物質文明と心の文明の融和
人は本来 純で優しい生きものである。あらためて平和を「はっこう文明」の視点で実現した事例を再見する。
少し前に遡ると、デザイン建築のリーダー的存在の仕事が、若者の憧れのまとであった。その一つに象設計集団の名護市役所の風土と伝統のデザイン表現は、多少時を経た感があるが今でも当時の情熱が伝わってくる。
名護市役所 沖縄の希望と熱気が醗酵する空気として今も伝わってくる
現在世界には秀でた指導者や王がいない。国も世界も不安定な状況であり、人の命を無差別に奪う終わりのない戦争に、人は辟易している。
だが国連も宗教指導者でも力及ばず現実は混沌としている。
その訳は人は有史以来道具を使い進化させ、物質文明に邁進し、大量生産に走り人口を増加させ、地球の資源を略奪し尽くし、果ては物質の核まで利用し、核兵器は大国を中心に人を100回も絶滅出来るまで保有している。
国連では核保有国大国が実権を握り、拒否権を行使し、平和も正義もない。行き詰まった欲望の物質文明はこのあたりで終わりにしよう。
今こそ、限り無き人の欲望から、自然、生きもの、人にも優しい「新たな心の文明」へと舵を切る時である。
今 文化・アートは醗酵文明へ移行する機運が高まる
古代の飛鳥・奈良・平安人の熱き心に学ぼう、14世紀でも都市デザインの心いきが伝わる。
トータルデザインでの都市デザイン例の一つ 一宮市の模型資料
人の文明の原点に戻り、人の造った欲望の物質文明技術での無差別攻撃、殺人ではなく、人の心の通う自然の生命の基本ルールで 世界の融和の実現を目指そう。
しかし世界の現実は、5百年前の日本の戦国期の、織田信長の皆殺しによる恨みを残さない戦術と、明智光秀の融和戦法との対立結果は衆知の本能寺の変となった。しかし高野山には物質文明的信長と心の文明光秀の墓碑が二つ並んで立っている。これは何を今に伝えようとしているのであろうか。
何故かこのことは現在のパレスチナとウクライナの戦況のなどの、結末のあるべき未来を示唆しているように思う。
都市環境デザインには地域の人の想いと、歴史風土がとても大切である。余談だがJR岐阜駅前再開発には委員長・デザイナー(旧姓 明智英光)として、信長との融和の場として平和と融和と有機的デザインと、風土と伝統を盛り込み、市と設計関係者の一致した前向きな醗酵心で、深い緑の杜の駅の環境が現在堪能できるまでになっている。下の画像は竣工当時の景観である。
竣工当初のJR岐阜駅広場の有機的骨格
現在の駅からの歩行者用デッキの伸びのびとした空間
今や市バスのロータリーも、当初想定した自然な東濃のビオトープの森に成熟した
岐阜県郡上市大日ヶ岳「長良川源流」をイメージ
最近信長の安土城は、信長が光秀の戦功を評価し、織田臣下で初めての五万石と戦略的要として琵琶湖畔の坂本に築城を許した。その坂本城に惚れた信長が、それより大きい安土城を築城したと、その年月が判明したと友人から聞いた。
ルイス・フロイスは、両者の城は戦国時代の美しい城の代表であると。そして光秀の娘たちは西欧の貴族より気品があると。
人には同じ種の「人」を無差別に命を奪う稀有なDNAがある。それでは人の未来も、残念だが変えられないものなのだろうか。
進化したと自負する科学もAIも、終わりのない物質文明の追求だけでなく、今こそ全力をあげて、人の使命として人の命と心のあり方に取り組むべきである。
行き詰まった欲望の物質文明はこのあたりで終わりにしよう。今こそ、限り無き人の欲望から、自然、生きもの 人にやさしい「新たな心の文明」へと舵を切る時である。
自然の生命の基本的ルールで 世界の幸せを、「はっこう⽂明」で
デザインにも宇宙の原則がある、自然物や美しき風景の描写を通して、感性で人はそれぞれの宇宙の真理を構築できる。
都市環境デザインも同様で、混乱を極める我が国の都市も、デザインの原点に戻り始めると、意外にもすでに身近にその元があることがわかる。
「白黒グレー自然素材色」もその一つ。マル◯三角△四角⬜︎もその一つ。シンプルな素材と人の感性で一見殺風景と見られる空間が、意外にもその要件を満たしている。
モダンデザインの原点であるバウハウスのデザイン運動の基本を、何気なくうまく自然に実践しているではないか。このことが色付きの遊具や、余分な色彩造形がないことで、幼児から小中高大学生大人高齢者までが寄り慕って集まり、自己主張を自然に出来て都市生活を満喫している。
このシンプルさがこそが、物と人と空間を醗酵させている。情報量が簡潔で要素が少ないほど、環境は、空間は、物事は「ホット」であると著名な思想家が一昔前に言っていた。全く現代人が忘れていた大切な醗酵要素であると思う。
そして現代日本人が忘れて不得意になった、和のデザインの基本は、簡素で抽象的文化が伝統であり、それをあっさりとやってのけたのが名古屋市の小公園であり、以前に紹介した「コマパ」である。
これを快挙であると気づいて頂きたい。チコちゃんに「ぼーっとして生きてるんじゃね~よ」と叱られる前に。直線とカーブと、繊細な曲線の仕切りが優しく子供の行動を支えている。何しろシンプルで殺風景どころか都市環境デザインの基本要素を見事に備えている。
人と空間と物の機能が調和している賑わいの発酵環境 名古屋市の小公園「コマパ」
シロ・クロ・グレー・自然素材色は和のデザインの極みであり、コンクリート・砂・舗装材と領域の区分が自由な行動を生み出し、人が生き生きとして美しく見える。この活気がそれを語っている。エレメントの機能と高さ細部の寸法も形状もヒューマンスケールであり程よく美しい。
住民と行政の熱心なやり取りでの、珍しい理想的な都市環境デザインの成果である。
人は 本来純で 優しい心の生きものである
生きものはかって人も、自然の恵と摂理に従うことで、自由に生を謳歌していた存在であったが、次第に「人を」窮屈な生物にしたのは、自然の法を超えた物質文明を進化させたこと、それに伴ない今一つは人の心、考え方、思想の違いを顕在化させた事にある。
現在は欲望の物質文明の存在がさらに大きくなった。それが人の対立と争いの、悲しみと苦しみの果てしない煩悩のもとである。
人はこの枷を、生き物としての慈しみと広い心を持って緩め取り外すことで、人の未来はより自由で幸せなものになれることに目覚めよう。
生命物事は全て永遠ではなく分裂進化する。
自然はそれが共存と互助の関係に進化するが、人の場合は狭量で対立と争いのもとになった。その人が作る法や条約は自然の法には及ばない。
度々で恐縮だが 「過ぎたるは及ばざるが如し」 そして 醗酵文明へ
ここで提唱する「はっこう⽂明」は、人や多くの生命体の活用している発酵の素晴らしい特徴にある。
物に酵素が働き発酵が始まると、最もそれぞれの生物の飲食に適した発酵状態になるが、
ピークを過ぎると微生物により腐敗し多くは害をもたらす。まるで人の世界の諸々、政治、権力その他にもつながる。
人がもしも少しは賢い生物ならば、AIで良好なこの状態を維持保全することが、大きな役割であると考える。
「未来は文化である」
アラブのアブダビの若き指導者は、未来は文化であると宣言し、東西の前衛のデザインを取り込み、輝かしい未来の世界へ前進し始めているとBS放送で知った。
壮大な宇宙からすると浅はかで偏狭な思いつきを金科玉条とする人のグループが生まれ やがて縄張りの国境をつくり、世界を不自由に閉じ込め、僅かな相違を受け入れず、いつまでも争う狭量な生きものになった。
本来生きものは皆、自然の法に従い太陽のもとに生きて来た。その素晴らしさを今取り戻そう。天が宇宙の摂理の決めたとうりに 輝いて生きる幸せを、謳歌し生を全うしよう。生命界の食物連鎖や家畜や植物環境も程良い節度で守る、「過ぎたるはお及ばず」を共有の合言葉に。
脈々と積み重ねてきた、目先の利益の欲望の物質文明から脱皮しよう。そして個々それぞれの思いの道を歩こう。この大自然の恵の他に何がある?「文化がある」
今中東の最新の建築やデザインは最新の感性で、指導者は「未来は文化である」と表明している。
心の再起動で、広い心で原点を見てみよう。平安の昔、仏教と神道がひとつに習合した革新的な時があった。女性の活躍もあった。一千年の昔に大人のポルノ源氏物語も、アニメの原点である鳥獣戯画も産まれ。鎌倉彫刻は後の西欧のロダンよりも躍動的かつ精神性の高い作品が創られていた。何故これから学ばず文化の度合いを下げてきたのか。
伝統を卑下し、遠き古代ギリシャの神々のビーナスなどの石膏コピー像や洋画を模写させてきた。今でもその延長であり、伝統の美は音楽も同様未だ影が薄い扱いの日本人である。
日本の後進性は現代文化に著しい。戦後八十年、欧米物質文明の真似も一段落として、徳川期までの近隣諸国との友好を、平和で奥深い心の文化を。改めて「和のルネッサンス」を試みよう。
その代表は東アジアの漢字と墨の文化にあり、名称と微妙な濃淡の変化は奥深醗酵文化の魅力である。
奈良古梅園 墨色に心を洗う
若き釈迦 大谷翔平にも学ぼう
最近おおらかで快よい大谷翔平の振る舞は、多くの人の賞賛を得ている。それは自然な二千五年前の若き釈迦の再来を見る思いであると人は言う。
文化はグローバルでかつ多様性である。歴史も一方的な史観でなく、過去から未来にかけて一体で見るものであり、明治以降の西欧中心でなく、世界を公平に観るべき時である。
コロンブスのアメリカ大陸発見も異論あり。そこにはずっと昔に人が住み優れた文化があった。鉄砲を持った西欧人が海をわたり侵入したが、日本の教科書には「コロンブス新太陸発見」とある。未だ現在のウクライナ、パレスチナの無慈悲な侵攻と同様に思うのである。
むすび
結論としてユーラシア大陸の果ての列島に、アフリカを旅立った後、様々な人がグレートジャーニーを経て、様々な文化を持ち寄った混合渡来列島人達は、大切な心を風土と伝統で育んで来た。
今、戦後八十年を平和に過ごせたことへのお返しすることが今列島人の仕事である。それが優しい心の文明、自然の摂理の程良い醗酵現象に基づく「はっこう文明」を勧めることであると考えてきた。
補足
森羅万象との融和
JR岐阜駅前再開発
私たち日本人は色彩を軽ろんじていませんか?
服装も家も街並みも都市も国土も一つの景色です。その基本を少し理解すると全てが融和し、調和が始まります。
私たち日本人は色彩を選択する時、他のものごとより理由も感性も十分な検討もない侭、命に別状はないとして決めています。
しかし戦国時代の武将たちは、命をかけて城ばかりではなく、領地から服装、香りまでトータルデザインに尽くしました。
その根底には「恥と誇り」があったのです。それが日本の穏やかな文化の基本です。またその手本は、天地空海、山川草木、生きとし生きるものの姿や色彩など、全て自然の中にあります。それが人間界の風土に育まれた伝統文化です。
今は伝統的な和の優れた文化よりも、外国の派手な文化に目が行きがちですが、それらは彼らに似合う文化であって、そこに住む日本人が美しく見えないばかりか、外国人から見ても日本人は世界一洋服の似合わない人々と言われる所以です。
その都市環境は電柱と看板とバラバラな建築様式と形と色彩の混沌であり、スラムのようだと言われます。それには視覚上の色彩も大きく影響します。さらにわが国の混沌とした環境の改善は大事な未来の子供達や次世代に不調和な環境が影響し、いじめや犯罪など心の問題にも関わります。環境は人をつくると言います。
そこで都市環境と様々なデザインの、発想から実施に至るまで関わった筆者の多数のプロジェクトの経験から、色彩に取り組む実務のトータルデザインについてご紹介しましょう。一例としてJR岐阜駅前地区再開発での筆者が手掛けた色彩デザインの手順が僅かでもご参考になれば幸いです。
(詳細・画像は下記のURLからご覧ください。)
ZIPANG-5 TOKIO 2020 色彩デザイン実践講座 事例1 JR岐阜駅前再開発 森羅万象との融和【寄稿文】 一舟・光秀
https://tokyo2020-5.themedia.jp/posts/21261952
失われた日本の幸せ環境
コモンスペースの復活 コマパ
今回紹介する公園のセンスの良さは
空間と個々の要素の造形力と色彩感覚の新しさにある
それは戦後の疲弊した環境の中、復興と経済成長の急激な変化で、日本は大切な深き伝統、国土環境、都市、地域、住環境の美しき本質を忘れ混濁した都市環境に甘んじて暮らして来た。
コモンスペースとは、人の願う平和で幸せな暮らし環境の基本であり、
人と人が日常何気なく自然に触れ合える、心の通う場である。
それは戦前の大家族から核家族、独り暮らしへと変化してきた社会環境の諸問題の緩和に
必要なキーワードでもある。
今一度私たちがすっかり慣れきった混濁した現状の都市環境を素直に振り返ってみよう。経済大国とは思えない、なんとも恥ずかしい雑な風景ではないだろうか。
私達日本人が海外へ仕事や旅に出かけ、恥ずかしいなどと思わない日本の国土環境にすることは、次世代が未来に誇りを持って世界の平和と幸せを進め、美しい観光立国を目指すためにも大切なことだと思う。
名古屋の街中に現れた現代都市のコモンスペース
(詳細・画像は下記のURLからご覧ください。)
ZIPANG-9 TOKIO 2020 人が微笑む 「心の文明」へ 〔コモンスペースの復活〕 2−7【寄稿文】一舟・光秀
https://tokyo2020-9.themedia.jp/posts/53842537/
【寄稿文】 一舟・光秀(林 英光)
環境ディレクター
愛知県立芸術大学名誉教授
東京藝術大学卒業
※画像並びに図表等は著作権の問題から、ダウンロード等は必ず許可を必要と致します。
発行元責任者 鎹八咫烏(ZIPANG TOKIO 2020 編集局)
アーカイブ リンク記事をご覧ください。
江戸美術 X B&B Italia Tokyo
~imagination~
貴方の感性で真白な壁にお好きな浮世絵を掛けてみて下さい⁈
《なぜ「今」江戸美術なのか》
急速にグローバル化が進む中、昨年は誰もが一旦立ち止まり、考える時間があったのではないしょうか。在宅時間が長くなり、自宅のインテリアを見直す方が増えたように思います。
アートにも注目が集まる今、イタリアモダンな空間にて、江戸美術のある新しいライフスタイルをご提案いたします。
海外への渡航も制限される中で国内へ目を向ける機会も増えた今、「日本の美」を再発見してみませんか。これまでとは違った見え方、新たな発見と共に暮らしのイノベーションが起こることを願っています。
(詳細・画像は下記のURLからご覧ください。)
ZIPANG-5 TOKIO 2020 古今折衷 ~ 誰も見たことのないイタリアモダンな空間で観る 国芳、広重、若冲 ~
https://tokyo2020-5.themedia.jp/posts/12826997
重要文化財の茶室「光華」茶会体験
東京都庭園美術館
東京都庭園美術館 重要文化財の茶室「光華」
四季折々の風情で建物と調和する緑豊かな都心の庭園
都心にありながら緑豊かな当館の庭園には3つのエリアがあります。
朝香宮邸時代から引き継がれ、芝生が広がり開放感のある「芝庭」。
起伏に富んだ景観と茶室で和の情緒にあふれる「日本庭園」。
ベンチが配された寛ぎの空間で、春にはワシントン桜が楽しめる「西洋庭園」。
春夏秋冬それぞれ異なった表情でみなさまをお迎えいたします。
朝香宮鳩彦王の住宅として昭和8年(1933年)に竣工した旧朝香宮邸は港区白金台に建てられています。
建築設計は宮内省内匠寮工務課の権藤要吉で、主要室の内装設計をフランス人のアンリ・ラパンが担当しました。本館は、鉄筋コンクリート造二階建(一部三階建)に造られています。
洗練されたアールデコ様式
旧朝香宮邸本館の外観は装飾を排したシンプルな意匠となっているが、内部は1920年代から1930年代にかけてヨーロッパとアメリカを中心に流行したモダンデザインの意匠に大きな影響を与えたアールデコ様式によるガラスのレリーフ、照明器具、壁画、彫刻などで装飾されています。当時として最新のフランス芸術作品を主要な部屋に配し、洗練されたアールデコ様式でまとめられています。
(詳細・画像は下記のURLからご覧ください。)
ZIPANG-8 TOKIO 2020重要文化財の茶室「光華」で茶会体験をしてみませんか?【東京都庭園美術館】
https://tokyo2020-8.themedia.jp/posts/53070761/
小岩井農場と宮沢賢治(その1)
いま天地を分けた重たい扉が開かれた。
イーハートーブの世界へ向かって新しい旅が始まる
・・・さあ~共に進もう!
小岩井農場にて
天まで届きそうな杉木立・・・
この道の果には尖った三角形の天空が突き刺さっているようだ。この厳かな杉林トンネルは若しかすると、異次元世界への道標かな〜?
多分その向こうには、観世音菩薩様かマリア観音様が鎮座される補陀洛があるのかも知れない・・・
小岩井と言えば、先ず小岩井農場のことを思い出します。今や、牛乳製品のメーカーとして、全国規模のスーパーや地域のコンビニに至るまで、このブランド名は小生の頭の中ではNO.1の高級感イメージが伴なっているのです。
それってやはり、宮沢賢治の影響もあるのかも知れませんね。
かれこれ5 0年も前のことでしたか…夏休みに一週間ばかり利用して、4人仲間とユースホステルを利用しながらの今風、青春きっぷの旅でした。
岩手山を背景としたこの場所の雄大な眺望に加えて、バスに揺られ、農場入口に辿り着くアクセス道は美しい森林地帯を走り抜けたのですが、殆ど人家も疎らな中にも所々に見え隠れする洋館風の関連施設なのか ?それらがまた大変エキゾチックに映るのです。
日本は山国、そして瑞穂の国なので、平地に森林等があれば立ちどころに水田と化してしまうので、森の中を真っ直ぐに道が続く風景と言うものは真に珍しいのでは…?
だからグリム童話なんかでは森の中を迷ってオオカミが化けたお婆ちゃんの家に泊まり、食べられそうになったり…こんな物語を日本の子供等は何ら抵抗なく、 想像力を目一杯働かせて、 山奥の一軒家に置換え、怯えたりしてたモンです。
でもイラスト付きなので、それなりに怖いけど、トンガリ屋根の石造りの洋館が見えたりすると、忽ち憧れが優ってロマンチックな雰囲気に浸れたのです。
確か、賢治氏は洋行されていなかった筈ですが、様々な文献で西洋文化に相当な憧れを抱いて居られたに違いない?と拝察しております。
当時の我々だって同様。第2次世界大戦の敗戦国となり、大変貧乏な時代を過ごしていた訳で、例えば高度成長期を支えた我ら団塊の世代族は1970年初期、驚くなかれ大卒初任給は平均3万9,900円だったのです。
それ以降、家族だんらんや遊び等を忘れ、環境汚染の空の下、ウサギ小屋に住み ワーカーホリック(働き虫)となったなど、世界から奇蹟とも、半分は揶揄されながら、給料も毎年倍増でしたから、これも急成長の "オドロ木桃の木" ‼こんな時代を経て今がある・・・ 当時ヨーロッパへの渡航費は1965年4月10日に出発した「ジャルパック/ヨーロッパ16日間コース」は67万5000円だったそうです。
この年、国家公務員の初任給は僅か1万9100円でした。 海外旅行なんて生涯行けるかどうか?夢のまた夢でしたね〜! さて、肝心の宮沢賢治氏の伝えたたかったこととは……? 幸いにもご協力先の小岩井農場様からは沢山の貴重な画像をご提供頂きました。 宮沢賢治氏は、こんな素晴らしい環境の中で夢を膨らませて数々の美しい永遠の"イーハートーブ" 心の中の理想郷を私達に残されました。
これからワクワクしながら謎の "イーハートーブ" を ご一緒に探って参りましょう。
(案内人 鎹八咫烏)
(詳細・画像は下記のURLからご覧ください。)
ZIPANG-4 TOKIO 2020 小岩井農場と宮沢賢治(その1)
https://tokyo2020-4.themedia.jp/posts/9486454
宮沢賢治 のふるさと原風景とは?
そしてイーハートーブとは?(その2)
さてさて、宮沢賢治氏は生まれながらにして、このスケールアウトした広さを持つ小岩井農場のそばで育ったのです。思いますに、幼児期からの生育環境が人の感性にどれ程の影響を及ぼすものか?甚だ興味深いものがあります。
特に、人工林だと言っても土地改良の結果、120年も経った今、理想的な大地に変身を遂げているのてすね?
第一、オオタカ、ハヤブサ、フクロウといった猛禽類、ツキノワグマを頂点とする多様な生態系が存在する事自体、想像するだけでも、実に滋味豊かな自然林そのものではないでしょうか? 小岩井農場の掲げるモットーが有りました。曰く……
~人のちから、自然のちから~
当に自然共生社会を謳ってます。
これぞイーハートーブの原点かも知れません。
宮沢賢治はこれがあったればこそ、泉のごとく湧き溢れた多彩な感性を磨き上げたに違いありません。それを背景にしたイメージの物語が更なるイメージを呼び起こし……
37歳でこの世を去ってしまいますが、その残されたメッセージとは、人によっても年を経ても異なって見える・・・新しい何かがみえてくる言葉の万華鏡!
神様が彼に託されたこの世への役割だったのですね〜 いま、私達が迎えた世界的なパンデミック・時代の大転換期に当って、人々に古くて、新しい本物の価値観を自ら発見する役割を小岩井農場は担ってるのかも知れない。
行って見よう!空から微笑んでる賢治に逢いに・・・大自然に放たれた牛や羊や山羊たちが待ってる小岩井農場へ。
新しい自分探しに、
そして自分のためのイーハートーブを見つけるために・・・
(詳細・画像は下記のURLからご覧ください。)
ZIPANG-4 TOKIO 2020 新しい自分探しに、そして自分のためのイーハートーブを見つけるために(その2)・・・【寄稿文】日原もとこ
https://tokyo2020-4.themedia.jp/posts/9575184
小岩井農場と宮沢賢治(その3)
~豊かな森林を後世に伝えます~
不毛の大地を、緑豊かな大地に
荒野に一本の⽊を植えることから始まった小岩井農場には、不屈の精神でやり遂げた何代
も亘る先人たちの志があります。
(詳細・画像は下記のURLからご覧ください。)
ZIPANG-4 TOKIO 2020 小岩井農場と宮沢賢治(その3)~豊かな森林を後世に伝えます~
https://tokyo2020-4.themedia.jp/posts/9548644
小岩井農場施設(その4)
リビングヘリテージ(生きている文化財)
小岩井農場施設は、洋式農場を目指して設立されたシステムで、それを示す一連の建物群が良好な状態で保存されております。
それらはすべて明治末期から昭和初期にかけての建築で、そのほとんどが今もなお、現役で使⽤されているのです。
国指定重要文化財の建物は、総務部門の下丸、育牛部門を置く上丸、飼料を生産する耕耘部門がある中丸の3つの地区に集中しています。
我が国における近代農場の発展過程を知る上でも重要な文化財であり、近代日本の大規模農場経営の歴史を示す建物群として後世に伝えるべきものでありましょう。
近代日本の畜産の歴史が垣間見える農場
小岩井農場の歴史は、我が国の酪農をはじめとする畜産の歴史であり、その生産工程・生産技術の試行錯誤・開発の歴史でもあります。明治末期から昭和初期にかけて建設され、現存している歴史的建造物群はその過程を示す貴重な遺産群です。
国指定される建築物のほとんどが現在も使い続けられている、いわば生きた文化財です。
そこで、⽇本の畜産、酪農業の発展の過程をご覧頂きたいと思います。
小岩井農場のあゆみ
(詳細・画像は下記のURLからご覧ください。)
ZIPANG-4 TOKIO 2020 リビングヘリテージ(生きている文化財)「小岩井農場施設」について(その4)
https://tokyo2020-4.themedia.jp/posts/9876738
小岩井農場のリビングヘリテージ
文化財保護法について(その5)
リビングヘリテージ(生きている文化財)
小岩井農場施設は、洋式農場を目指して設立されたシステムで、それを示す一連の建物群が良好な状態で保存されております。
それらはすべて明治末期から昭和初期にかけての建築で、そのほとんどが今もなお、現役で使⽤されているのです。
国指定重要文化財
小岩井農場の敷地内には、重要文化財に指定された明治末期〜昭和初期の建物21棟あり、 そのほとんどが今も現役で使用されています。 大自然の中で、近代日本の畜産の歴史を垣間みることができます。
歴史的建造物群
小岩井農場の創業は1891(明治24)年、いわゆる近現代と歩みを共にしてきたといえます。この度の重要文化財指定においては「我が国における近代農業の発展過程を知る上で重要である」と評価されました。西洋建築にヒントを得た建築群は当時の人々には驚きをもって迎えられた事でしょう。
備考
本記事冒頭に述べました ー
「小岩井農場の敷地内には、重要文化財に指定された明治末期〜昭和初期の建物21棟あり、 その殆どが今も現役で使用されており、 大自然の中で、近代日本において西洋式システムによる畜産の歴史と成果を立証したその重要性を高く評価されたこと」ーとありました。
一般的には、その世界の関係者やプロでもない限り、この様な規定法に目を通す機会は中々無いものです。 改めてこの"国指定重要文化財" の意義について、眺めると、その要件を満たすことはやはり、並大抵のハードルではありませんね〜?
そこで、"小岩井" と聞いただけで何でも知りたい読者の方に概要を特別に付記致しました。
【文化庁】
文化財保護法について①
(詳細・画像は下記のURLからご覧ください。)
ZIPANG-4 TOKIO 2020小岩井農場のリビングヘリテージ(生きている文化財)と文化財保護法について(その5)
https://tokyo2020-4.themedia.jp/posts/9878893/
賢治と小岩井農場の出会い(その6)
賢治と⼩岩井農場の最初の接点は、1910(明治43)年、中学二年の秋であったとされています。中学校の登⼭遠⾜に参加し、岩⼿山からの帰り道に⽴ち寄りました。
畜産中心の農場経営になって凡そ10年。ヨーロッパ⾵の牧畜・耕作⾵風景に魅了されたのか、それからは幾度となく農場を訪れています。
中学⼆年の時、寮の同室に武安丈夫という小岩井農場に父親(育⽜部技士・武安陽吉)が勤めていた少年がおり、この少年について、次のような短歌を詠んでいます。
小岩井の育牛長の一人子とこの一冬は机ならぶる
これが、賢治が初めて小岩井農場を登場させた作品ということになります。ただし、実際には丈夫の父陽吉は育牛長ではありませんでした。賢治が勘違いをしたのか、あえて「育⽜長」としたかは定かではありません。
賢治作品の中の小岩井農場
前述の短歌の後、晩年にかけていくつかの作品の舞台に小岩井農場を選んでいます。⽣前発⾏した本は、心象スケッチ『春と修羅』・イーハトヴ童話『注⽂の多い料理店』(いずれも大正13年発⾏)の2冊ですが、双⽅に⼩岩井農場を舞台とした作品(「⼩岩井農場」・「狼森と笊森、盗森」)があります。
特に⼼象スケッチ『春と修羅』所収の「小岩井農場」は1922(⼤正11)年5月の⼩岩井農場⾵景が⽣き⽣きと描かれ、当時の様⼦を知る上でも貴重な資料となっています。
(詳細・画像は下記のURLからご覧ください。)
ZIPANG-4 TOKIO 2020 小岩井農場と宮沢賢治(その6)~小岩井の育牛長の一人子とこの一冬は机ならぶる~
https://tokyo2020-4.themedia.jp/posts/10027024
黄金の国ジパング『ケセン』全14話より(その12)
宮沢賢治が愛した~種山ヶ原と人首町~Ⅰ
宮沢賢治がこよなく愛した高原
文化的景観
種山ヶ原
気仙(けせん)は、伝統文化がいまも豊かに息づく土地です。
歴史的には「黄金の国ジパング」の名の元となった金の産出地としても知られ、 信仰、祭礼、踊り、建築物や美術工芸などを今に伝えています。
柳田國男が絶賛した地としても知られ、宮沢賢治の創作の源一つでもありました。
現在は、大船渡市、陸前高田市、住田町の2市1町に分かれていますが、 文化財の宝庫として、今もケセンは「黄金の国」と呼ぶにふさわしいエリアです。
種山ヶ原とは
種山ヶ原は、岩手県奥州市、気仙郡住田町、遠野市にまたがる物見山(種山)を頂点とする高原地帯で、物見山・大森山・立石などを総称して別名「種山高原」とも呼ばれます。平原状の高原で気候も冷涼なことから馬の放牧地に適し、藩政時代から利用されてきました。
(岩手県気仙郡住田町世田米大股)
宮沢賢治がこよなく愛した高原としても知られ、童話「風の又三郎」「種山ヶ原」、劇「種山ヶ原の夜」などの作品は、種山ヶ原の風景や気象を題材にしています。宮沢賢治の発想の源である岩手の自然風景地「イーハトーブの風景地」の一つに指定されています。
人首町(ひとかべまち)
宮沢賢治
雪や雑木にあさひがふり
丘のはざまのいっぽん町は
あさましいまで光ってゐる
そのうしろにはのっそり白い五輪峠
五輪峠のいたゞきで
鉛の雲が湧きまた翔け
南につゞく種山ヶ原のなだらは
渦巻くひかりの霧でいっぱい
つめたい風の合間から
ひばりの声も聞こえてくるし
やどり木のまりには艸いろのもあって
その梢から落ちるやうに飛ぶ鳥もある
1924年3月25日 春と修羅 第二集
詩「人首町」は、
早朝の菊慶旅館からまっすぐ五輪峠方向を眺望し、その印象を表したものです。
はじめに
人首(現奥州市江刺区米里)は歴史深い土地柄です。北の明神山から、東の大森山、物見山、烏堂山は、それぞれ坂上田村麻呂と関連ある史跡や、言い伝えのある山々です。その中で大森山は、田村麻呂軍と蝦夷軍の最後の攻防地で、地名の由来ともなった人首丸(悪路王の弟の大武丸の子)の墓があり、言わばこの一帯は古代史エリアになります。
(詳細・画像は下記のURLからご覧ください。)
ZIPANG-4 TOKIO 2020 黄金の国ジパング『ケセン』(その12)宮沢賢治が愛した~種山ヶ原と人首町~Ⅰ
https://tokyo2020-4.themedia.jp/posts/9285176
黄金の国ジパング『ケセン』全14話より(その13)
宮沢賢治が愛した~種山ヶ原と人首町~Ⅱ
黄金の国ジパング『ケセン』
黄金の国ケセンとは
平泉黄金文化を支えた金の産出地としては、本吉、東磐井、気仙、江刺、遠野が知られています。伊達藩時代の気仙四大金山は「玉山、雪沢、今出山、坂本沢」で苦しい藩財政を支えました。中でも玉山金山は金の産出量の多さから「玉千軒」「千人坑」などの言葉を生み、『東方見聞録』のジパングに記された金山もここを指すとの説もあります。
宮沢賢治も感銘を受けた 鬼剣舞【おにけんばい】
岩手県から宮城県にかけて分布する剣舞【けんばい】は東北地方の代表的な民俗芸能の一つであり、なかでも忿怒【ふんぬ】の形相の仮面を掛けて踊る剣舞は、鬼剣舞【おにけんばい】の名称でよく知られています。
ほかに阿弥陀堂の作り物を載せた大きな笠をかぶった笠振りが登場する大念仏などいくつかの形態のものがあります。
これは主として盆に新仏の家や墓、寺などで踊られてきたものであり、念仏歌とともに踊られる亡魂鎮送を目的とした念仏踊の一種です。
また踊り手が鬼と形容される異相の態をしたり、極楽浄土を眼前に見せるような作り物が登場するなど独特の形に意匠を凝らした風流【ふりゆう】の芸能であります。
今回取り上げるのは、岩手県の中・南部に分布する鬼剣舞です。
宮沢賢治が愛した~種山ヶ原と人首町~Ⅱ
宮沢賢治投宿の「菊慶旅館」
菊慶旅館のあった場所は新町と呼ばれ、明和3年(1766)に六軒から始まった町並みと伝えられています。旅館名が変わってから、四代続いていましたが、東日本大震災後、止む無く廃業をしましたが、建物は残し公開していました。しかし、大変残念ながら維持管理の問題から、2018年8月解体されたのでした。
明治後期から大正〜昭和にかけて最も繁盛し、時の大津県知事が十数人の随行者と共に投宿するほどの老舗旅館だったのです。
菊慶旅館が有用されたのは、馬繋場が隣接していたことです。岩谷堂でも馬まで連れて泊まれる旅館はなく、特に南部方面の人々から、大変重要視されたといいます。二つの主要街道を抱え、その分岐点としての位置から、必要不可欠な存在だったのでしょう。
賢治の大正6年9月3日の投宿については、同行者の誰かが体調を崩したと思われ、また岩谷堂へは乗合馬車は一往復だけで、葉書投函の時間帯からすれば、岩谷堂へ戻れる可能性はなくなります。むしろ賢治らは、投宿せざるを得ない状況に置かれたのではなかったかと思います。その後の、賢治一行の足取りは不明ですが、調査の予定日数はまだ3〜4日は確実に残していますので、おそらく休養をとった後に、再度種山ケ原や五輪峠方面に向かったのではないかと思います。
五輪峠と五輪塔
(詳細・画像は下記のURLからご覧ください。)
ZIPANG-4 TOKIO 2020 黄金の国ジパング『ケセン』(その13)宮沢賢治が愛した~種山ヶ原と人首町~Ⅱ
https://tokyo2020-4.themedia.jp/posts/9302948/
タラソテラピー(海洋療法)
地球上の全ての生物は海から生まれた…
私たち人間を含め‘全ての生物の誕生の源は海である’と言われています。海で生まれ進化を繰り返し、やがて陸へ上がった時、生物たちは体内に「小さな海」を残したまま更なる進化を続け現在に至る、とされています。
その理由として、海(海水)の成分が体の中の体液(血液・細胞内液・細胞外液・リンパ液など)の成分や胎内で胎児を包む羊水の成分に非常に似ているためであります。したがって、今でも私たちの記憶(本能)の中には海が存在すると同時に、母の胎内で過ごした安心感を呼び起こし自然とリラックスを促すのです。これらがタラソテラピーの根源になっています。
タラソテラピーの起源は古く、紀元前480年にはエウリピデスが「海は人のけがれを洗い流してくれる」という言葉を残しています。その後、長い年月をかけフランスで海洋療法として確立されました。
タラソテラピーとは
(詳細・画像は下記のURLからご覧ください。)
ZIPANG-4 TOKIO 2020 自然療法(2)タラソテラピー「免疫力を高めてコロナウイルス予防!」
https://tokyo2020-4.themedia.jp/posts/8131344
自然療法 タラソテラピー
フランス ブルターニュ地方にはきれいな灯台がたくさんあります。
ミネラル豊富な海のちからを感じることができる場所です。
タラソテラピー(海洋療法)は食から。
海のミネラルをたっぷり濃縮したフランスのカキ!とっても美味しいです!
現代のスパの礎
タラソテラピーの起源は、ギリシア・ローマ時代にさかのぼりますが、20世紀初頭、フランスの生理生物学者ルネ・カントンによって海水と体液の類似性が証明され、ヨーロッパ全域に医療と保養のタラソテラピーセンターが次々と開設。現代のスパの礎が築かれました。
0コメント