開催し、多くの方々にお越しいただきました。

この事業を通じて、神社に親しみを持っていただくととともに、京都全体の活性化の一助となれば幸いです。


(詳細・画像は下記のURLからご覧ください。)


ZIPANG-6 TOKIO 2020 ~上賀茂神社~ 3年ぶりの「京都パンフェスティバル 」開催 ❣
https://tokyo2020-6.themedia.jp/posts/38001480



※現在、2700件余の記事掲載、下記のサイトからご覧ください。


ZIPANG-10 TOKIO 2020 (VOL-10)
https://tokyo2020-10.themedia.jp/


ZIPANG-9 TOKIO 2020 (VOL-9)
https://tokyo2020-9.themedia.jp/


ZIPANG-8 TOKIO 2020 (VOL-8)
https://tokyo2020-8.themedia.jp/


ZIPANG-7 TOKIO 2020 (VOL-7)
https://tokyo2020-7.themedia.jp/


ZIPANG-6 TOKIO 2020 (VOL-6)
https://tokyo2020-6.themedia.jp/


ZIPANG-5 TOKIO 2020 (VOL-5)
https://tokyo2020-5.themedia.jp/


ZIPANG-4 TOKIO 2020 (VOL-4)
https://tokyo2020-4.themedia.jp/


ZIPANG-3 TOKIO 2020 (VOL-3)
https://tokyo2020-3.themedia.jp/


ZIPANG-2 TOKIO 2020(VOL-2)
https://tokyo2020-2.themedia.jp/


ZIPANG TOKIO 2020 (VOL-1)
https://tokyo2020-summer.themedia.jp/


ZIPANG-10 TOKIO 2020

日本の精神文化と国土の美しさについて再発見 その1. 全世界との情報の共有化 その2. 偏り、格差のないローカリティの尊重! その3. 美しきものへの学び、尊敬、関心を高める教育と推進

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