ローランド株式会社
代表取締役社長CEO 蓑輪 雅弘のコメント
地域の名産である「和栗」を世界へ発信し、持続可能な産業の発展と
リジェネラティブなまちづくりを推進されている和栗協議会の取り組みは、異業種で活動する私たちにとっても大きな刺激となっております。
このたびの茶事において正客を務めさせていただくにあたり、“土を耕し作物を育てること、そして心に響く音を奏でること―人間の営みにおける最も根源的な要素である「土」と「音」の大切さ、その深いつながり”について、ゲストの皆様と語り合い、共に理解を深められることを心より楽しみにしております。
~代表取締役社長CEO 蓑輪 雅弘が正客として
「音」と「土」をテーマにトーク・セッション~
■イベント概要
イベント名 : 大阪・関西万博「スペシャル和栗茶事」
茶と栗でひらく未来
~ 遠州の台所から世界へ、一服の文化交流 ~
会期 : 2025年7月2日(水)~7月6日(日)
※全10セッションを予定
会場 : 大阪・関西万博 EXPOメッセ(WASSE)NORTH 会場
「和栗茶事」ウェブサイト:
https://www.shunkado.co.jp/tea/
■ローランドがホストを務めるセッション
テーマ :「命を鳴らす―音楽と土から考える人間」
日時 :2025年7月4日(金) 午後1時~午後2時15分
正客(ホスト) :ローランド株式会社 代表取締役社長CEO 蓑輪 雅弘
ゲスト(敬称略):仲谷 善雄(学校法人立命館 総長)、
須田 万勢(諏訪中央病院 統括院長補佐 リウマチ膠原病内科)、
西村 やす子(株式会社CREA FARM 代表取締役)、
朝倉 行宣(浄土真宗本願寺派 照恩寺 住職/テクノ法要)、
宮武 正之(TRiECHOES/株式会社Ambee 代表)
※「スペシャル和栗茶事」は一般の方のご参加は受け付けておりません。
会場内の「和栗協議会」ブース(WASSE会場 C1ブース)では、一般の方にお茶や、和栗を使った日本各地の名産をお楽しみいただけます。
編集中記
「スペシャル和栗茶事」なんとモッタイナイこっちゃ!今世紀中に日本での万博はあるんかいな~⁇
『一般の方のご参加は受け付けておりません。』でっか⁉
オンライン募集!今からではちょっと無理やな⁈ほんならよ後で、ユーチューブかHPなんかで流したらどないや?
(天の声:大喝!おみゃあさんたわけたことを、主催者の都合も分からんで勝手なことばっかり言やあすな…えか!それと、おみゃあさんが考えそうなことは、ぜったゃあ何か考えてりゃあすから、あんまりなも、とろくっさゃあ余計な事言わんといてちょうだゃあ。えか)
■和栗協議会について
「地域“志”本主義」で描く、リジェネラティブなまちづくり
静岡県掛川の貴重な農作物である和栗が、後継者不足や農家の高齢化により、存続の危機に瀕していることを受け、2022年7月「遠州・和栗プロジェクト」が遠州地域の企業・団体9者とともにスタートしました。
栗農家をはじめとする一次産業全体の課題に向きあい地域を持続発展させるため、掛川栗を地域へ周知させ更には日本全国の栗農家と連携することで、世界に通用する「WAGURI」ブランドの創出を目指し、本プロジェクトを推進しています。
この大きな目標を達成するため、志を同じくする遠州地域の異業種企業や自治体、農業協同組合、大学機関と連携し、2024年に5つの専門部会(生産/研究/技術/イベント・商品/広報・人事)を立ち上げ、農業支援を行っております。
「地域“志”本主義」を理念に、産×官×学×農の業種・世代を超えた共創を進めることで、イノベーティブな包括的コミュニティを構築し、2025年2月には51者へと座組を広げ、一般社団法人「和栗協議会」を設立いたしました。
今回、日本国際芸術祭の「日本の美と心を世界に伝え、未来を創る」というミッションと我々の進めている和栗協議会への親和性を感じ、日本固有の奥ゆかしい精神性や美学をたしなむ「茶の湯文化」と「和栗」の融合を図り、「茶事」という格式高いフォーマットを応用し、「お茶」と「和栗」この2つの地域資産を同時に楽しむことができる世界で唯一無二の「和栗茶事」を開催させていただくはこびとなりました。
一般社団法人 和栗協議会 ウェブサイト:
https://www.shunkado.co.jp/waguri/
■ローランド株式会社について
ローランド株式会社は、デジタルピアノ、シンセサイザー、電子ドラム、ギター関連製品、アンプ、DJ 機器、映像・音響機器などを開発・製造している電子楽器メーカーです。
1972年の設立以来、最先端の技術で新しい「音」を常に追求しながら、世界初、国産初の製品を数多く創出。プロ・ミュージシャンからアマチュア・ユーザーまで、世界中のクリエイティブな人々とともに未来を創る「WE DESIGN THE FUTURE」をブランド・メッセージとして掲げ、音楽や映像の新たな可能性を切り拓いています。
会社名 : ローランド株式会社
(東京証券取引所 プライム市場:証券コード 7944)
代表者 : 代表取締役社長 CEO 蓑輪 雅弘
ウェブサイト:
https://www.roland.com/jp/
※ 文中記載の会社名および製品名などは、各社の登録商標または商標です。
※ このニュースリリースに記載されている情報は、発表日時点のものです。発表日以降に変更される場合がありますので、あらかじめご了承ください。
鎹八咫烏 記
石川県 いしかわ観光特使
伊勢「斎宮」明和町観光大使
協力(敬称略)
紅山子(こうざんし)
※画像並びに図表等は著作権の問題から、ダウンロード等は必ず許可を必要と致します。
アーカイブ リンク記事をご覧ください。
旧中山道 すや
「栗ハ栗ノ味デ」 「きんとんは栗のかたちにもどす」
天然自然そのままの栗の味。
木曽路の秋の気がいっぱいです。
厳選された栗と砂糖のみを使い炊きあげた、気取らず、素朴な味わい
「 栗ハ栗ノ味デ 」
「 きんとんは栗のかたちにもどす 」
という昔からの伝統をいつまでも静かに大切に守っている ~すや~
美濃中津川、町の中を旧中山道が通っている。
木曽路の入口にあたる古い宿場町である。
中津川の町は、 苗木城跡と恵那山の間に広がっています。
旧中山道、写真の左手側は長野県、右手側は坂本(仮称:リニア岐阜中央駅)、恵那、
瑞浪、土岐、多治見から標高320mの内津峠(うつつとうげ)を越えると平安の「三跡」と
称された小野道風公の故郷 春日井市となり、尾張名古屋は目と鼻の先にあります。
中津川の町は、町のどこを歩いても恵那山※が見える。2191mのこの秀麗な山は、美濃と信濃とを分ける分水嶺だ。
この山の上に、刷毛で刷いたような雲が流れると、美濃路のはてに秋がはじまる。
幾筋も波打つように横たわる丘陵には、野萩が紅い花をつけ、やわらかな芒の穂が風にそよぐ。
そして広大な恵那山麓のいたるところに栗の毬が笑みほころびはじめ、
中津川新町の古い菓舗“すや”に、一年のうちでもっとも忙しい季節がめぐってくるのである。
良寛の書から拾ったという「すや」の二文字(※1)、その木曽けやきの大看板を掲げるこの店は、中津川でも、一、二の旧家として知られる家だ。
栗きんとんの箱に貼られている版画風の絵は、わらぶきの茶店を描いているが、
建物はそんな姿で江戸後期の宝暦頃から、中山道に面して立っていた。
※恵那山 日本百名山に数えられる山
標高2,191m。 中央アルプス最南端にあり、頂上には恵那神社の奥宮本宮が祀られています。中腹の「黒井沢登山口」から約4時間、「神坂峠登山口」からは約4時間30分で山頂へ。
初夏から秋は登山客で賑わいます。
そして恵那山は自然の宝庫。多くの高山植物が確認されています。
神坂峠登山口からは山小屋「萬岳荘」を経て約30分、ぐるっと360°の大パノラマが広がる富士見台高原へも行くことができます。
(注)恵那山に登るには登山装備が必要です。また、必ず登山届を提出してください。
創業は元禄年間
江戸から下ってきた一人の武士が、この宿場町に住みつき、「十八屋」の屋号で酢の店を開いた。赤井九蔵というその人が“すや”の初代である。
中津川宿の酢は、中山道でも有名だったらしく、享和二年(1802)に、中山道を大阪から江戸へ下っていった大田南畝・おおたなんぼ(※2)は、この宿場に酢をひさぐ「十八屋」があることを、『壬戌紀行(じんじゅうきこう)』の中に書き留めている。
“すや”の現在の建物は、南畝(なんぼ)が通ったときすでに建っていたわけだが、彼も、この酢屋が百年後に菓子屋に変わろうとは思ってもみなかったことだろう。
(※1)良寛のいろはの書から倣たものです。
(※2)大田南畝 おおた・なんぼ(1749-1823)
江戸後期の狂歌師・戯作者、江戸の人。名は覃。
別号は蜀山人・四方赤良。有能な幕臣でもあり、広く交遊をもち、
天明調狂歌の基礎を作った。
編著「万載狂歌集」、咄本「鯛の味噌津」、随筆集「一話一言」など。(大辞泉)
(詳細・画像は下記のURLからご覧ください。)
ZIPANG-10 TOKIO 2020旧中山道 すや「栗ハ栗ノ味デ」 「きんとんは栗のかたちにもどす」 という昔からの伝統を頑なに守る
https://tokyo2020-10.themedia.jp/posts/55580685
没後200年江戸知の巨星 大田南畝の世界
大田南畝
狂歌の名人「蜀山人(しょくさんじん)」こと大田南畝(おおたなんぽ)(1749~1823)は、平賀源内や山東京伝、版元の蔦屋重三郎や浮世絵師の喜多川歌麿などとも交流のある、華やかな江戸の出版界の中心人物であり、現代でも落語や時代小説などに登場します。
幕臣としても有能で、御家人という低い身分ながら豊富な知識と能力によって登用され、重要な任務をこなしていきます。
なによりも、同時代の事件・風聞から歴史的な典籍まで、目にしたあらゆる事物を書き残した功績は大きく、南畝の記録がなければ埋もれてしまった事柄も多かったと考えられます。
南畝没後200年記念となる本展では、南畝自筆の書物、版本や肉筆画、版画など約180点を通して、幅広く、奥深い南畝の業績を、7つの章で紹介します。
さらに、南畝の生涯の節目ごとに彼を支えた知友で、たばこ屋でもあった平秩東作(へずつとうさく)と蘭奢亭薫(らんじゃていかおる)の紹介も交え、江戸の知の巨人の姿を見つめます。
(詳細・画像は下記のURLからご覧ください。)
ZIPANG-7 TOKIO 2020南畝の多岐にわたる偉大な業績を約180点資料紹介 たばこと塩の博物館(東京・墨田区)で4月29日~6月25日開催 「没後200年江戸知の巨星 大田南畝の世界」
https://tokyo2020-7.themedia.jp/posts/43257763/
水無瀬神宮
御社殿と招福の風
水無瀬神宮について
新古今和歌集 後鳥羽上皇
<水郷の春望>
見渡せば山もと霞む水瀬川夕べは秋となに思ひけむ
〜 鎹八咫烏の横から嘴話 〜
この新古今集の後鳥羽上皇が詠まれた和歌
「見渡せば山もと霞む水無瀬川夕べは秋となに思ひけむ」
はド素人の小生には分かったような分らぬような…?? つい、
’秋となに思ひけむ’ と読んでしまって、どうにもちんぷんかんぷん??(苦笑)
そこで…ネットをひとわたり紐どいてみたら、ひらがな体に訳したものがあり、
“みわたせば やまもとかすむ みなせがわ ゆうべはあきと なにおもいけむ“ となっていました。この “なに’ が曲者でしたね〜 古代人は “なに“ という表現は“何故“そう思い込んだのだろうか?と言う意味に使うのだとか…したがって、高校古典訳の解釈では、
-- 見渡すと、山のふもとは霞んでいて水無瀬川が流れている。夕方の景色は秋が一番だなと、どうして思っていたのだろうか -- となっていました。
それは…例えば清少納言の枕草子に「秋は夕暮れ」、「春は曙」とあるように半ば慣用句化されていた風潮に対する一種の反発心が働いているとする見方があるようです。
なるほど 〜合点 !! 👻😅
祭典(式典)
裏千家『献茶式』
茶道裏千家家元 千 宗室 氏
水無瀬神宮にて
(詳細・画像は下記のURLからご覧ください。)
ZIPANG-5 TOKIO 2020水無瀬神宮 ~招福の風と音と水~「見渡せば山もと霞む水瀬川夕べは秋となに思ひけむ」(その2)
https://tokyo2020-5.themedia.jp/posts/18953112
10年にわたる方丈修復前、最後の特別公開
大徳寺
京都市紫野(むらさきの)船岡山の北辺に広大な境内地を有する臨済宗大徳寺は、元応元年(1319)、東山に遁世していた宗峰妙超(しゅうほうみょうちょう)が、播磨の武将赤松則村の援助でこの地に大徳庵を作ったのに始まり、正中元年(1324)、妙超に厚く帰依した花園・後醍醐両天皇が船岡の雲林院(うじゐ)の跡地を寄進したことによって寺基を拡張し、龍宝山大徳寺として開山しました。
妙超は入宋して日本臨済禅特に公家禅宗に多くの人材を残した南浦紹明(なんぼしょうみょう)の門下であるが、若くして天下の諸禅師を歴参し、京都に帰って天台・真言の旧仏教と論争して禅旨を明確にするに及び、その純粋に宋朝風の禅が朝廷の尊信をえたものであって、妙超は興禅大燈国師の号を賜わり、大徳寺は勅願所とされたのであります。
鎌倉幕府滅亡の元弘三年(1333)、大徳寺は五山の一に加えられ、翌建武元年(1334)には五山第一の南禅寺とならんで五山の上位に列しました。これは建武新政権によって京都中心の五山制度が定められた結果であります。その間、大徳寺は妙超の門派のみが相承することを特許されていました。その二高弟のうち、徹翁義亨(てっとうぎこう)は大徳寺を継いでその基礎を固め、関山恵玄(かんざんえげん)は妙心寺を開いたのでした。
しかし建武の新政が瓦解して足利政権が成立すると、後醍醐天皇と関係の深かった大徳寺は足利将軍家から軽んじられ、五山から除かれてしまいました。
至徳3年(1386年)には、十刹の最下位に近い第9位となっています。
このため第二十六世養叟宗頤は、永享3年(1432年)足利政権の庇護と統制下にあって世俗化しつつあった五山十刹から離脱し、座禅修行に専心するという独自の道をとったのでした。五山十刹の寺院を「叢林」(そうりん)と称するのに対し、同じ臨済宗寺院でも、大徳寺や妙心寺のような在野的立場にある寺院を「林下」(りんか)といいます。
その後の大徳寺は、貴族・大名・商人・文化人など幅広い層の保護や支持を受けて栄え、室町時代以降は一休宗純をはじめとする名僧を輩出しました。
侘び茶を創始した村田珠光などの東山文化を担う者たちが一休に参禅して以来、大徳寺は茶の湯の世界とも縁が深く、武野紹鴎・千利休・小堀遠州をはじめ多くの茶人が大徳寺と関係をもっています。また国宝の塔頭龍光院密庵(みったん)など文化財に指定された茶室も多く残っているのです。
このため京童からは「妙心寺の算盤面」「東福寺の伽藍面」「建仁寺の学問面」などと並んで「大徳寺の茶面(ちゃづら)」と皮肉られました。
享徳2年(1453年)の火災と応仁の乱(1467–77年)で当初の伽藍を焼失しましたが、一休宗純が堺の豪商らの協力を得て復興。近世以降も豊臣秀吉や諸大名の帰依を受けたのです。
江戸時代初期に幕府の統制を受け、元住持の高僧・沢庵宗彭が紫衣事件で流罪の圧迫を受けましたが、三代将軍家光が沢庵に帰依したこともあって幕府との関係ものちに回復したのでした。近世には「二十四塔頭、六十寮舎・子庵」あるいは「二十四塔頭、准塔頭五十九宇(「六十五宇」とも)」などと呼ばれ、末寺は25ヶ国280余寺、末寺の塔頭130余院を数えるほど栄え、朱印地は2011石余を有したのです。
この広大な寺領が大徳寺の経済的基盤であったのですが、明治維新後の上知令によって多くを失ってしまいました。なんとか堂宇を維持するため明治11年(1878年)、塔頭13寺を合併(事実上廃絶)、4寺を切縮、20寺を永続塔頭とする縮小を行う事で、寺運は栄え今日に至っています。
山門(金毛閣)
千利休が建てた金毛閣は、この楼上に利休の木像を置いたことから秀吉の逆鱗に触れ、利休切腹の要因になったことでも知られています。現在、利休の木像はご位牌と共に裏千家に祀られています。
うかつにも、裏千家さんにて撮影した写真を、ご覧になられたいとおっしゃられお貸ししたところ、相手の方がお亡くなりになられ、現在行方知れず、一体どこにあるのやら・・・
(詳細・画像は下記のURLからご覧ください。)
ZIPANG-4 TOKIO 2020 ~本朝無双之禅苑 大徳寺本坊~ 特別公開
https://tokyo2020-4.themedia.jp/posts/9733249/
徳川家康の考えた
『お茶の作法と演能』とは
昭和62年5月、(約40年前のお話です)
尾張徳川家21代当主 徳川美術館(前)館長 徳川義宜氏を訪ねて
尾張徳川家21代目 徳川美術館館長 徳川義宣氏 © 鎹八咫烏
尾張徳川家21代目にあたり 徳川美術館館長でもある、徳川義宣氏(以下徳川)を東京・目白にある財団法人徳川黎明会本部に訪ね、江戸時代の大名の美意識などについておたずねしました…本号はその中から特に徳川家康の考えた「わび茶と能」についてご紹介いたします。
大名にとって相応しい「お道具の美学」
🐦
徳川美術館には、当時の大名が収集したコレクションはじめ、刀剣・武具類、有名な初音の調度、源氏物語絵巻など非常に多くの美術品が収蔵されていますね。
徳川
今日私達が美術品と呼んでいる種々な材質、形のものは、かっては何かしらの目的を遂行するために用いられた道具です。
美術品という言葉自体、明治以降にできた新しい言葉で、江戸時代はすべて「お道具」と称していました。
私はこれは大変いい言葉だと思うんですよ。美術品というのは横文字のアートオブプロジェクトとか、あるいわ芸術と言った場合はファインアートと言ったりします。
ところが「お道具」となるとちょっとニュアンスが違ってくるんですね。まさに文字どおり、何かを拵え(こしらえ)たりするために使うものです。
それらの「お道具」は、ある時は権力を誇示するために使われたりするものです。
徳川美術館 千利休 茶杓
天正19年(1591)2月、豊臣秀吉に切腹を命ぜられた千利休が自ら削り、最後の茶会に用いた、と伝わる茶杓です。茶会後、古田織部に与えられ、織部は長方形の窓をあけた筒をつくり、その窓を通してこの茶杓を位牌代わりに拝んだと伝えられています。
今年は利休生誕500年にあたります。堺の商家に生まれ、戦国の武将たちと相まみえながら茶の湯の道に生きた利休に思いを馳せて・・・
🐦
単なる美術品ではなく、当時の大名の生活にとってふさわしい道具であったわけですね。
徳川美術館心空庵及び餘芳軒
四畳半本勝手の茶室心空庵と、その東側の十畳広間を中心とした餘芳軒からなる。心空庵は茶室に三畳の水屋と矩折の腰掛待合を付ける。材木商を営んだ大寶正鑑の設計になり、霧島スギや神代材などの銘木や奇木を多用する。数寄屋の趣向を凝らした近代和風建築。
徳川
ええ。ことに家康は幕府をつくって将軍になり、引退した後、自分が獲得した新しい政権にふさわしい武家のお作法を定めました。そのお手本となったのが、室町将軍家です。
しかしながら、それをそのままやるのでは、単なるアナクロニズムになってしまう。そこで、大いに工夫し、改善もしました。
お茶の作法も室町時代には正式の礼法として特に行われていなかったのですが、信長、秀吉の時代にあれほど浸透してしまったものを禁ずるわけにもいかず、改めて武家の礼法の中にとリ入れられました。
家康自身は、わび茶の精神の中に危険なものを見出していたようです。
🐦
それは、どういう意味ですか。
徳川
多少専門的になりますが、わび茶の精神が持っていた、自由に新たな価値を見出していくといった精神は、注意しないと下剋上になってしまいます。
利休は何も、茶というのはこの道具でやれ、と唱えたわけではありません。むしろ、その時、その季節、そのロケーションにふさわしい道具だてを常につくりあげていくことを唱えたのです。
価値というものは常に輾転として定まりがたいものであり、常に新たな価値を見出していくところにこそ意義だあるというこの哲学は、政治にとっては危険思想であったわけです。
そこで家康は、わび茶をひとつの作法として新しい形式として定めてしまった。
🐦
しかし、家康が文武両道を推奨したことによって大名が文化を嗜む(たしなむ)ようになり、それが江戸時代の文化に多大な影響を及ぼしたことには違いありませんね。
(詳細・画像は下記のURLからご覧ください。)
ZIPANG-6 TOKIO 2020 尾張徳川家21代当主 徳川義宜氏に聴く!徳川家康の考えた『お茶の作法と演能』とは
https://tokyo2020-6.themedia.jp/posts/37067472/
独自の流派「不昧流」を確立
「客の心になりて亭主せよ。亭主の心になりて客いたせ」 不昧公
大名茶人・不昧公(松平治郷) 茶室 明々庵 不昧公 茶の湯
松江に茶の湯文化を広めたのは、松江藩松平家7代藩主・松平治郷(不昧公)。藩の財政改革に注力する一方で、当代一の茶人として、作法やしきたりに縛られ過ぎない独自の流派「不昧流」を確立しました。
肩肘張らない茶道は庶民にも親しまれ、同時に和菓子文化も醸成。令和の時代の今も、松江の一般家庭では日常的に抹茶や和菓子が楽しまれています。
そんな松江の和菓子は数々の賞を受賞するなど評価が高く、味はもちろん目でも楽しめる芸術品として多くの人に愛されています。
(詳細・画像は下記のURLからご覧ください。)
ZIPANG-9 TOKIO 2020 松江藩七代藩主 松平不昧公好み【明々庵】
https://tokyo2020-9.themedia.jp/posts/54569829
子供たちに茶の湯 指導 自作の石庭にて
表千家流教授 小俣 宗苑
今、人は何か大切なものを求めているように思われます。それは世界が産業革命以来、物質文明での幸せの追求に明け暮れて来ましたが、本当の意味での人としての幸せと平和を願う心、言い換えれば「心の文明」への希求ではないのでしょうか。
山里の自然しかない静かな日常の暮らしのなかで、暮らしの楽しみの一つとして茶のお稽古の環境の調和を考えて工夫をすることは、頭の体操にもなり、動くことで体の健康にも繋がり田舎暮らしも良いものです。
ただこのところの温暖化、地震、台風などによる環境の大きな変化が生じ、清水を湛える池や田畑や土蔵や古い建物、植栽などの処理も課題になり、この調子だと体力が続くかどうか・・・
作物を作らなくなった畑であっても、クマ、イノシシ、サルなどの獣害を心配しながらも茶花を育て、裏山の伐採した木は薪にして、その灰から、お茶に使う灰を何年かけても作れないかと工夫をしていますが、素人ではなかなか上手くはいきません。
別に意図をもってはじめたわけではないのですが、畑の草刈り、獣害のない草や花、周りの環境をあまり醜くしないよう手入れをしていただけですが、すっかり、自然の中に溶け込んで暮らすようになり、偶然お茶を楽しむことと繋がったようです。
裏山の竹林は何かと便利で、結界を造ったり、蹲の水を落とすにも、青竹はすがすがしいですし、莨盆の灰吹きにも切りたては気持ちの良いものです。ただ、ここ20年来、当地も、日本中の例のように獣害が例外でなく、サルの被害ですべてのタケノコがたべられてしまうので、竹を育てるのも一苦労です。
(詳細・画像は下記のURLからご覧ください。)
ZIPANG-7 TOKIO 2020「自然と暮らす茶の湯の楽しみ方」
https://tokyo2020-7.themedia.jp/posts/49215046
お茶の作法は、
日本では四季……季節を取り入れる
~日本の文化とマナー~ 台湾の美術館で茶道!
楊三郎美術館にてお点前 茶道裏千家 正教授 村越のりこ氏
「挨拶」や「おもてなし」で、印象は大きく変わります。
Noriko Mannersは、作法を基本から楽しく、気軽に学ぶことが出来るマナー教室です。
日本人のマナーの良さ、礼儀作法は世界からも注目されています。
「台湾には日本文化に興味ある人が多くいたこともあり、茶道とマナーから交流をするお互いにとって有意義な時間が過ごせています。こういうイベントはその場だけになりがちですが、拠点もあるためじっくりとお互いの文化を理解したうえで『マナー=心配り』を知って、それを広げていくことが出来る……よい蓄積が出来ました」
お茶の作法は、日本では四季……季節を取り入れることで感性を豊かにすることが重要だ。それはマナーも同じ。
台湾でも、土地の風習や季節にあったものを研究し、その上で例えば手紙を書いてみたり、浴衣でのお点前の機会を作ったり……文化・礼法のどちらもが楽しく取り組めるように工夫を凝らして行われている。
「マナーは人々の生活を密着しているもの人と人との潤滑油。時間のない現代人こそ、『無理をしないで』学び続けることが大切だと思います。私自身日々勉強……気づくことは無限にあります」
(詳細・画像は下記のURLからご覧ください。)
ZIPANG-8 TOKIO 2020 ~日本の文化とマナーを学ぶ~美術館で茶道!~台湾で人気「日本の文化と礼法」ハワイへ躍進
https://tokyo2020-8.themedia.jp/posts/51763387/
特別編
民藝 柳 宗悦「ゆべし」
ここのは日本一の折り紙を付けてよいと思います
「ゆべし」と名付くものは各地にありますが
ここのは日本一の折り紙を付けてよいと思います
柚のなかに餅を入れて作ります
形よく色よく
味わいよく香り高く
それに長い月日によく堪えます
柳 宗悦 著「手仕事の日本」より
食で広がる、喜びの輪。
中浦屋は、小さな輪島から世界中へ、食を通じた喜びの輪を広げます。
(詳細・画像は下記のURLからご覧ください。)
ZIPANG-6 TOKIO 2020 柳 宗悦「ゆべし」ここのは日本一の折り紙を付けてよいと思います【輪島・金沢】石川県
https://tokyo2020-6.themedia.jp/posts/37293625/
茗茶潤心 良いお茶は心を潤す
老舗茶屋「妙香園」
六十二万石の城下町・名古屋では、七代尾張藩主・徳川宗春のもとで「茶の湯」が広められ、文化・文政期になって大流行します。やがて下級武士や庶民層にまで浸透し、幕末のころには日常の団らんの場でも抹茶が盛んに飲まれるようになりました。
そんな茶どころ名古屋において、当店は日本一の茶舗を目指し、専門店としてのれんを掲げてきました。創業以来、家訓のようにして守ってきたのは、「良いお茶は心を潤す」の意が込められた「茗茶潤心(めいちゃじゅんしん)」の四文字です。
「茶の湯」の教えにもあるように「お茶」は「心」。一杯のお茶の中には淹れた人の人柄が溶け込み、日常生活に欠かせない真心を伝えます。当店が「お茶の香りと、味と、色で真心を伝えていくこと」を使命としてとらえ、「お客様に喜んでいただくためには何をしたらよいか」を常に発想の原点にしてきたのも、すべて「茗茶潤心」に由来しています。
(詳細・画像は下記のURLからご覧ください。)
ZIPANG-9 TOKIO 2020 茗茶潤心 老舗茶屋「妙香園」
https://tokyo2020-9.themedia.jp/posts/55161598
対来閣にて
草庵は 紅葉を借りて 晴れ着かな ー 鎹八咫烏
宗鏡寺の歴史
圓覚山宗鏡寺(通称沢庵寺)は、 出石町東北、入佐山にあり、開山は京都五山の一つ東福寺の大道一以 (だいどう いちい) 禅師でした。
代々、出石城主の菩提寺でありました。
開基は1392年に、当時の出石城主で山名陸奥守氏清公によって、建てられました。寺名は氏清公の法名「宗鏡寺殿」を 以って名づけたと伝えられます。
当寺は、山陰唯一の伽藍を誇っていましたが、織田信長の但馬征伐で山名家が滅び、寺もまた荒廃したのです。
1616年、小出吉英の援助の元、沢庵和尚を招き、再興されました。
(沢庵和尚紫衣事件は1629)
以来、京都紫野大徳寺派の但馬における中本山として、現在に至ります。
本来、出石出身の沢庵は才に長けて京の都大徳寺でも精進して注目を浴びる存在でしたが、再び故郷へ呼び戻された訳ですね?
それ故、沢庵和尚は開山…寺院を開いた第一世住持。 開基…寺院を創建した人物…となりました。
沢庵和尚の故郷の寺であることから「沢庵寺」と呼ばれ、人々に愛されるのです。
さて、もう一度沢庵和尚の
数奇な人生を辿ってみましょう!
(詳細・画像は下記のURLからご覧ください。)
ZIPANG-4 TOKIO 2020 圓覚山宗鏡寺(通称沢庵寺)と沢庵和尚の生い立ちとその風土…生活の美意識
https://tokyo2020-4.themedia.jp/posts/9808411
沢庵和尚の人徳を偲ぶ秘話が面白い
〜 紫衣 (しえ) 事件とは 〜 沢庵を癒やした "春雨庵"
さて、先の~本朝無双之禅苑 大徳寺本坊~ 特別公開のご案内の記事では " 紫衣事件" に触れていましたよね?何事が起きたのでしょうか? 歴史的に僧衣の位階色を授けるしきたりは天皇即ち、朝廷側の詔において行われた由緒ある制度でしたが、時の政権、徳川幕府は禁中及び公家諸法度を定め、朝廷との関係を弱めるため、寺社への締め付けを厳しくしたのです。
特に、天皇家との所縁が深い大徳寺クラスの寺院に対しては、住持職の指名や紫衣の着用に関しても幕府が絶対的権限を持ち、幕府の許可した者に限るとしていたのです。
中でも大徳寺住持、沢庵宗彭和尚は書画・詩文に通じ、茶の湯にも親しみ、また多くの墨跡を残すなど、文芸にも秀でた方で、多くの公家たちからの人気も高く、とりわけ後水尾天皇が深く帰依された名僧とされていました。そんな背景もあったのでしょう。
嘗ての栄華をた平安貴族たちは、鎌倉幕府以来の武家社会成立以降、皇族貴族階級は名あっても実なしの完全なる骨抜きで、支配階級の座を奪われたのです。
その権力の頂点に立った徳川幕府に至っては、怖いものなし! 長い年月を掛けて抑圧された皇族、貴族の幕府に対する確執たるものは如何ばかりだったことでしょうか? しかも、現代の皇室における叙勲制度の如き制度は、当時でも法衣の位階色を天皇から賜る栄誉感覚は特別なものがあった筈です。
それに抗議したのか朝廷側とご当人、沢庵和尚だったのです。その結果、出羽国への流罪が下されたのです。(沢庵は本来、無欲の人柄とあり、抗議した為の流配でした。それは幕府の天皇に対する不敬不遜の姿勢に憤り、自ら罪を覚悟して反論したものと解されます。)
沢庵を癒やした "春雨庵"とは
(詳細・画像は下記のURLからご覧ください。)
ZIPANG-4 TOKIO 2020 紫衣事件! 悲劇の主人公 ・ 沢庵和尚の人徳を偲ぶ秘話が面白い【寄稿文】日原もとこ
https://tokyo2020-4.themedia.jp/posts/9784846
しょうざん北庭 非公開の茶室で茶道体験
しょうざんリゾート内にある北庭には、大徳寺の塔頭より移築された歴史的建造物である茶室「玉庵」がある。北山杉やもみじに囲まれた静寂の中で、至極の茶道体験を楽しめる。
その他、会場として贅を尽くした迎賓館「峰玉亭」や酒樽を茶室に改築したユニークな「酒樽茶室」もお客様のご希望に合わせてご案内。
美術家と共に京都の自然から一枚の和紙を漉く
(詳細・画像は下記のURLからご覧ください。)
ZIPANG-5 TOKIO 2020 古今折衷「ROKU KYOTO, LXR Hotels & Resorts」3つのシーンで五感を刺激する唯一無二の~レストラン「TENJIN」
https://tokyo2020-5.themedia.jp/posts/19223976
宇治市営茶室「対鳳庵」
「対鳳庵」
宇治茶の振興と茶道の普及を目的に建てられた本格的な茶室で、平等院の鳳凰堂に相対していることから、「対鳳庵」と名付けられました。本場の宇治茶に季節のお菓子を添えてお点前をしています。 初めての方でもお気軽にお越しください。
和菓子の歴史
古代人にとっての菓子は、天然の果物や木の実であり『果子』であったと考えられています。 その後、穀物加工の技術が生まれ「餅・団子」が作られるようになり、甘葛煎(あまずらに)など蔓あまちゃを 煮詰めた甘味が生まれたり、米もやしから飴が作られたりしました。
時代が進み遣唐使が大陸に渡るようになり、唐菓子(からがし)が移入され、粉をこねたり油で揚げるなどの 技術が伝わりましたが、多くは祭神用として尊ばれたようです。
やがて茶が伝わって喫茶の習慣が発達します。その頃になると菓子も趣向をこらすようになり製菓技術は飛躍的に進歩します。また、南蛮菓子も渡来し、カステイラ、ボーロ、ビスカウト、こんぺい糖、有平糖などが紹介されましたが、これらの菓子の製法が和菓子の発展に大きく寄与しました。
江戸時代になると京都を中心とした「京菓子」と江戸を中心とした「上菓子」が競い合って、和菓子製造技術は大きく発展し、現代の和菓子とほとんど変わらない優れたものが数多く生まれました。
そして、明治となり、西洋菓子が伝わりますが、これも和菓子の成長にとって大きな影響をもたらしました。
能歳時記~毎月の御菓子~
玉井屋本舗では、能楽師でもある店主が綴る「能」にまつわるエピソードを題材に上生菓子を創作しております。 職人が材料から厳選し、色合い・食感等を吟味して作り上げたまさに「職人の技」を感じさせる特上の生菓子です。
毎月々々、異なる作品を作り続け、20年間続いている人気のシリーズとなりました。また、生菓子に添えた「しおり」をコレクションとして集めておられるお客様もおられるそうですよ。
0コメント