ZIPANG-10 TOKIO 2020~藍と紅花 古より親しまれてきた二大染料の魅力に迫る~ 「藍のものがたり 紅花のものがたり  ~きらめく二つの色彩の伝統と現在~」


  【企画展】米沢市上杉博物館で7月5日から開催


国宝「上杉本洛中洛外図屏風」ほか、上杉氏ゆかりの文化財を数多く収蔵し、上杉氏や米沢の歴史と文化を紹介する米沢市上杉博物館(所在地:山形県米沢市、館長:曽根伸之)では、
企画展「藍のものがたり 紅花のものがたり ~きらめく二つの色彩の伝統と現在~」を7月5日(土)より開催します。


紺木綿地魚河岸模様絞り浴衣(今昔西村蔵)【後期】


■企画展「藍のものがたり 紅花のものがたり」開催の背景

日本の二大染料である「藍」「紅花」。2種類の植物から生まれる「藍色」と「紅」はそれぞれの伝統と文化を作っています。


山形県の県花「紅花」はかつて県内の経済を支えた換金作物で、金のように価値がありました。そこからわずか1%だけ絞り出される「紅色」は江戸時代、貴重な染料として富裕層を虜にしました。


一方庶民の日常まで普及していたのが「藍色」です。この二つの色彩にまつわる染織資料、材料、道具などから、伝統的染色文化を歴史的・民俗的視点で紹介するほか、伝統色の不思議にも科学的視点で迫り、二つの色彩の魅力と自然のサイクルの中で生活してきた日本人の暮らしや感性を紹介すべく本展覧会を企画しました。


■企画展「藍のものがたり 紅花のものがたり」について

古来、布や糸を染めるために様々な染料が使用されてきました。19世紀の中頃に化学染料が誕生するまでは、動植物から抽出した天然の染料によって色を得てきました。


日本の色彩文化において欠かせない藍色と紅色は、藍と紅花から生まれます。藍と紅花は染料でありながら、それぞれの独自の文化を築いてきました。本展では、この二大染料の色彩と染色技法の歴史、そこから生まれた意匠や衣服を紹介し、その魅力を再発見します。


菊模様型紙(長板中形)(個人蔵)【通期】


紅縮緬絞り刺繍花模様小袖(河北町紅花資料館蔵)【前期】


■開催概要

イベント名: 企画展「藍のものがたり 紅花のものがたり

       ~きらめく二つの色彩の伝統と現在~」

開催日時 : 7月5日(土)~8月31日(日)

       前期:7月5日(土)~8月3日(日)

       後期:8月6日(水)~8月31日(日)

       (展示替:8月4日~5日)

開館時間 : 9:00~17:00(入館は16:30まで)

会場   : 米沢市上杉博物館

       (〒992-0052 山形県米沢市丸の内1-2-1)

アクセス : JR山形新幹線「米沢」駅から2km

入場料  : 一般 590円(470円)

       高校・大学生 390円(310円)

       小・中学生 240円(190円)

       ※( )は20名以上の団体料金

主催   : 米沢市上杉博物館

協力   : 大倉集古館、原始布・古代織参考館、鈴木紅花研究所、

       株式会社新田、赤崩草木染研究所

連携   : 最上川源流よねざわ紅花プロジェクト推進協議会

企画協力 : 株式会社イデッフ


<内容>

(1)展示構成

≪藍のものがたり≫

藍は古くから日本で親しまれ、様々な染色技法と結びつき、布や糸などの染料として用いられてきました。本展では、江戸から昭和にいたる浴衣や型紙に加えて、当時の風俗を描く浮世絵などを中心に紹介し、現代もなお広く受容されている藍染の魅力を、その技法や素材、デザイン性の要素から紐解き、注染などの技法で衣装を凝らした浴衣などをとおして紹介します。


蓼藍(たであい)


≪紅花のものがたり≫

古くから貴族のあこがれの色であった紅は、紅花による染色です。江戸時代、山形県は良質な紅花の一大産地でした。紅染めの原料「紅餅」に加工されて、主に舟運によって京都へ運ばれました。


紅染の染織や意匠から「紅」の色彩の魅力に迫ります。また、戦後、米沢にはなかった紅花染の技法について調査研究に取り組み、栽培から染織までの一貫化に挑んだ鈴木孝男氏の仕事について紹介します。


紅花


(2)ギャラリートーク

日程:7月5日(土) 14:00~

担当学芸員による展示解説。申し込み不要、要入場券


(3)ゲストギャラリートーク

日程:7月13日(日) 14:00~

解説:山村幸夫氏(原始布・古代織参考館館長)


(4)アウトリーチ

「赤崩草木染研究所見学」

日程:7月26日(土) 10:00~12:00

対象:高校生以上

料金:500円

定員:15名(要申込、6月25日(水) 9:00受付開始)

備考:赤崩草木染研究所現地集合


(5)募集制ワークショップ

「ナイトツアー ようこそ夜の博物館『藍と紅花のひみつ』」

日程:7月11日(金) 19:00~20:30

対象:どなたでも(中学生以下は保護者同伴)

料金:500円

定員:20名(要申込、6月11日(水) 9:00受付開始)


「紅花のふしぎ ~ハンカチをそめよう~」

日程:8月2日(土) 13:30~16:00

講師:新田克比古氏、新田翠氏(株式会社新田)

対象:小学生以上

料金:500円

定員:15名(要申込、7月2日(水) 9:00受付開始)


「愛の生葉でストールをそめよう」

日程:8月23日(土) 13:30~16:00

対象:小学生以上

料金:500円

定員:15名(要申込、7月23日(水) 9:00受付開始)


■施設概要

商号 : 米沢市上杉博物館

代表者: 館長 曽根伸之

所在地: 〒992-0052 山形県米沢市丸の内1-2-1

開館 : 2001年9月


【お問い合わせ先】

米沢市上杉博物館

TEL:0238-26-8001


鎹八咫烏 記
石川県 いしかわ観光特使
伊勢「斎宮」明和町観光大使


協力(敬称略)

紅山子(こうざんし)


※画像並びに図表等は著作権の問題から、ダウンロード等は必ず許可を必要と致します。



アーカイブ リンク記事をご覧ください。


「 “紅一匁金一匁”の由来 」
~シルクロードから来た紅染めの魅力~

紅花 染色


日本の国旗は何故日の丸?

我が国は太陽信仰を奉ずる神道の国。国旗は真っ白な地に対して、真紅の日の丸のみ。他国のそれと比較しても実にシンプルそのものですが、その赤円こそが太陽の唯一絶対的存在なのです。


それに対する白地とは余計な飾りなど要らないのです。全ての存在は直視不可能な威光の前に白化し、無となるのですから。太陽の赤は朱色又は緋の色です。故に古来、巫女の装束は白衣緋袴(びゃくえひばかま)でした。


すなわち、国旗のポリシーと同じく神道の徳目である「浄(きよ)き明(あか)き正しき直(なお)き心」に因んで定められています。神の御前では嘘偽りのない全き心を「赤心」と云い、〝真紅〞又は〝深紅〞の色はそのことを意味しました。


表1 真紅を表す伝統色群


伝統色※1の色見本で言えば表1の如く、くすんだ色です。目にも鮮やかな真紅を求めるにはエジプト或いは中東原産の紅花が渡来するまで月日を待たねばなりません。

では、紅花渡来以前の染料とは何だったのでしょうか?

魏志倭人伝中に卑弥呼(247〜248年頃)が魏王に貢献する貢物として以下の記述があります。


ー其の4年、倭王はまた大夫の伊聲耆・掖邪狗たち8人を遣わし、
生口・倭錦・絳青縑・緜衣・帛布・丹・木拊短弓矢を獻じたー


その中の〝絳青縑〞(こうせいけん)とは一体何の意味でしょうか?

この三文字のうち、〝青〞とは古来我が国に産する蓼藍(たであい)のことと分かりますが、馴染みのない〝絳 〞(こう)とは赤色の意味だそうで、染料までは特定できません。


その当時の国産赤系染料は蘇芳(すおう)又は日本茜(あかね)と考えられていました。そして最後の、〝縑 〞(かとり)とは赤糸と青糸を用いて固く織り上げた平織絹布の意味でした。


余談ですが、山形県には〝絳〞をクレナイと読ませる蕎麦屋があり、名付け親の初代御当主が漢文通だと聞いて私は困惑したのです。


何故ならば、紅花染が渡来したのはもっと時代が下がり、少なくとも藤の木古墳(6世紀後半)や高松塚古墳(694〜710年)時代だとされていたのです。


発見された紅花花粉の痕跡では6〜8世紀とされ、私が初めて紅花ルーツ※2 の調査研究でシルクロードへ旅発つ15年前(2002)迄は、3〜4世紀に紅花染の技術が確立していたなどは、凡そ荒唐無稽な話だったからです。


当時提出した研究報告書にも卑弥呼が魏王に献じたその〝絳〞とは茜染めではないのか?と注釈しており、その後、卑弥呼の邪馬台国論争の的となる奈良県三輪山山麓の纒向古墳(3 〜4世紀)から大量の紅花染料の痕跡が発見されたから堪りません。


その事実は渡来人によって紅花が持ち込まれていた可能性と、我が祖先は日本海の公認ルート以外の海路図を使い、広範囲な交易関係が確立していたことを示すものでした。


風土・色彩文化研究所主宰・まんだら塾長
日原 もとこ


                                                                             © 鎹八咫烏

プロフィール

東北芸術工科大学名誉教授、広島県出身。女子美大卒。61 年通産省工業技術院産業工芸試験所技官。豪州国メルボルン王立工科大学政府派遣研究員。帰国後製品科学研究所主任研究官を経て92 年東北芸術工科大教授就任。専門は環境色彩学。このほか風土・色彩文化研究所を主宰、県建築サポートセンター社長、アジア文化造形学会会長、日本デザイン学会及び日本インテリア学会名誉会員。著書、訳書に色彩療法 (単行本)テオ・ギンベル(著)日原もとこ(翻訳)等


(詳細・画像は下記のURLからご覧ください。)


ZIPANG-6 TOKIO 2020【追悼】日原もとこ氏 寄稿文集12 「 “紅一匁金一匁”の由来 」 ~シルクロードから来た紅染めの魅力~(第一話)ACT.JT「鼎」より
https://tokyo2020-6.themedia.jp/posts/32822034



日出ずる国「日本」

鼎33号では、紅花染めの赤色が特別視されたのは日本が"日出ずる国※¹" であり、国家の象徴色=紅花染料であった件のお話をさせて頂きました。


我が国では身分、官位の序列が「冠位十二階」(推古天皇摂政聖徳太子による603年)を以って初めて冠の色で制定されたことを述べましたが、ご面倒でもおさらいのつもりです。


その順位は下表の如く古代中国の陰陽五行説に基き、左先頭の濃紫,薄紫を省く(紫色=古代中国皇帝の最高位色の為)以下、青、赤、黃、白、黒の順に夫々春、夏、中、秋、冬の季節に対応したものです。


貴族女性を虜にした紅花染めのオーラ

紅花は遣唐※²によってもたらされたことになっています。しかし、近年、大幅な見直しがなされています。大和市の纒向古墳※³から大量の染色痕跡が発見されたからです。


ところで、江戸時代中期にはその紅花の生産本拠地が山形県だったことは余り知られていないようです。ましてやその原産地がエジプト乃至西アジアだとするに至っては、今や現代人には殆んど無縁の話題かも知れませんね。


それが明治時代に入ると、この天然染料は日本に限らず、世界的に急速に途絶えてしまったのです。その原因は、英国科学者ウィリアム・ヘンリー・パーキン (1837-1907)発見によるアニリン染料(合成染料の原料)やモーブ染料(赤紫色の塩基性染料)等の発明によって一気に多種多様な合成染料が得られるようになったからです。


それ迄衣服等の布類を染める為には一つ一つ手間暇掛けた手仕事でしたが、一挙に量産化革命をもたらしたのです。因みにパーキンがそれを発見したのは彼が18歳の時でした。


(詳細・画像は下記のURLからご覧ください。)


ZIPANG-6 TOKIO 2020【追悼】日原もとこ氏 寄稿文集13 ~ 日本で‘‘マドンナ’’ シルクロードで‘‘侍女待遇’’ ~その1(第二話)ACT.JT「鼎」より
https://tokyo2020-6.themedia.jp/posts/32852452



〝紅花のルーツを訪ねる〞
日本で‘‘マドンナ’’ シルクロードで‘‘侍女待遇’’


桃源郷のフンザから中央アジアのオアシス都市へ

2003年8月、私達調査隊員5名(隊長日原)は〝紅花のルーツを訪ねる〞と題する映像作品アーカイブス化を目指し、第二回目のウズベキスタンへと出発しました。


ウズベキスタン共和国 古都サマルカンドはティムール帝国の首都としても有名な観光地

首都:タシケント 。民族:ウズベク系(83.8%)、タジク系(4.8%)、カザフ系(2.5%)、 ロシア系(2.3%)。言語:国家語はウズベク語、 ロシア語も広く通用。

宗教:主としてイスラム教スンニ派。(外務省中央アジア・コーカサス諸国の横顔より)


八坂神社 祇園祭 祇園甲部歌舞会「祇園舞妓の小町紅」

山形の紅花畑は明治初期、科学染料により草木染めは姿を消 しても今尚、宮中の伝統行事や法隆寺のお水取りには儀式に則り、紅花染めが用いられる他、祇園舞妓の小町紅は今も生き続けている。

 

〝紅花〞のタイトルを冠したのは、江戸時代、山形県の華々しい基幹産業であり、県花でもあったからです。


第一回目は予備調査(2002年5月)として、パキスタン最北西部の、桃源郷とも呼ばれる杏子の花で有名なフンザ(古代はチベット領王国)でした。


住民は前3世紀のアレキサンダー東征時の疲弊残留した兵士末裔とも…こちらはシルクロードからインドへの往来道ですが、二つあるルートの一つ、カラコラムハイウエイの1本道を5千〜8千m級の山岳地帯を縫う大変険しい断崖絶壁の悪路(イスラマバードからクンジュラフ峠を越えて西域カシュガルとを結ぶルート上)の谷間にある、大変美しい里でしたが、初めから最後迄命からがらの洗礼を受け、残る4回の本調査への基本知識と心構えへを試される過酷な予備訓練でした。(ご関心あれば映像作品を…)


ウルムチから北西部に広大な紅花栽培のジムサル市が存在

さて、ここは割愛して、ウズベクに話をもどしましょう。


実はこの調査開始前から、既にシルクロードには野生の紅花は皆無だとされていたのですが、私共調査隊の命題は砂漠環境における人々の生活実態を色彩の視点で捉える…アーカイブスなので、紅花の有無は敢えて問わないという前提での各隊員役割分担でした。


5年間の調査期間(2002〜2006年)にわたる各国での聞き込みですら、その亜種らしき群生は発見しても、乾き切った大地には一輪も見かけることは皆無。


遂に、その存在を諦めていました。しかし、ウズベキスタンでは、首都タシケントから北方約150㎞離れた郊外に薬用、採油用の紅花畑があるとの情報に、すぐさまジープを飛ばしたのです。


確かに大地に咲いていた紅花畑を現認した時には調査隊一同大歓声を挙げたものですが、殆どは刈り取られた枯れ花の風景で、落胆した我々に同情した運転手が、再びタシケントに戻り、大ドーム型チョルスーバザールへと案内してくれました。


ドームの中は流石にだだっ広く、2階から見渡すと生鮮市場、雑貨、衣類etc…等の分野別売り場が一望出来て、何重にも円形状に配置されており、隣り合う店同士の間には仕切り板も無いのでそれと覚しき店に立ち止まろうものならば、あちこちから「うちの方が安いよ〜」と、まくし立てる喧騒です。


各売り場から「ザフラン安いよ〜」との声に反応して近づくと、それは袋にぎっしりと詰め込まれた紅花の乱花でした。それでも私には大き過ぎるから「半分にして〜」と言えば、「OKいいよ。これ100g200円!」と申します。


「ほんと〜!安いっ!では買いましょう。でもこれはサフランではなく紅花よ?」と言うと、売り子はニヤリ。


日本で紅一匁金一匁(一匁=3.75g、五円玉=3.75g) シルクロードサフラン1g=金1g

サフランが高価な理由は雌蕊3本の柱頭のみがあの独特の香りと味があり、その摘取作業には熟練技術と、短期間に乾燥、密閉する必要がある。例えばこの乾燥サフラン1ポンド (0.45kg) の収穫にはサッカー会場と同程度の耕作面積に約5万~7.5万本の花を咲かせる必要がある。


また、1kgの乾燥サフランを得るには約40時間を必要とし、収穫期には驚異的な忙しさとなる。例えばカシミールでは、何千もの農作業者が1週間から2週間の間、昼夜を通したシフト勤務で収穫を行う。


「貴女はよく分かるね〜此処では此れをザフランというのだよ…本物は高いよ〜」と押し問答していると、隣から「これが本物だよ〜」と差し出されたのが掌に載せた丸い透明プラスチックケースに入ったまさしく本物サフランでした。「これ、1g2200円ね」「えっ!随分高いわね〜」


「高くないよ!何処でもおなじ!こっちのザフランは本物、ゴールドと同じで高い」と言うので、では、日本の『紅一匁金一匁』がシルクロードでは『サフラン1g=金1g』になっているのね?…と渋々購入。


驚きました。ご当地ではサフランは紅花の100倍の価値があるのです。正しく逆転。特にイスラム圏諸国では、その黄色の色素と気高い香りこそ、アッラーの神への捧げものでした。


(詳細・画像は下記のURLからご覧ください。)


ZIPANG-6 TOKIO 2020【追悼】日原もとこ氏 寄稿文集14 ~ 日本で‘‘マドンナ’’ シルクロードで‘‘侍女待遇’’ ~ その2 (第三話)ACT.JT「鼎」より
https://tokyo2020-6.themedia.jp/posts/32883216



紅花を古代中国に伝えた西域使節の張騫


紅花が遥々シルクロードを越えて古代中国へ齎されたのは前2世紀前漢武帝(BC140〜 87)の時代でした。それを初めて持ち帰ったのが張騫(ちょうけん)(BC164〜113)とされています。


写真右 漢武帝の悲願で匈奴挟撃作戦を築く為大月氏国へと向かう西域使節の張騫一行

写真左 前一世紀、匈奴は本拠地「祁連山脈」の麓で激しい漢~匈奴戦で壊滅。命綱の牛馬羊と紅花畑を失い、その名も歴史から姿を消した。


彼は武帝の命により、毎年本土を荒らし回る宿敵、遊牧騎馬民族の匈奴(きょうど)を挟撃する為の同盟関係を築く狙いで大月氏国へ派遣された使節でしたが、彼はゴビ砂漠に至る甘粛省を出た途端に早速、匈奴に捕まり11年間も囚われの身になりながら隙を狙って目的地、大月国(現在のアフガニスタン北部に比定)への到達を果たしたのです。


しかしその帰途、慎重に別ルートを選んだにも拘らず不運にも再び匈奴に捕まり、更に1年間を重ねる羽目に……。


結果的に、至上命令だった大月国との同盟協定は不発に終わりましたが、様々な西域諸国の情報提供と共に地理の詳細を伝える貴重な成果を収めたのです。武帝は諦めていたその奇跡的生還を喜び〝衛尉・博望侯〞という異例の抜擢を以って遇しました。


ただ紅花に関する話は史記其他を調べても、張騫自身が伝えた史実はないのですが、帰還後、彼は再び万全の陣容整え西域へ3度の派遣と外交ルートの安定化で、多様な交易品もあり、その一つであったのかもしれませんね。


紅花で化粧していた匈奴の女性たち

匈奴にとつて古代中国への侵略と、略奪行為は誠に楽しみな格好の恒例化行事でしたが、逆に非力な農民達から見れば匈奴こそまさに悪魔の権化でした。


その匈奴が命の次に大事にしたのは二つ。天馬(汗血馬)と紅花でした。


…何故それが大事か?…

史記・匈奴列伝によれば、 冒頓 (ぼくとつ)(単于ぜんう)(=首領)にとつての紅花は 、公(=后)を始め、女性達にとっては自らを美しく輝かせる命の化粧原料だったのです。しかし、紅花の色素を得るには野生種では間に合わず、安定した収穫には大規模な畑が必要でした。


その場所が現在の甘粛省河西回廊にある 祁連(きれん)山脈の麓、臙脂(えんじ)山も しくは焉支(えんじ)支山です。事実、彼らは広大な牛馬等の牧場も併設したのです。


しかし、張騫が西域から帰国後、間もなく漢の衛青(えいせい)・霍去病(かくきょへい)去病将軍率いる漢軍は一万騎を持って匈奴に挑み、激戦を繰り広げたのです。


最大の勢力を持つ北匈奴との間で、1万8千の首領級を含む兵士を捕らえたとあります。匈奴軍最大勢力だった北匈奴の首領単于は壊滅に帰して、命からがら万里の長城の外側、北漠に消え失せ、二度と歴史上にその名が復活することはありませんでした。


以来、漢民族は匈奴の貴重な宝物であったこの秘密基地をまるごと獲得した訳です。それより何より、漢軍が腰を抜かしたのは、あの誇り高き匈奴が隠れて農業に手を出していたと は……。


匈奴は歴史から姿を消しても紅花は生き続ける


紅花は歴史的にロマンと哀切に満ちた秘話を抱える。


斯くして、匈奴は歴史から完全に姿を消しました。
匈奴は文字を持ちません。漢軍は流石にこの虚しく残された秘密基地を想う匈奴に成り代わり、万感を込めて以下の絶唱を遺しました。


「失我祁連山,使我六畜不蕃息,失我焉支山,使我婦女無顏色」

〜祁連山を奪われ牛や羊と共にする生活を失った。また焉支山を失い、女たちが化粧する紅ももうない〜(訳)


斯く申す私もこの名文に繰り返しこみ上げてくるものを禁じえません。
さて、紅花のルーツを探している私には依然として疑問が残るのです。


北匈奴が壊滅しても、それ以前の内紛で漢に降った南匈奴の大勢力や、黒竜江付近奥地にも参戦しなかった支族には多くの紅花化粧の慣習は残って居る筈。


女性の美に対する執念と慣習は一朝一夕で消滅する筈がない!
現在もその化粧法が何処かに残され点在する⁈


そう確信した私でした。


脚注

※1 出国BC139~126頃帰国。

※2 匈奴独特の価値観とは…武力も持たず定住し、一生農業に携わる農民ほど馬鹿化たものはないと蔑視。

※3 千年も経た今日、同所は中国領の山丹軍用馬場として活用されている。


(詳細・画像は下記のURLからご覧ください。)


ZIPANG-6 TOKIO 2020【追悼】日原もとこ氏 寄稿文集15 紅花化粧はあの遊牧騎馬民族 〝匈(きょうど)奴 〞の作品だった(第四話)ACT.JT「鼎」より
https://tokyo2020-6.themedia.jp/posts/32932396



紅花由来説に隠れたこぼれ話


到頭、紅花染色に纒わる5回シリーズは本編を以て最終となります。


前号では、頬紅を発明した主人公がBC1〜2C頃、漢の武帝時代にシルクロードの大半を牛耳り、古代中国への侵入略奪を重ねていた狩猟騎馬民族の匈奴だった話。


前々号は日本の女王紅花が本場シルクロード諸国では逆転の侍女待遇だった衝撃のお話でした。そこには強力なライバルが存在したのです。その名は〝サフラン〟イスラム圏では黄色を指す言葉です。別名は〝クロッカス〟。


つまり、紅花を英名、サフラワーと呼ぶのは紅花が黄色の花として認識され、サフランの代用品として、日常的にはパンに紅花の黄色を混ぜて焼くと、サフロールという成分の抗菌性で長持ちするのだとか…日本のように複雑な工程を繰返して、赤い色素を取る発想が殆どないようです。


しかし、サフランは彼らにとって大変高貴な香りと共に、その黄金色にオーラを感じるのだとか…故に、〝サフラン1g=金1g〟の謳い文句も日本の〝紅一匁金一匁〟と同義語。


理由はシルクロード諸国の殆どが砂漠性の乾燥地帯なので、年中あの強烈な日射しに晒されたら、ひと堪りもありません。彼らが好むのは最高彩色。配色においても然りです。日本では気恥ずかしい色使いと言うべきか、まるで毎日舞台衣装を着ているが如しです。


反対に我国では1、2位を争う紅花染めと紫根染は最も退色し易い存在ですが、それ故に日本で愛でられる面もあるのです。それは日本独特の感性を育んだ温帯特有の気候風土が関係するのか、この退色現象に心を寄せたのは時の主人公が、平安貴族層だったことに注目してみましょう。


多勢の仕女を抱え、暇を持て余す女性貴族たちの嗜みとは主に、手習い、琴、和歌だったそうで、関心事は自ずと四季折々の歳時記に向かいます。


温暖で湿潤な環境は多彩な植生と、刻々変化する四季の彩りに彼らの心に生じた、移ろい、儚さ、翳り、おぼろ、霞み、秘めやか、憐れ…等々の抑制に傾く美意識です。これの真反対にある砂漠環境では推して知るべしですね。


山形県と言えば新潟と秋田に挟まれた地味な土地柄ですが、江戸中期〜明治初期にかけては天下に轟いた謳い文句が、〝紅一匁金一匁〟でした。それは日本一の紅花産地山形のウルトラ景気の表現だったのです。


紅花栽培が何故山形だったのか…?


(詳細・画像は下記のURLからご覧ください。)


ZIPANG-6 TOKIO 2020【追悼】日原もとこ氏 寄稿文集16「紅花由来説に隠れたこぼれ話」(第五話)ACT.JT「鼎」より
https://tokyo2020-6.themedia.jp/posts/32969917



酒田港と紅花 そして近江商人と北前船


日本海を表日本にした北前船の活躍

江戸時代半ばから明治の半ばにかけて、大阪と北海道を結び物流専門の輸送手段が北前船てした。


酒田港と紅花は切っても切れない仲

「最上紅花」は日本一の産地となった山形県花の呼称です。
その酒田港、最盛期には日本の真ん中とされたほど、脚光を浴びた北前船の本領を発揮したところでした。


のこぎり商法の由来

江戸時代から明治にかけて日本海の海運で活躍した、主に買積みの北国廻船(かいせん)です。この買積み廻船とは商品を預かって輸送するのではなく、その船自体が寄港地でその土地の商品を買い、それを他の寄港地で売買して、利益を上げるシステムなのです。


このアイディアは当初、近江商人たちの発想で、当然彼らが主導権を握っていましたが、こんな美味い汁を彼らだけに吸わせて放っておく手はありません。(独禁法なんてなかったのでしょうね)後に船主が主体となって交易するようになりました。


暖流の對馬海流は北航路を早く走り、上りではリマン海流に抗いながら、北陸以北の日本海沿岸諸港から下関を経由して瀬戸内海の大坂に向かうのです。


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ZIPANG-4 TOKIO 2020 表日本とは日本海側だったこと知っていますか?(その1)・・・【寄稿文】日原もとこ
https://tokyo2020-4.themedia.jp/posts/10889691



「最上紅花」 が「北前船」のプリマドンナだった


はじめに

前回の記事では日本海側こそが「表日本」だったお話に焦点を合わせましたが、それには切っても切れない主人公が「北前船」だったからです。また、その「北前船」にとっては、切っても切れないプリンセスが「最上紅花」なのです。今回はそのお話が中心となります。


「紅花資料館」の紅花畑

この資料館は、近郷きっての富豪だった堀米四郎兵衛の屋敷跡である。屋敷の総面積は約80haで、かつては土蔵が6棟、板倉が7棟もありましたが、老朽化が甚だしく、母屋をはじめ多くの建物が整理され解体されてしまった。


この屋敷には武器や生活用品および古文書など5,000点が保存してある。
昭和57年にこれらの寄贈を受けた町が、漸次整備修復を加え、昭和59年5月に「紅花資料館」として開館した。

〒999−3511山形県西村山郡河北町谷地戊1143 TEL:0237-73-3500


酒田 山居倉庫

北前船西廻り航路の主力商品はお米。ではなぜ数あるお米の生産地の中から酒田が北前船の寄港地として選ばれたのでしょう? それはお米の保管倉庫として使われている山居倉庫が最上川に隣接して建ち、船にお米を積み込むのに便利だったことが理由のひとつであり、保管に必要な様々な工夫凝らされていたことがあるのだろう。


この山居倉庫は白壁、土蔵づくりの倉庫が9棟も連なりお米が10,800トンも収容可能。風よけや西日による高温防止のために背後にケヤキを植えたり、内部の湿気を防止するため二重屋根にするなど、お米の保存に最適な倉庫にするための工夫があちらこちらに見られます。


今も現役の農業倉庫として使用されていて、秋には収穫されたお米を運ぶ風景を見ることができるのです。


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ZIPANG-5 TOKIO 2020 「最上紅花」 が 「北前船」のプリマドンナだったこと知っていますか?(その2) ・・・【寄稿文】日原もとこ(色紐子)
https://tokyo2020-5.themedia.jp/posts/11002749



【日本遺産】天皇の御名代 斎王


斉宮の主・斎王

古代から中世にわたり、天皇に代わって伊勢神宮の天照大神に仕えた「斎王」は、皇女として生まれながら、都から離れた伊勢の地で、人と神との架け橋として、国の平安と繁栄を願い、神への祈りを捧げる日々を送った。


斎王の宮殿である斎宮は、伊勢神宮領の入口に位置し、都さながらの雅な暮らしが営まれていたと言われている。地元の人々によって神聖な土地として守り続けられてきた斎宮跡一帯は、日本で斎宮が存在した唯一の場所として、皇女の祈りの精神を今日に伝えている。


【斎王の始まり】

斎王の歴史は日本神話の時代まで遡る。語り継がれる伝説の初代斎王は、天照大神の御杖代であった豊鍬入姫命。そのあとを継ぎ、天照大神の鎮座される場所を探し諸国を旅し、伊勢の地にたどり着いた倭姫命。


倭姫命は、伊勢の地(現在の明和町大淀)に入り、佐々夫江行宮を造り、カケチカラ行事の発祥となる伝説をつくった。


これが斎王と明和町との縁となったのか、斎王制度が確立し、斎王が天照大神に仕えた場所・斎宮は、伊勢神宮からおよそ15 ㎞離れた伊勢神宮領の入口につくられた。


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ZIPANG TOKIO 2020「天皇の御名代 斎王 第36回 斎王まつり ~斎王群行は古代伊勢道を通り斎宮へ~【日本遺産】」
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〜日中韓にみる古代トップレディの装束にみる色彩表現〜


◉古代中国におけるトップレディ達に共通する大原則

古代から中国は長い歴史を通じて部族内の内乱や部族間の抗争のみならず、他国からの侵略を受け、征服王朝への交替も繰り返されてきました。そして、その都度、半分はしきたりが踏襲されるものの、皇位に就いた部族の文化が運ばれできますから、一貫したスタイルは語れません。


私達が知っているのは断片的なある時代の、それも遺跡等から、発掘されたものや、博物館に収蔵されたものを通して類推するだけですが、最高権力者である、各時代の皇帝はおしなべて庶民との格差は、所謂中華思想と謂われるように、漢族中心圏外は全て蛮族と見做していたのですから、推して知るべし。国王と貴族、高官等の衣服はその侭、身分格差を現していた筈です。


例え征服王朝に交替した時代でさえ、共通項が存在します。
装束、衣裳を一見するだけで、身分が的確に判断できるものでした。


"翟衣(テキイ)"と言う言葉がありますが、その意味は、雉が美しい色の羽根を上下させるとき、目立って麗しく見える様に譬えた表現です。 それこそが、王妃としての最高位身分を表す、礼服制度となりました。


ーー翟衣制度汉唐宋明相承沿袭,一直沿用到明代灭亡。清朝废除汉族衣冠,翟服也全部被废除 一ー


この意味は、漢、唐代から伝わる翟衣制度は、宋、明代迄受け継がれますが、明代末で変わり、清代に入って漢代の伝統は全て一掃されました。


その"翟衣"とは手間暇を掛けた多様で深い染色生地に金糸銀糸等をふんだんに用いたり、錦織、刺繍、縁飾り等で華麗さを出したり、加えて豪華な細工を施した冠や金、銀、宝石など或いは贅沢な装身具で身分の高さと権威を象徴する紋様等で、威厳性を演出しました。


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ZIPANG TOKIO 2020「斎王〜日中韓にみる古代トップレディの装束にみる色彩表現〜寄稿文 色紐子 」
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谷地八幡宮「林家舞楽」

色鮮やかな紅花染めの衣装による「陵王の舞」


谷地八幡宮「林家舞楽」は日本三大舞楽の中でも、一番古い形をそのまま保っている。
色鮮やかな紅花染めの衣装は、陵王の舞をより一層引き立たせている。


まえがき

宮中舞楽、四天王寺、そしてこの山形県の河北町にある谷地八幡宮で行われる林家舞楽は日本三大舞楽とされており、中でも林家舞楽はこの内一番古い形をそのまま保っていることでも有名です。この町河北町は紅花大尽と呼ばれる旧家が沢山あり、奥ゆかしいお雛見という恒例行事が行われる事でも有名な場所です。


山形と言う処は全国的に見れば、何故かド田舎で地味で素朴だよね〜…と思われる方が多いかも知れませんね?


でも、蔵王温泉やあのトニー・ザイラーが滑った蔵王スキー場、山寺、奥の細道の芭蕉紀行と言えば…? あぁ〜蔵王のスキー場ならば、知ってるよ!昔、上野駅から夜行列車で、盛んに通ったもんだ。でも、あれは宮城県だよね〜なんて、答えが返ってきます。……違います。山形県です‼


では、さくらんぼのご本家は?また、ラ、フランスの本場は? も、一つ酒の十四代は?って問えば……それってもしかすると山形?と寝ぼけた答えに…傷ついちゃいますね〜

序に天童市は何が有名でしようか? ハテ?…(ダンマリ続く)・・・将棋の日本一を決める聖地ですよ〜


さて、此処でご紹介する河北町はこの天童市に隣接する町で、江戸時代には谷地と呼ばれ、大地は水に恵まれた肥沃な農地であり、曾て "紅一匁金一匁" と呼ばれた日本一の紅花の栽培地でした。


川港としても日本海に通じる最上川流域にあり、都や日本海に沿う各港との北前船による交易が盛んとなり、多くの近江商人が出入りして紅花大尽と呼ばれる豪商を輩出したのです。今でもその末裔である旧家では、奥ゆかしい "お雛見" という恒例行事の発祥地でもあります。

ただ、当地は日本一の栽培地であっても、昔からそれに携わっても農民や一般庶民の染色行為は一切、禁じられていましたから彼らは紅花がどんな色に染まるかは知る由もありませんでした。


特に紅花の儲けで、多くの都文化を運んだ紅花豪商たちは、帰り荷として贅沢に使われた紅花染めの衣裳で着飾ったお雛様を運び込み、土地の民衆に披露したのです。それは想像することさえもできないお内裏様を模したお人形達でした。


国指定重要無形民俗文化財

林家舞楽

概説

貞観二年(860)に、僧円仁(後の慈覚大師)が羽州山寺立石寺を開山しました。この時、大阪市四天王寺の楽人林越前守政照が円仁に従って東国に下り、四天王寺の舞楽を山寺に伝えたと古記録に記されています。


その後、林政照の子孫は山寺で例年舞楽を奉仕したが、室町時代に慈恩寺(寒河江市)に、さらに江戸時代初期に谷地に移り住み、山寺・慈恩寺・谷地八幡宮の舞楽を司り現在に至ります。


この千百五十有余年の間、門外不出、一子相伝の家憲を固く守り、次々に長子に秘法を伝承しているのでした。


林家舞楽は早くに地方に下ったため、平安中期以降の楽制改革(日本化)の影響が少なく、よりシルクロードの面影をとどめていると評されています。


嘉暦四年(1329)に描かれた林家秘蔵の舞楽図譜(県有形文化財)には、二十九曲描かれており、現在は十一曲を伝承し、山寺立石寺の臨時法会、慈恩寺は五月五日の一切経会、谷地八幡宮は九月の例大祭にて奉奏しています。


舞楽奉奏

谷地八幡宮例大祭『谷地どんがまつり』


(詳細・画像は下記のURLからご覧ください。)


ZIPANG-3 TOKIO 2020「舞楽の神髄を伝える谷地八幡宮 ~林家舞楽~(第一話)」
https://tokyo2020-3.themedia.jp/posts/5888137



雛と紅花の里 河北町
みちのくひなまつり発祥の地

谷地ひなまつりに秘められたお婆ちゃんたちの思いとは・・・


溝延最上川渡船場(舟渡の渡し船)

町村合併当時、町内には県営渡船場が二カ所と町営渡船場四カ所、計六カ所の渡船場がありました。数えてみてください。


最後まで残っていたのが町営溝延渡船場でした。それでも昭和五十二年九月からは冬期運航を休みにし、同六十一年度には廃止になりました。


この渡船場は昭和十年代前半までは、約三百メートル程度上流にありました。

江戸時代、出羽三山詣りにきた道者たちに、白岩からこの渡しを越えて、山寺に参詣するための木版刷りの道案内を白岩の宿屋で配っていました。何よりも天童・村山へ結ぶ交通の要衝でした。城米の積み出しもありました。


最上川の町営溝延渡船場(舟戸の渡し舟)

嫁時代、肩にくい込む桑を入れた"バカはけご"※の重みを渡船場と一緒に思い出すお婆ちゃん方もいます。船頭さんのこと、大水と舟止めのこと、流水の変化や個人の持舟のこと、お婆ちゃんたちにお聞きしたいことは沢山あります。今の私たちの知らない世界です・・・


今はない村のお婆ちゃんたちの大事な大事な足でした。

※バカデカい背負篭(ショイゴ)のこと。通常 " ハケゴ "とは山菜採りや農作業に一周り小さく便利な腰カゴ(ハケゴ)を指す。 


河北町とはどの辺り?

河北町は、山形県のほぼ中央にあって、万年雪を抱く月山や、雄大な朝日岳、さらには、樹氷で有名な蔵王を遠くに望みながら、山形県の母なる川、最上川と清流寒河江川に囲まれた、風光明媚な環境の中にあります。


山形空港を表玄関とし、山形新幹線さくらんぼ東根駅、山形自動車道寒河江インターチェンジからは車で15分の距離にあり、東北中央自動車道東根インターチェンジからは、わずか7分のところです。 


雛と紅花の里 河北町

江戸中期以降、最上紅花の集散がこの地で盛んに行われました。


町には、天正年間(1573年~1592年)の紅の生産を物語る資料が残っており、江戸時代も寛政年間(1789年~1801年)ごろから安政年間(1854年~1860年)あたりまでは、いわゆる最上千駄(「紅もち」生産が一駄約120kg×馬1000頭)の時代で、全国生産の50%をこの村山地方で生産していました。


紅花は古代中国や、朝鮮半島から5~6世紀頃渡来したとされていましたが、最近では奈良桜井市の纏向遺跡(弥生時代末期から古墳時代前期にかけての集落遺跡)から大規模な紅花染色が行われたと推測される側溝跡が発見され、その渡来時期が大幅に見直される事態になりつつあるようです。


当初は栽培地が都周辺に限られていたものが、やがて全国各地に拡がり、次第に雪深い東北地方等でも栽培されるようになりました。紅花は 岩手県以南の日本全国で栽培されたことになりますが、特にこの村山盆地周辺が全国生産の半数を占めるようになったのは、土地が紅花栽培に適しており、換金作物として重宝されたためといわれています。


この町には最盛期に20軒に及ぶ紅花荷主問屋があり、更に仲買人の花買仲間の目早やサンベと呼ばれる人達が25人から30人を数え、山形市につぐ紅花の一大集散地でありました。


このようにして生産された紅花は、京都や大阪へ出荷されました。寛文年間(1661年~ 1673年)幕府の命を受けた河村瑞賢の差配などもあって、江戸・大阪への物資の輸送が最上川を利用した酒田出しになると、産物の流れがおのずと関西方面に移り、京都・大阪には近江商人や伊勢商人が定住し、最上の商人たちも最上店や谷地店と呼ばれるいわば出張店を持つようになりました。


当地方の物産である米・紅花・大豆・青苧・漆・真綿・油などを移出した、その帰り荷として、関西方面から呉服地・繰り綿・瀬戸物・塩・砂糖・小間物等が運び込まれました。


特に調度品・絵画・書籍・京人形などの美術工芸品が数多く移入されました。現在貴重な文化財として町内に数多く残る雛人形もまた、その一つでした。


谷地ひな市の推移


(詳細・画像は下記のURLからご覧ください。)


ZIPANG-3 TOKIO 2020 ~雛と紅花の里 河北町~ 「谷地ひなまつりに秘められたお婆ちゃんたちの思いとは・・・みちのくひなまつり発祥の地より(第二話)」
https://tokyo2020-3.themedia.jp/posts/5901235



河北町・谷地は「紅花」と「雛」と「舞楽」の里


谷地八幡宮林家舞楽「陵王」。紅花染の衣装です。

谷地八幡宮神職の林家が、一子相伝にて奏する舞楽で、天王寺系と云われております。 貞観二年、僧円仁(慈覚大師)に追従し羽州山寺にて舞楽奉納。爾来、当地に残り今日までその伝統が受け継がれてきました。


※慈覚大師 円仁(794年~864年)は

下野国の壬生に生まれ、日本仏教の礎を築いた最澄の一番弟子で、最後の遣唐使。長い天台宗の歴史、ひいては日本仏教の歴史に、大きな足跡を残す。


 べに花まつりには、浴衣の君に紅花のかんざしを・・・ 

べに花まつり

春まだ寒い4月中ころに種が蒔かれる紅花は、寒暖の差が激しいここ村山盆地で育ちます。

そして半夏生(7月2日)※のころ、他の花に先がけて一輪だけが花をつけ、やがて、すべての花が黄色に色づきます。目の覚めるような黄色い花が日を追って花弁の根元に赤い色素が登り初める頃、花摘みが行われ、紅餅が作られます。この紅餅から染料や口紅などが作られます。


7月初めからのべに花まつりでは、紅染衣装の展示(紅花資料館)、紅花路を駆け抜けるマラソン大会、切り花などのプレゼント(山形空港とさくらんぼ東根駅)、各家庭で育てた紅花の出来栄えを競い合う切り花展、俳人芭蕉になりきっての俳句大会などが行われます。


”まゆはきを悌にしてべにのはな”

あなたも俳人芭蕉になったつもりで一句どうぞ…


※半夏生とは、夏至から数えて11日目の7月1日頃から七夕頃までの5日間が半夏生。太陽暦では7月2日頃。その頃に花を咲かせることに由来する説や、 葉の半分を残して白く変化する様子から「半化粧」とする説があります。


紅花の原産

今ではハナといえばさくらのことですが、昔は紅花のことでした。(へ ェ~、それは初耳ですナ〜)

ハナ畑・ハナ摘み・生バナ・ハナ寝せ・干バナ・水バナ・ハナ染など、いずれも紅花にかかわることばです。(なるほど一つ賢くなりました!しかし、水バナって花粉症の私のことですかね〜?とんだご無礼を…)


そういえば、昔々高校体育祭、学年対抗の出し物で踊った花笠音頭にも・・・


目出度目出度の

若松様よ

枝も (チョイチョイ)

栄えて葉も茂る

(ハ ヤッショ マカショ シャンシャンシャン)

わしがお国で

自慢なものは

茄子と (チョイチョイ)

胡瓜と笠踊

(ハ ヤッショ マカショ シャンシャンシャン)

裏の石橋坂

ならよかろう

とんと (チョイチョイ)

踏んだら悟るよに

(ハ ヤッショ マカショ シャンシャンシャン)

米のなる木で

作りし草鞋

踏めば (チョイチョイ)

小判の跡がつく

(ハ ヤッショ マカショ シャンシャンシャン)

俺が在所に来て

見やしゃんせ

米の (チョイチョイ)

なる木が

お辞儀する

(ハ ヤッショ マカショ シャンシャンシャン)

花の山形紅葉の天童

雪を

(チョイチョイ)

眺むる尾花沢

(ハ ヤッショ マカショ シャンシャンシャン)


そういえば、全員たすき掛けで花笠をイガグリ頭の上で クルクルと廻した記憶が蘇ってきました…

「花の山形」の花とは紅花のことだったんですね~当時は、てっきり山形は色々な花の咲き乱れている地であり「花笠音頭」が誕生したのだと誤解をしていました・・・(苦笑)


(詳細・画像は下記のURLからご覧ください。)


ZIPANG-3 TOKIO 2020 まゆはきを悌にしてべにのはな ~芭蕉~紅花の本場、谷地の「べに花まつりは、浴衣美人が映える半夏生の頃・・・(第三話)」
https://tokyo2020-3.themedia.jp/posts/5935889



最上川とべに花物語

行く末は 誰が肌ふれむ 紅の花 芭蕉


最上川

「五月雨を集めて早し最上川」「暑き日を海に入れたり最上川」(『おくのほそ道』より)


古記事に出てくる紅花

「シルク・ロード」と言う名称は、ドイツの地理学者リヒトホーフェンが名付けたのであるが、紅花はこの道を長年かかって、中央アジアから中国に伝えられたと考えられる。
紅花だけでなく、ぶどう・きゅうり・えんどう・ごまなどの食べ物のほか、楽器や舞踊・
奇術などもこの道を通って中国に伝えられたといいます。


紅花は中国へ来たあと、我が国には朝鮮半島を通って伝えられたと思われるが、その時期はいつ頃であろうか。


我が国で最も古い公的な歴史に『古事記』があります。古事記は和銅4年(711)大安麻呂が元明天皇の命を受けてまとめたもので、上・中・下の3巻からなっています。


そのうち下巻は仁徳朝から推古朝までのことを書いてあるが、その中に、紅花のことが4回出ています。紅花の記録としてはこれが最も古いもので、そこからも紅花伝来の時期を推測することができるのです。仏教が百済から伝えられたのは、欽明天皇の13年(538)とされていますが、紅花もその頃朝鮮から伝えられたと考えてよいのではないでしょうか⁉


官位十二階制の色彩

官位十二階の制度は、推古天皇11年(603)12月に聖徳太子が創案したものといわれます。


この制度は、色の異なる冠を用い、朝廷における席次を定める制度です。その順次を十二階にわけ、名称は、大小の徳・礼・信・義・智でこれにそれぞれ紫・青・赤・黄・白・黒に染めた冠をあてています。


王朝時代 紅花染めはマドンナ の玉座に

武家文化、鎌倉幕府成立前に天皇が政治の実権を握っていた時代が「王朝時代」と謂われております。


紅花染めが艶やか 
伊勢~明和町「斎宮」の斎王~

斎王(さいおう)…それは、天皇に代わって伊勢神宮の天照大神に仕えるために選ばれた、未婚の皇族女性のことであります。歴史に見られる斎王制度は、天武二年(674)、壬申(じんしん)の乱に勝利した天武天皇が、勝利を祈願した天照大神に感謝し、大来皇女(おおくのひめみこ)を神に仕える御杖代(みつえしろ)として伊勢に遣わしたことに始まりました。


以来、斎王制度は660年以上にわたって続き、60人以上の斎王が存在した。伝説は、伊勢に天照大神を祀った倭姫命(やまとひめのみこと)など、さらに多くの斎王の物語を伝えています。


竹の都 斎宮(さいくう)。それは、天皇に代わり、伊勢神宮の天照大神に仕える斎王の住まう所であった。そこは碁盤の目状に道路が走り、木々が植えられ、伊勢神宮の社殿と同じく清楚な建物が100棟以上も建ち並ぶ整然とした都市で、そこには斎宮寮を運営する官人や斎王に仕える女官、雑用係などあわせて500人以上もの人々が起居し、当時の地方都市としては『遠の朝廷(とおのみかど)』と呼ばれた九州の太宰府に次ぐ規模を持っていました。


また、斎王を中心とした都市であることから、斎宮では貝合や和歌など都ぶりな遊びが催された。また、都との往来もあり、近隣の国からさまざまな物資が集まるこの地方の文化の拠点でもあったと考えられています。


紅花の里 河北町

町が、紅花を町の花と定め「べに花の里・かほく」を標榜している理由は、江戸中期以降に見られる最上紅花の集散がこの町でおこなわれたことによります。


紅花がこの出羽国、山形に 入ったのは室町末期の頃とされていますが、 当河北町には、天正年間(1573~1592)の紅の生産を物語る資料が残っており、江戸時代も寛政年間(1789~1801)ごろから安政年間(1854~1860)あたりまでは、いわゆる最上千駄の時代で、全国生産の50%をこの村山地方で生産していました。


紅花は中国から渡来し、次第に雪深い東北地方等でも栽培されるようになりました。このように、紅花は岩手県以南の日本全国で栽培されたことになりますが、特にこの村山盆地周辺が全国生産の半数を占めるようになったのは、土地が紅花栽培に適しており、換金作物として重宝されたためといわれています。


この町に最盛期には20軒に及ぶ紅花荷主問屋があり、更に仲買人の花買仲間の目早※やサンベ※と呼ばれる人達が25人から30人を数え、山形市に次ぐ紅花の一大集散地でありました。

※目早、サンベとも、この地方独特の名称です。

※目早というのは生花の状況を見て相場を見定め、問屋や買次商人にあっせんする仲介業者のことです。

※サンベというのは商人から依頼されて生花の集荷に当たる仲買人のことです。

目早とサンベは紅花流通機構の中で重要な役割を果たして、明治初期まで続いてきました。


紅花を見守る紅花地蔵

蔵王連峰をのぞむ上山城下。二日町というところに、高さ50センチほどの小さな地蔵様がありました。


紅花の季節になるときまって近郊近在から大勢の参詣人がやってきて、お札をいただいていきます。紅花畑にこのお札を立てておくと、茎が折れる病気から紅花を守ってくれるというのです。


人々はこの地蔵様を紅花地蔵とよんで大切に祀り、紅花のすこやかな生育を祈り、あわせて五穀の豊饒を願ったのでした。


紅花関係年表

和暦・(西暦)・できごと


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ZIPANG-3 TOKIO 2020 ~ 最上川とべに花物語 ~「行く末は 誰が肌ふれむ 紅の花【松尾芭蕉】・・・ (第四話)」
https://tokyo2020-3.themedia.jp/posts/5960062



古代染色奄美大島紬
琉球の彩りあふれる染織物


奄美泥染めについて

奈良東大寺や正倉院の献物帳に「南島から褐色紬が献上された」との記録が残されています。 それが奈良朝(710~784年)の頃、約1300年ほど前になります。 そんな起源がある本場奄美大島紬は分担業で製織され、糸、絣染めを行う工程として泥染めを行います。 奄美大島に自生する車輪梅(方言:テーチ木)を煮出した染料(タンニン酸)と 亜熱帯気候、150万年前の古代地層などの影響で鉄分豊富な泥田で染め上げる手法です。


沖縄県立博物館・美術館の学芸員(美術工芸担当)で、
染織物の達人 篠原 あかねさんによると


伝統的染織物の宝庫・沖縄

陶芸や織物、染物など、数多くの伝統工芸が根付く沖縄。なかでも染織物は、10種以上が現在でも受け継がれています。


「沖縄の染物といえば、華やかな色彩が印象的な『紅型』が有名ですが、織物も豊富です。素材は、『芭蕉』、『苧麻(ちょま)』、『木綿』、『絹』などがあり、『花織』、『かすり』などの多様な技術が彩られます。 沖縄本島でも北部、中部、そして南部にそれぞれ特徴のある織物があります。また離島でも、宮古島や八重山諸島には『上布』と呼ばれるものが、久米島では『久米島紬』が作られています。日本でもトップクラスの多さですよ」と話す篠原さん。


各地域に多彩な織り方があるのが特徴。例えば、那覇で織られている『首里織』には、浮き糸で模様を織りだす「花織」や、平織に経糸(たていと)だけを浮かせた「ロートン織」など7種以上の織りがあります。地域によって素材も織り方もさまざまです。


沖縄の染織物13種 美しい仕上がりで多くの人を魅了する沖縄の染織物。
沖縄で生まれ、受け継がれてきた13種をご紹介します。


(詳細・画像は下記のURLからご覧ください。)


ZIPANG-4 TOKIO 2020 古代染色奄美大島紬&琉球の彩りあふれる染織物
https://tokyo2020-4.themedia.jp/posts/8296756



東京手仕事 職人とデザイナーのコラボレーション

東京の伝統工芸品を新しく現代に創生


不思議ですね〜職人さん達は、皆夫々が異なる分野なのに、皆さんの作品を一堂に蒐めてもピタリと呼吸と色調が合う。


これこそが日本が誇るべき江戸文化(クールジャパン)の真骨頂ー"粋"の精神! 本物の"心意気"が脈々と伝承されてるのをしっかり確認できました。


何とも言えない感動!傍で見ていても、その高揚感が伝わつてきますね〜


江戸の庶民が共有した美学ーきれい、さっぱり、几帳面、真っ直ぐ、軽み、素早い、洗練、無駄なく、節約、義理人情、活気、勇み… という"心意気"="心粋"なのです。 

 

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ZIPANG TOKIO 2020「東京手仕事 職人とデザイナーのコラボレーション 東京の伝統工芸品を新しく現代に創生(その2コラボ編)」
https://tokyo2020-summer.themedia.jp/posts/4240518



染色界の先端師~のこり染め~


食べ物や植物を加工したあとに出る、のこりもの。普段なら捨てられてしまいます。ワイン製造から出るぶどうの搾りかす、桜の木を剪定したあとの枝きれ、こしあんを作ったときの小豆の皮ー。どれも元々は大地が育んでくれた貴重な恵みだったはず。それらをただ捨ててしまうのは、もったいない。


そう思った株式会社艶金(以後、艶金)は、「のこりもの」から染める「のこり染」を2008年に開発(ブランド名をKURAKINと命名)をしました。


食べ物や植物から出る色合いは、どこか温かくて優しい色。日本の暮らしにもなじむ色たちだ… KURAKINでは、すべての製品にのこり染を採用しています。


のこり染め きっかけ

当社の仕事は、繊維生地に色をつける仕事です。この染色という工程。実は、かなりのエネルギーを消費します。大量の水、そして熱エネルギーを使うのです。


染布を水中に浸したあと60~135°まで熱し、そして最後、染色後の水は捨てています。この通り、まったくエコロジーではないと考えられます。


そこで、少しでも何か「染色」をキーワードにエコロジーな開発ができないかと思っていた頃、ある問い合わせがあり、10年ほど前の2008年、岐阜県産業技術総合センターより、食品会社で使い終わった余剰物を色素に再利用できないだろうか、という共同研究依頼があり早速着手したのです。


材料との出会い


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ZIPANG-5 TOKIO 2020 染色界の先端師~のこり染め~あなたはご存知でしたか ⁉
https://tokyo2020-5.themedia.jp/posts/17644743



絞り染めで発展した
東海道沿いの町並みと有松絞り


有松絞りの歴史

絞りの町有松は、江戸時代の初め、徳川家康が江戸に幕府を開いてまもない慶長13年(1608年)に、絞り開祖竹田庄九郎らによって 誕生しました。 


有松絞りの歴史は、尾張藩が有松絞りを藩の特産品として保護し、竹田庄九郎を御用商人に取り立てたことからはじまりました。 


旅人が故郷へのお土産にと、きそって絞りの手拭、浴衣など を買い求め、これが街道一の名産品となり、その繁栄ぶりは、北斎や広重の浮世絵にえががれたましたが、鳴海の宿は有松を描いたもので、「名産有松絞り」と記してあります。 


昔の繁栄と、日本建築の美しさを今に伝える町並みは、200年を経過した貴重な文化財です。その景観は、名古屋市の町並み保存指定第一号として、また全国町並み保存連盟の発祥地としても知られています。


The history of Arimatsu, a town known as the center of shibori or tie-dyeing, dates back to 1608, when Takeda Shokuro and other pioneers of shibori started the business. That was several years after Shogun Tokugawa Ieyasu took the reins of government in Edo. The 400-year-success of Arimatsu Shibori began when the lord of Owari decided to protect the industry as the region’s special product and gave credit to Takeda Shokuro. Then tourists began to buy tie-dyed products, such as tie-dyeing hand towels and bathrobes, as souveniors to their home town, and eventually these products began to be known as one of themost famous items of the area.Thethriving business of the town in those days was often depicted in various ukiyoe prints by Katsushika Hokusai and Ando Hiroshige. The prints introduced the site as Narumi, a bigger town next to Arimatsu, but actually that was Arimatsu and the products were labeled as “Arimatsu Shibori”. The city-scape, which still keeps traditional beauty of Japanese architecture and old-time prosperity is now valued as the cultural heritage. Thewhole area was nominated by Nagoya Municipal Office as the first“Town-Street-To- Be-Preserved”. And it became to be known as the birth place of the nation-wide Organization of Historical Town Preservation.


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ZIPANG TOKIO 2020「絞商の豪壮な屋敷構えを特徴とする,絞り染めで発展した東海道沿いの町並みと有松絞り」
https://tokyo2020-summer.themedia.jp/posts/1542303



染まらないものこそ美しい

職人の町・有松絞りの美意識が作った町並景観 


職人の町・有松絞りの美意識が作っだ町並景観 久方ぶりに名古屋で学会が開かれた。
交通手段の関係で半日前に名古屋入りしたので、空いた時間に、憧れの有松絞り見学を思い付いた。 


しかし、慣れない名古屋で、しかも名古屋市民でなければ分からない仕来りがあるらしく、複雑な地下鉄路線での乗り換え方法や、名鉄線での行き先やホームでの行列枠を度々間違えた挙句、ようやく件の町へと辿りついた。


時計を見れば早や16:30 を回っていた。夕日が傾いている。 残された時間は余りに短く、先ずは町並みを撮らねばと歩き出したら、びっくり!江戸時代にタイムスリップしてしまった。


軒先の灯りに誘われて

こういう時は無意識に、明かりに誘われるのか、気づくと軒先に淡い光を放つ商標灯を掲げた商家の門前に私は立っていた。豪壮な構えである。少し奥まった場所に玄関があり、まだ開け放たれていて人の気配がする。名高き老舗竹田嘉兵衛商店であった。


どうやら、京都や金沢辺りの老舗染織業界内輪の内覧会が開催されていたらしい。遠慮勝ちであっても、なお未練がましく覗く私に"どうぞ"とお声が掛かる。


とはいえ、来客の足は途絶え、そろそろ店仕舞いの雰囲気に、躊躇しながらも、足だけはたしなみなく前進しているようだ。受付らしき場所から羽織袴の壮年紳士が微笑みながら入室を促して下さったのだ!


すっかり舞上がってしまっている私に、"本日は何をご見学ですか?"との問いかけに、どぎまぎしながら、 "町並みが余りにも素敵なので、夢中で写真撮影していたらこんな時間になってしまいまして…実は私、まちづくりの活動に携わっておりまして…" とつい、通りがかりの人間であることの言い訳をする。


これがいけなかった!いやラッキー!というべきか?間もなくご当家の女主人であると紹介された妙齢のご婦人(中村俶子顧問)が目の前に。すると、ご本人もまちづくり活動をされていると言うご挨拶を受け、忽ちに打ち解けて、とんだ迷い猫の立場から抜け出られた想い。


(詳細・画像は下記のURLからご覧ください。)


ZIPANG TOKIO 2020「染まらないものこそ美しい 職人の町・有松絞りの美意識が作った町並景観 」・・・寄稿文 日原もとこ
https://tokyo2020-summer.themedia.jp/posts/1561124



美しい日本の布

西陣織「細尾」
1200年以上に渡り類稀なる職人技を継承


「細尾」は元禄元年(1688年)、本願寺より「細尾」の苗字を受け、京都・西陣において創業しました。西陣とは京都の旧市街に位置する地域の呼称で、その地域で生産される先染の織物が「西陣織」と呼ばれます。


「西陣織」は京都で約1200年前より、貴族や武士階級、さらには裕福な町人達の支持を受けながら、育まれてきました。完成までに必要な20以上もの工程それぞれを一人の職人が担当するという高度な分業によって、圧倒的な美を追求し、類稀なる職人技を継承してきました。


「細尾」は西陣の織屋としての歴史を重ねる一方、1923年、9代目当主・細尾徳次郎によって帯・きものの卸売業を始めました。全国の産地を巡り、日本に受け継がれる染織のすばらしさや、真摯に染織を続けている職人たちのものづくりのこころを人々に届けることを目指しています。


以来、織屋と問屋の両輪で事業を営んできました。世界に誇る「西陣織」の高い技術と芸術性を掲げ、その可能性を深め広げること、また、きもの問屋として日本各地の伝統的染織文化を紹介し、きもの文化を未来につなげていくこと、この二つを使命としています。


More than Textile
西陣織の無限の可能性


昭和の想い出

幽玄の色と香りを織りなす人・・・山口安次郎氏をたずねて

昭和61年初夏、小生は京都をさらに西へと向かい、自然の空気の中で最高級の能装束を専門に織り続ける山口安次郎氏を訪ね、美しい名品の数々を拝見するとともに、氏の織物に対する愛情やその味わいなどについてもお聞きしました。(イギリスのチャールズ皇太子ご夫妻に京都市内で西陣織の実演をご案内された数か月前の事でした。)


半日かけて外が暗くなるまでお付き合いいただき、この時とばかり矢継ぎ早に質問したことを覚えています。山口氏はお疲れのご様子もなく、楽しそうに孫にでも接するかのように?後でよくよく考えてみると小生があまりにも無知だったので、きっと気の毒に思い、西陣織の授業をしていただいたのだと気が付いた次第です。


さらに、あろうことか図々しくも西陣織の実演までして頂き、帰りにはお土産に色々な織地を頂いて大変に興奮、恐縮してしまったのが忘れられません。


様々な質問をした後で、氏の創作のヒントを知ることが出来ましたので、ご披露したいと思います。


「あの美しい能装束の模様は何からイメージを得て生まれてくるのですか?」

すると、意外にもこんなお答えが返ってきたのです。

「伝統的な模様以外は、絵をよく見ます。私の場合、やはり日本画が九割で洋画が一割と言ったところでしょうか。同じ牡丹を見るにしても、自然の物を参考にするより、本当にいい画家の描いたものを見たほうがいい。特に東山魁夷。線一本にしても余分なものが無く、見ごたえのある実にたっぷりとした色気のある線で描かれている。いい絵を見て参考にしています。」


丁度、時間となりましたので本日はこの辺りにて・・・合掌


(詳細・画像は下記のURLからご覧ください。)


ZIPANG-5 TOKIO 2020 ~古今折衷~ 京都 西陣織 「細尾」の哲学とは!
https://tokyo2020-5.themedia.jp/posts/15073102



“Ambient Weaving”とは

「環境情報を表現する織物」「環境そのものが織り込まれた織物」を指す


西陣織は、つねに最先端の技術を取り込みながら発展してきました。本共同研究では、東京大学筧康明研究室、ZOZOテクノロジーズが開発してきた先端素材やデバイスを、1200年の長きに渡り美を追い求める中で発展してきた西陣織特有の構造や意匠を持つ細尾のテキスタイルに織り込むことで、周囲の環境情報と織物を媒介する様々な機能と表現の両立を試みてきました。


"Ambient Weaving ── 環境と織物” 展では、外部温度によって色彩が変化するテキスタイル、紫外線によって硬化するテキスタイルなど、これまでの研究成果をいくつかのプロトタイプ作品として発表いたします。


本共同研究では、昨今加速するテキスタイルの機能面での進化に加えて、意匠面の革新に目を向けています。テキスタイルのもたらす機能に対して意匠を両立させること、そして新しい機能を用いることで可能になる意匠の開拓に挑戦しています。


織物の歴史は、人類の歴史と同等に壮大なものです。歴史を振り返れば、織物とは、常に人類が環境と対話するなかで作り上げてきたものにほかならないことが見えてきます。


植物繊維や動物繊維といった自然環境の素材による糸を織物に用いるだけでなく、いわゆる「草木染め」のように植物によって織物を染色するほか、こと日本においては、織物に花鳥風月といった自然のモティーフを扱うことが盛んに行われてきました。


現代の我々にとって、もはや手付かずの自然は身近ではなく、むしろ人工的に形成されてきた環境のなかでの生活が当たり前となっています。「人新世」と言われ、しばしば「自然」という概念そのものの見直しが議論される現代において、環境と織物の新しい姿とはどのようなものでしょうか。


本展示 "Ambient Weaving ── 環境と織物” は、こうした問いを据えつつ、先端テクノロジーと伝統技法を掛け合わせることで、織物の機能と意匠を両立した新たな表現や体験の拡張を試み、現代における人間と環境と織物のあり方を提示するものです。


細尾直久氏の哲学

テクスチャーという語は「織物の織り方」という語源を持ちますが、 織物の生地は一つひとつが異なる色や材質である多様な糸が、 互いの個性を生かしながら重奏することによって織り上げられます。


同様に、石やタイル、金属、コンクリートといった相異なる素材を 「織物」のように美しく織り上げることによって、 テクスチャーの宿った建築を、衣服のように身にまとっていただくことを 大切にしています。


豊かな暮らしを支えるのは、テクスチャーを通して人の琴線に触れる、 豊かな質を持った建築だからです。 大量生産、大量消費を伴う20世紀型の資本主義社会において、 工芸は手間の掛かる古い技術として弱い立場に置かれてきました。


一つひとつの工芸技術は、かけがえのない魅力を持つとともに、 扱いにくい癖をも併せ持つ存在です。


規格化された部品を機械的に組み立てることでつくられる建築ではなく、 工芸技術の持つ個性や素材の質が生き生きと引き出された空間の調和を設計する。


建築設計の核心はそこにあると、わたしたちは考えています。


細尾直久氏をご紹介

1981年ミラノに生まれ、京都で育つ。洛星高等学校卒業。近畿大学国際人文科学研究所で柄谷行人氏、岡﨑乾二郎氏に師事しながら、理工学部建築学科卒業。ミラノ工科大学留学を経て、David Chipperfield Architectsに勤務。 イタリアから日本へ帰国後、2015年京都にてHOSOO architectureを設立。 一級建築士。noteで「工芸建築論」を執筆中。

2020年日本空間デザイン賞銀賞受賞「HOSOO FLAGSHIP STORE」


(詳細・画像は下記のURLからご覧ください。)


ZIPANG-5 TOKIO 2020 ~古今折衷: HOSOO GALLERY~ ” Ambient Weaving ⇋ 環境と織物”展と建築
https://tokyo2020-5.themedia.jp/posts/15175141



経済産業省「伝統的工芸品の魅力」

加賀友禅 二風谷アットゥシ  博多織 久留米絣など


経済産業省は、伝統的工芸品の魅力をより積極的に国内外へ発信していくために、昭和59年から11月を「伝統的工芸品月間」と定め、全国各地において普及啓発事業を行っております。今年は福岡県や東京都の各地で様々なイベントを実施し、伝統的工芸品の魅力を発信します。


全国大会の概要

今年の全国大会は、昭和 63 年開催以来30 年ぶりとなる、福岡県で開催いたします。


「博多織伝来 777 年」、「久留米絣の考案者(井上 伝)没後150 年」、「小石原焼伝統産業会館20周年」などの節目を迎える本年に、大会の開催を通して、福岡から国内外へ向けて、伝統的工芸品の素晴らしさや日本の伝統文化の魅力を発信していきます。


加賀友禅

加賀友禅の始まりは、加賀独特の染め技法である「梅染(うめぞめ)」まで遡ります。「梅染」は15世紀の中頃には、すでに存在していたことが文献に記されています。 梅染のほか「兼房染(けんぼうぞめ)」、「色絵紋」等の染色技法が古くから加賀に伝えられており、これらを総称して「お国染」といいました。


この加賀お国染の技法を基礎に、江戸時代中期に、宮崎友禅斉が絵画調の模様染めを指導したところから、加賀友禅が確立されました。宮崎友禅斉は京都で友禅染を始めた人物で、金沢で晩年を過ごし、友禅の指導を行ったと言われています。


特徴

加賀友禅の特徴は、落ち着きのある写実的な草花模様を中心とした絵画調の柄です。加賀百万石と言われた豊かな前田家の文化的な趣味を強く反映して、渋さの中にも武家風の気品を漂わせています。


作り方

正絹白生地に「藍花」による下絵を施し、糸目糊置(いとめのりおき)で防染し、化学染料・顔料を用いて手描彩色します。地染の後、蒸気で蒸して染料を定着します。最後に、余分な染料や防染糊等を落とすために水洗いします。別の技法として、型紙を用いて写し糊で捺染(なっせん)をする、板場友禅もあります。


■産地組合

協同組合加賀染振興協会 〒920-0932 石川県金沢市小将町8-8 加賀友禅伝統産業会館内
TEL:076-224-5511


二風谷アットゥシ

紗流川流域に古くから伝わり、江戸時代には紗流川流域の物産として他地域との取り引きが行われていました。 二風谷アットゥシは、百年以上前に使用されていた道具とほぼ同様の道具を現在も使って作られています。


特徴

アットゥシとは、アッニ(オヒョウ)等の樹皮の繊維で糸を作り、アットゥシカラペ(機織り機)を使って織られた反物のことを言います。水に強く、通気性に優れ、天然繊維としては類稀な強靱さと独特の風合いを持っています。

作り方

オヒョウ、シナノキの樹皮を剥いで加工し、2mm程度の幅に裂いて糸状にします。機結びにより紡いだ糸に撚りをかけ、糸延ばし、受け糸取りの後、座って機を織ります。


■産地組合

二風谷民芸組合 〒055-0101 北海道沙流郡平取町二風谷80-10 TEL:01457-2-2584


編集後記

日本には現在、国指定の伝統的工芸品が 230品目あるそうです。


こうした全国的に存在する様々な伝統的産品は元来、地域の自然素材を巧みに活かした伝統技術による賜物です。それらは、時代に応じたニーズに適応しながら新たな形や色彩、用途等へと変化し得る無限な価値を秘めています。当に地域のお宝、ひいては国の誇るべき財産だと言えましょう。


一方で、村や町の奥深くを訪ねると工芸品という概念ではなく、古から生活の中で必要に迫られ代々家業として受け継ぎ、作り続けている職人さんが存在することにも目を向けたい。それらは、その土地ならではのニーズに応じた特有の生活用品なのかもしれません。


歴史は繰り返す!かって民芸という活動が花開きました。地方創生が話題となっている今、同時に伝統生活用品再生にもスポットを当てたいものですね・・・



ZIPANG-2 TOKIO 2020 経済産業省「 伝統的工芸品月間全国大会開催! 」のご案内
https://tokyo2020-2.themedia.jp/posts/5062913



大田楽 いけぶくろ絵巻


池袋で絵巻物が躍りだす!華やかな衣裳、雅な音楽、躍動的な舞が織り成す大田楽がまちゆく人を絵巻の世界へ誘う野外パフォーマンス。


池袋の街を舞台に、120名を超える田楽法師たちが、いにしえの旋律にのって軽やかに舞い躍る「大田楽 いけぶくろ絵巻」。


大田楽とは

平安時代末期から、京の都を中心に全国各地で一世を風靡し、貴族・武士・大衆の区別なく熱狂を重ねながら室町時代には消滅してしまった「田楽」という芸能がありました。


その田楽のエネルギーはそのままに、各地の伝統芸能や、民俗芸能を盛り込み、さらには西洋の動きや音楽を取り入れ、学術研究家、舞踊家、音楽家、俳優たちとの協働作業により、狂言師の故野村耕介(八世野村万蔵氏(1959-2004)が創り上げた祝祭が「大田楽」です。


色とりどりの花をあしらった大きな笠をまとい、腰鼓や編木をつけて躍る人々、アクロバット、ジャグリング等様々なパフォーマンスが中世の絵巻物さながらに華やかに繰り広げられます。


もう一つの特徴は、お祭りのように老若男女の誰もが参加でき、プロの俳優や演奏家と共に、市民参加として一緒に作り上げていくところです。市民参加者は本番の1ヶ月~2ヶ月前から稽古を積み重ね、一緒の舞台にたちます。


大田楽は、

新しい躍りを加えるなど変化しながら、

『文化とは、形を変えて心を伝えるもの』

という信念のもとに幅広く活動展開しています。


(詳細・画像は下記のURLからご覧ください。)


ZIPANG-2 TOKIO 2020  ~大田楽 いけぶくろ絵巻~「今宵は~舞い遊ばん、躍り狂はん!~」 & 伊雑宮(伊勢・志摩)始め各地の御田植祭
https://tokyo2020-2.themedia.jp/posts/5009463



日野ひなまつり紀行
~昔と今、街を巡る、時を巡る~


昭和のはじめにタイムスリップしたような、どこか懐かしさを感じる日野の町並み。そんな街角や商家に、江戸時代から現代に至るまでのお雛様や創作人形などが飾られる。 華やかでほほえましい雛人形との出会い…。ゆったりとした時間 が流れる日野のまちを散策してみてください。


日野独特の風景である桟敷窓越しにひな人形を眺める。

桟敷窓とは、写真だけ見ると、窓の内側は直ぐに座敷があるように思ってしまいますが、外塀に窓を切り庭のベランダをほぼ窓の幅で塀まで接続したような感じ(或いは中廊下を塀まで伸ばしたもの)と思ってください。通常は、祭り見物など内から外を観るために造られたものであるが、ひな祭りの時などは、家に飾られたものを外の方たちに観ていただくための窓とし活用している。


(桟敷窓が切られている塀の瓦屋根と奥の住まいの瓦屋根の間の両側に松らしき立派な木が見えるのでその部分が庭であることが分かると思います。縁側風にまた昔よく屋根の上に造られた木製の物干し台風に造られているので、祭りを観ながら飲んだり食ったりと楽しむことのできる空間である。)


近江日野商人ならではの発想に違いない。


ホテル雅叙園東京 百段雛まつり

「百段雛まつり~近江・美濃・飛騨 ひな紀行~」

みどころ

毎年異なった地域から歴史あるお雛さまの名品が集う「百段雛まつり」。 今年は「近江・美濃・飛騨」をテーマに、 大名家の姫君の婚礼調度や近江商人として栄えた旧家に伝わる逸品、 圧巻の御殿飾りから指先ほどの小さな郷土玩具まで、 岐阜と滋賀の町々に息づく百花繚乱のお雛さまたちが文化財「百段階段」に初お目見えです。


正野家御殿雛展示 ほか


(詳細・画像は下記のURLからご覧ください。)


ZIPANG TOKIO 2020「日野ひなまつり紀行~昔と今、街を巡る、時を巡る~近江日野商人のお雛様とお屋敷(桟敷窓)拝観」
https://tokyo2020-summer.themedia.jp/posts/3754836



雅叙園「大正ロマン×百段階段」


雅叙園の誕生

創業当初、百段階段は晴れやかな宴を楽しむ宴会場として使用されていました。
本展では「草丘の間」にて、大正ロマンの雰囲気に満ちた喫茶室が登場します。


花鳥画や緻密な細工の建具など美しい意匠に満ちた文化財と、本展の期間だけ室内に配したステンドグラスに囲まれながら、タイムスリップをしたような空間でお茶とお菓子をお愉しみください。


豪華絢爛な東洋一の美術の殿堂

ホテル雅叙園東京の前身の目黒雅叙園のルーツは、創業者・細川力蔵が、東京 芝浦にあった自宅を改築した純日本式料亭「芝浦雅叙園」。


創業当時は、日本料理に加えて北京料理メインとし、お客様に本物の味を提供することにとことんこだわった高級料亭でした。


より多くの人々に本格的な料理を気軽に食べていただくため、1931年(昭和6年)庶民や家族連れのお客様が気軽に入れる料亭として目黒の地に誕生しました。


料理の味はもちろん、お客様に目でも楽しんでいただきたいと考え、芸術家たちに描かせた壁画や天井画、彫刻などで館内の装飾を施しました。


豪華絢爛な東洋一の美術の殿堂はこうして誕生し、2017年(平成29年)4月1日目黒雅叙園からホテル雅叙園東京へと施設名称を変更することとなりました 。


大衆文化が花開く華やかなりし時代を体感

竹久夢二やマツオヒロミ氏とのコラボレーション展示も登場し、ホテル雅叙園東京にて2022年4月16日(土)よりスタート


(詳細・画像は下記のURLからご覧ください。)


ZIPANG-6 TOKIO 2020 雅叙園「大正ロマン×百段階段」大衆文化が花開く華やかなりし時代を体感
https://tokyo2020-6.themedia.jp/posts/33701412



徳川美術館の建築と

尾張徳川家の雛まつり


雛祭りは、古代中国において3月の最初の巳の日に、水辺に出て穢れや災いを祓う行事が起源と考えられています。この行事は、古く7世紀にはわが国にもたらされ、上巳の節供として3月3日に行われるようになりました。


平安時代には宮廷の年中行事として定着し、この日に曲水の宴を催したり、桃酒を飲んだりしました。また、自分の罪や穢れを、息を吹きかけたり身肌にすりつけて人形に託し、水辺に流す風習がわが国の俗信仰として全国各地域にも古くからあったようです。


これとは別に『源氏物語』をはじめとする王朝時代の文学作品の中では、幼い子どもたちの遊びに用いられた人形を「ひいな」と呼んでいます。これらの風習が何時の頃から始まったのかは明らかではありませんが、3月3日の雛祭りの源流となったと考えられています。


江戸時代になると、次第に雛祭りは盛んになっていきました。今日みられるような雛祭りの形式は、江戸時代の初め頃には形成されたと考えられています。


(詳細・画像は下記のURLからご覧ください。)


ZIPANG TOKIO 2020「特別展 尾張徳川家の雛まつり と 徳川美術館の建築」
https://tokyo2020-summer.themedia.jp/posts/3742766



中山道の春は
お雛様とともにやって来る!


大湫宿ひな祭り

いわむら城下町のひなまつり

妻籠宿のお雛様いっぱいの季節


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ZIPANG-2 TOKIO 2020 「中山道の春はお雛様とともにやって来る!大湫宿~岩村町(大井宿)~妻籠宿」
https://tokyo2020-2.themedia.jp/posts/5662725



花巻市大迫町
290年前の雛まつり復活!」

子供たちが『おひなさん、おみせってくなんせ』


花巻市大迫町は、昔、絹生産が盛んで、京都と取引を行っておりました。 そのため、享保雛や次郎左衛門雛など、江戸時代から明治時代にかけて作られた雛人形が、旧家や商家に多く残されている。


昔「おひなさん、おみせってくなんせ」と言って子供たちが家々の雛人形を見て歩いたそうだが、 そんな風習を今に復活させたのが大迫町の「宿場の雛まつり」である。


花巻市大迫交流活性化センターをメイン会場に、今年は町内29カ所の商店等に、 歴史雛から現代雛までいろいろなお雛様が飾られている。


(詳細・画像は下記のURLからご覧ください。)


ZIPANG TOKIO 2020「『宿場の雛まつり』昔『おひなさん、おみせってくなんせ』と言って子供たちが家々の雛人形を見て歩いた。花巻市大迫町で290年前の雛まつり復活!」
https://tokyo2020-summer.themedia.jp/posts/3766265



香川県東かがわ市「引田ひなまつり」


子供の頃、不注意で雛壇を崩してしまい、暫くの間女の子たちは口もきいてくれなかった苦い思い出の雛祭り…来年は一度帰ってみようかな・・・故郷へ


引田に一足早い春の訪れ(引田ひなまつり)

2月28日~3月4日、「引田ひなまつり」が開催され、今年も多くの人が一足早く春の訪れを感じました。


引田の古い町並み約70軒に、お雛さまが飾られました。訪れた人は、引田の町並みを散策しながら、個性豊かなお雛さまを堪能していました。かわいい着物姿の子どもたちによるアトラクションやお接待などのイベントもあり、引田のまちを彩りました。


前号にて一応、岩手県「気仙地方~黄金の国ジパング~」を一連のシリーズに纏めてご紹介して参りました。 次いで「花巻と宮沢賢治」を主題とするシリーズのご紹介を予定いたしております。その前に一旦小休止を入れて、以前よりのお約束、伝統のお醤油と美しい赤壁が評判の香川県にある #「かめびし屋」をご紹介したいと思います。


ご紹介にあたり、まず、所在地・香川県東かがわ市3町のお話です。 皆様の中には、上記の所在地名・東かがわ市なる地名が、耳慣れないなぁーと呟かれる御仁もおられる筈。失礼があればご容赦の程を……(実は小生も同様でしたから (笑)) 


香川県 東かがわ市の概要

平成15年4月1日に引田町・白鳥町・大内町の3町が合併して、東かがわ市が誕生しました。
東かがわ市は、香川県の東の端で徳島県鳴門市と接しています。


地場産業の手袋生産は、伝統産業であり、はまち養殖の発祥地、そして有名な製薬や和三盆糖などの伝統を今なお受け継ぐ、伝統と文化、自然環境豊かな市です。


地勢

東かがわ市は、香川県の東端に位置しています。
東南は東西に連なる阿讃山脈によって徳島県に接し、西はさぬき市に隣接し、東北は国立公園瀬戸内海播磨灘に臨み、高松市と徳島市のほぼ中間に位置する自然環境に恵まれた地域です。


瀬戸内海に注ぐ馬宿川、小海川、新川、湊川、与田川、番屋川などの流域に平野部が開け、市街地と田園地域を形成しています。気候は、比較的晴天の日が多く降水量が少ない瀬戸内海特有の温暖で穏やかな気候です。


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ZIPANG-4 TOKIO 2020東かがわ市~美しい日本の伝統・伝説の地~ 日本の精神文化と国土の美しさ 再発見!(その1)~白鳥神社~
https://tokyo2020-4.themedia.jp/posts/9323085



復活の神様とともに

〈柳川雛祭りさげもんめぐり〉

当社では省耕園(社務所)に展示を致しております。3月3日までどなたでもご覧頂けます


『さげもん』

親から子へ 子から孫へ受け継がれ、地域みんなで初節句を祝う風習が続き、柳川の心温まる思いやりの心と地域の絆を大切にしています。


『さげもん』とは

江戸末期頃から、女の子が生まれると初節句のお祝いにと古着の端切れで小物を作って贈ったのがはじまりと言われています。1尺3寸(約40㎝)の竹の輪に赤布を巻き、7個7列の49個、中央に柳川まりを2個下げて全部で51個。


人生50年と言われた時代に、
1年でも長生きしてもらいたいという願いが込められています。


(詳細・画像は下記のURLからご覧ください。)


ZIPANG-9 TOKIO 2020復活の神様とともに【三柱神社】(その1)
https://tokyo2020-9.themedia.jp/posts/55340224/

 


北前船で栄えた湊町 酒田

酒田雛街道〜湊・酒田の雛めぐり〜


由緒ある雛人形を一斉展示

酒田の豪商たちは競って京都から豪華なお雛さまを買い、北前船の帰り荷に積みんだことから人形の数、質においては他の地域を圧倒する雛人形が酒田の旧家に残され保管されています。


酒田市では3月1日から4月3日まで「酒田雛街道」を開催しています。江戸時代の享保雛や古今雛などを14カ所の観光施設等でご覧いただけます。


かつて江戸や京都、大坂(現大阪など)との交易で賑わった湊町酒田には、北前船により運ばれてきた、由緒ある雛人形が数多く残され、大切に保管されてきました。酒田の旧家に伝わるお雛様は、非常に贅を尽くしたものが多いといわれています。


開催期間中、江戸時代から大切に受け継がれてきた由緒ある「雛人形」や、地元に伝わる素朴な「鵜渡川原人形」、さまざまな飾り物に願いを込めた「傘福」などを華やかに展示します。


北前船で富を築いた豪商達も愛した料亭文化


(詳細・画像は下記のURLからご覧ください。)


ZIPANG-4 TOKIO 2020 北前船で栄えた湊町 酒田 & 見ているだけで寒い~子どもたちの飛鳥神社裸参り
https://tokyo2020-4.themedia.jp/posts/7478241


 

※現在、2700件余の記事掲載、下記のサイトからご覧ください。


ZIPANG-10 TOKIO 2020 (VOL-10)
https://tokyo2020-10.themedia.jp/

ZIPANG-9 TOKIO 2020 (VOL-9)
https://tokyo2020-9.themedia.jp/


ZIPANG-8 TOKIO 2020 (VOL-8)
https://tokyo2020-8.themedia.jp/


ZIPANG-7 TOKIO 2020 (VOL-7)
https://tokyo2020-7.themedia.jp/


ZIPANG-6 TOKIO 2020 (VOL-6)
https://tokyo2020-6.themedia.jp/


ZIPANG-5 TOKIO 2020 (VOL-5)
https://tokyo2020-5.themedia.jp/


ZIPANG-4 TOKIO 2020 (VOL-4)
https://tokyo2020-4.themedia.jp/


ZIPANG-3 TOKIO 2020 (VOL-3)
https://tokyo2020-3.themedia.jp/


ZIPANG-2 TOKIO 2020(VOL-2)
https://tokyo2020-2.themedia.jp/


ZIPANG TOKIO 2020 (VOL-1)
https://tokyo2020-summer.themedia.jp/


ZIPANG-10 TOKIO 2020

日本の精神文化と国土の美しさについて再発見 その1. 全世界との情報の共有化 その2. 偏り、格差のないローカリティの尊重! その3. 美しきものへの学び、尊敬、関心を高める教育と推進

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