~旬の魚を刺身・煮付け・天ぷら・素焼きで堪能~
朝日漁業協同組合(所在地:滋賀県長浜市湖北町尾上144-14)が主催する
イベント「旬の魚を味わう~グルメの集い」を滋賀・長浜の朝日漁業会館にて2025年3月16日(日)に開催いたします。
湖北から眺める名にし負う琵琶湖八景「竹生島」
ホンモロコの素焼き(イメージ)
鮎の天ぷら(イメージ)天ぷらは揚げて30㎝離れると味が落ちるとか⁈
アホな事いいなや、そんな魔法みたいなこと出来るかいな…我が家なんて2m以上離れいっぺんに揚げるさかい食べる頃には生ヌルうて生ヌルうて大皿で山盛りに出すさかい、下の方はほらもう冷奴食べてるようやて…ほんでもよ汁チンチンにしもったらイケまんねん!
ビワマスの煮つけ
しじみ汁…白味噌やね~イカイのう「ほらもう日本一やサケのう琵琶湖は」
お椀は輪島塗か?それとも日野椀かいのう…長浜のろくろ工芸品よ
採りたてのモロコかいな!懐かしいのう伊勢湾台風より前には名古屋でもあっちこっちの川や池でよく見かけたもんやけんど、こまいサケうちら採っても捨てよった。
なんとな~今や貴重な魚やてか⁉
■春の奥びわ湖で獲れた旬の魚を堪能できます
春先に旨味を堪能できるホンモロコをはじめ、アユ、ワカサギなど、漁師たちが獲ってきた魚を刺身や煮付け、天ぷら、素焼きなどの料理としてお楽しみいただきます。
料亭でもよく使われる「ホンモロコの素焼き」や「アユ、ワカサギなどの天ぷら」はみなさまの前で調理し、焼きたて、揚げたてをご提供します。
漁協主催ならではの大変お得な献立となっています。毎回満席になる人気イベントにぜひご参加ください。
※お飲み物はビール、日本酒、ノンアルコールドリンクなどをご用意(別料金)
※獲れる魚の種類により、献立を変更する場合がございます。
【開催概要】
名称 : 「旬の魚を味わう~グルメの集い」
開催日時: 2025年3月16日(日) 12:00~
開催場所: 朝日漁業会館 大広間(滋賀県長浜市湖北町尾上144-14)
定員 : 100名 先着順
料金 : 1名 4,000円(税込)
主催 : 朝日漁業協同組合
申込 : 朝日漁業協同組合
TEL : 070-9072-2436
メール : asahifctomiko@outlook.jp
上記までお名前、ご住所、申込人数、連絡先(電話・メール)、
交通手段をお知らせください。
備考 : JR高月駅から無料送迎バスがあります。
(11:01 米原発→11:21 高月着 または
11:06 近江塩津発→11:17 高月着の電車でお越しいただければ
会場まで送迎いたします)
竹生島めざして・・・
■オプションツアー
当日、ご希望者には船で奥びわ湖を巡るクルーズをご用意。竹生島や湖底遺跡のある葛籠尾崎などの名所を漁師自らご案内します。
※天候により実施できないことがございます。
日時:2025年3月16日(日) 13:30~14:00(30分)
集合:13:15 朝日漁業協同組合事務所
※コースや注意事項の説明後、出発します。
料金:1,000円(税込)
申込:朝日漁業協同組合(上記イベントに同じ)
鎹八咫烏 記
石川県 いしかわ観光特使
伊勢「斎宮」明和町観光大使
協力(敬称略)
紅山子(こうざんし)
※画像並びに図表等は著作権の問題から、ダウンロード等は必ず許可を必要と致します。
アーカイブ リンク記事をご覧ください。
琵琶湖八景
神秘的な美しさを秘めた 竹生島(1)
冬のはじまり…長浜市からの竹生島は目と鼻の先にある。
行く秋を惜しみながら琵琶湖の風に揺れる「すすき野と竹生島」の眺め・・・
沖合約6kmに浮かぶ周囲2kmあまりの小島で、宝厳寺と都久夫須麻神社が祀られています。
宝厳寺の本尊は弁才天と千手観音。弁才天は安芸の宮島、相模の江ノ島とともに日本三弁天に数えられており、中世以来西国三十三所観音霊場の三十番札所として多くの参詣客で賑わいます。
宝厳寺の唐門は秀吉の大坂城の唯一の遺構と伝わり、都久夫須麻神社の本殿とともに国宝に指定されています。 近年は琵琶湖第一のパワースポットとして注目を集めており「深緑竹生島の沈影」として琵琶湖八景の一つです。
竹生島とは
竹生島は、周囲2㎞の琵琶湖で沖島に次ぐ2番目に大きさの島です。
島の名は「(神を)斎く(いつく)島」に由来し、その中の「いつくしま」が「つくぶすま」と変じ「竹生島」になりました。 また、「竹生島」という漢字は、島の形が雅楽などで使われる楽器の笙(しょう)に似ていることからつけられたという説などがあります。
琵琶湖八景のひとつに数えられ、平家物語『竹生嶋詣』や謡曲「竹生島」にも神秘的な美しさを秘めた島として登場し、千年を経た今日でも、その姿は人々をひきつけてやみません。
(詳細・画像は下記のURLからご覧ください。)
ZIPANG-3 TOKIO 2020千年の時を経ても人々を惹きつける「琵琶湖八景 竹生島。神秘的な美しさを秘めた島として平家物語にも登場!(第一話)」
https://tokyo2020-3.themedia.jp/posts/6066317
水と芸能を司どる天女 弁才天信仰の聖地 竹生島・宝厳寺(2)
竹生島に上陸し、165段の石段を登ると見えてくる大きな建物が宝厳寺です。
宝厳寺のいわれ
すべては、天照皇大神のお告げから
竹生島宝厳寺は、神亀元年(724年)聖武天皇が、夢枕に立った天照皇大神より「江州の湖中に小島がある。その島は弁才天の聖地であるから、寺院を建立せよ。すれば、国家泰平、五穀豊穣、万民豊楽となるであろう」というお告げを受け、僧行基を勅使としてつかわし、堂塔を開基させたのが始まりです。
行基は、早速弁才天像(当山では大弁才天と呼ぶ)をご本尊として本堂に安置。翌年には観音堂建立を発案しました。後年、その遺志を継いだ浅井の大領が千手千眼観世音菩薩像を安置しました。
それ以来、天皇のご行幸が続き、また伝教大師、弘法大師なども来島、修業されたと伝えられています。
(詳細・画像は下記のURLからご覧ください。)
ZIPANG-3 TOKIO 2020 聖武天皇への天照皇大神のお告げ「江州の湖中にある小島は、弁才天の聖地である。寺院を建立せよ。国家泰平、五穀豊穣、万民豊楽となるであろう(第二話)」
https://tokyo2020-3.themedia.jp/posts/6072605
天女降り立つ浪漫の島 竹生島 宝厳寺(3)
宝厳寺探訪
竹生島宝厳寺には、国宝「唐門」や「法華経序品(じょほん)」※、
重要文化財である「観音堂」「石造五重塔」など、見どころがたくさんあります。
ここでは、その一部をご紹介いたします。
※「法華経序品」…現在は奈良国立博物館に寄託
唐門(国宝)
『唐門』とは、唐破風をもつ門という意味です。
この『唐門』は、秀吉を祀った京都東山の豊国廟に建っていた『極楽門』を豊臣秀頼の命により片桐且元を普請奉行として移築されたものです。
移築の際、土地の条件から観音堂に接して建てられています。桧皮葺、建物全体を総黒漆塗りとした上に金鍍金の飾金具が散りばめられ、虹梁中央の蟇股の周囲には鳳凰や松・兎・牡丹の彫刻を、二枚の大きな桟唐戸や壁には牡丹唐草の彫刻を極彩色塗りとして飾っています。豪華絢爛と言われた桃山様式の『唐門』の代表的遺構です。
文献としては、醍醐寺座主三宝院義演による日記『義演准后日記』に、大坂城の極楽橋が豊国神社に移築された旨の記述があり、また、豊国廟社僧の梵舜が『舜旧記』 にて、豊国極楽門を竹生島に寄進したとの記述を残しています。この二つの文献の記述により、大坂城の極楽橋が竹生島宝厳寺に移築されたことは間違いないでしょう。
さらに平成18年、オーストリアにあるエッゲンベルグ城にて『大坂城図屏風』が発見されました。その絵中には『極楽門』の前身であったと伝えられている大坂城の本丸北方に架けられていた『極楽橋』の姿が描かれており、その絵図から判断して、『唐門』こそが、秀吉が建てた幻の大坂城の唯一の遺構であろうと昨今注目を集めています。
独り言
三種の神器の内、剣と勾玉を携えられて
東京駅を出発される天皇・皇后両陛下
黒田清子祭主 伊勢神宮にて
明日は、天皇・皇后両陛下として、最後の伊勢神宮への御行幸啓です。
現在伊勢神宮の祭主(伊勢神宮にのみ設けられているお役職)は、天皇家のご長女の黒田清子様なので、今夜はきっと私どもと同じように、親子水入らずで楽しいひと時をお過ごしになられているのでしょうね……
小生は明日朝一番で伊勢神宮へ一っ飛びです。
本日の名古屋は涙雨でしたが、きっと明日は晴れるに違いない・・・
神宮庁で提灯を千個用意されたそうですが、内宮に続く提灯行列が凄かったですね…
(詳細・画像は下記のURLからご覧ください。)
ZIPANG-3 TOKIO 2020「天女降り立つ浪漫の島 竹生島 宝厳寺(第三話)」
https://tokyo2020-3.themedia.jp/posts/6078671
住職語り 『面白の島の四方山話』(4)
女性たちの島
弁才天坐像
浅井姫命の話
滋賀県の『近江国風土記』の中に「山の背比べ」という近江の昔話があります。夷服(伊吹)の山と浅井岳が背比べをしました。そこで負けた夷服山の神が怒って浅井岳の首を切り落としました。それが琵琶湖に落ちて竹生島になったというお話です。
浅井岳の神様というのは浅井の氏神の姫のことをいいます。 首がなぜ島になるという伝説となったのか?それは浅井の人たちが自分たちの信仰を島に残したかったからです。
浅井姫と深く関わる浅井の地の人々は、信仰の対象として女性の仏様を必要としました。その仏様が弁天様だったのです。
ここで多くの人が疑問に思う「弁天様は七福神での紅一点の神では?」。まさに、宝船の絵が頭に浮かびますが、実は弁天様は『金光明最勝王経(こんこうみょうさいしょうおうきょう)』という仏教経典に説かれた仏様なのです。
ですから弁天様はこの浅井の地に信仰の対象として根付くことになり、竹生島は日本で最初に弁才天信仰が根付いた島となりました。
(詳細・画像は下記のURLからご覧ください。)
ZIPANG-3 TOKIO 2020 住職語り『面白の島の四方山話』(第四話)
https://tokyo2020-3.themedia.jp/posts/6086483
~弁才天の聖地 琵琶湖~『竹生島 宝厳寺』(5)
竹生島宝厳寺 観音様
極楽橋の竹生島移築の謎!
宣教師ルイス・フロイスも絶賛!
大阪城の極楽橋の、ここ宝厳寺への移築に貢献したのが寧々だったのではないかというお話をしましたが、その極楽橋は1596年(慶長元年)に秀吉が架けた、大阪城北の丸と二の丸を繋ぐ橋だとされています。当時日本にいた宣教師ルイス・フロイスは絶賛して、「木造で総漆、金箔や宝石を散りばめ、彫刻で絵を描いた極彩色の50mほどの橋で、小櫓が太陽の光を浴びると素晴らしい輝きを放つ」と記録に残しているそうです。
その橋ができてすぐに秀吉が亡くなり(1598年/慶長3年)、1600年(慶長5年)に橋を崩して京都東山の豊国廟に移築されたことは醍醐寺座主三宝院義演による日記『義演准后日記』に記述が残っています。その後、1602年(慶長7年)に竹生島に移築したと豊国廟社僧の梵舜(ぼんしゅん)が『舜旧記』に書いています。
宝厳寺唐門は極楽橋の入り口部分だとされる
オーストリアの世界遺産・エッゲンベルク城で確認!
極楽橋と唐門とを結びつけたのは、2006年、オーストリアの世界遺産・エッゲンベルク城で確認された豊臣期大坂図屏風です。関西大学名誉教授 高橋隆博先生、大阪城天守閣館長 北川央氏らの調査で、極楽橋の正面の姿が竹生島・宝厳寺にある唐破風(からはふ)様式の唐門と酷似することがわかりました。唐門に残る牡丹唐草の彫刻の特徴も一致。
これだけ豪華で大きな門ができるのは秀吉ぐらいしかいなかったのではないか、と言われています。大坂夏の陣で落城後、徳川幕府が徹底的に壊して埋め、新しい大坂城を築いたことからも、家康は極楽橋という秀吉の栄華の象徴が目障りで、ゆかりの竹生島へ移築したのではないかとも言われています。
(詳細・画像は下記のURLからご覧ください。)
ZIPANG-3 TOKIO 2020 「 ~弁才天の聖地 琵琶湖~ 『竹生島 宝厳寺』(第五話)」
https://tokyo2020-3.themedia.jp/posts/6091406
【日本遺産】湖北・菅浦の湖岸集落
菅浦の湖岸集落景観 なんとな!春には尾根づたいの桜の見事な事・・・
7月1日は『琵琶湖の日』
7月1日は滋賀県が定めた記念日「びわ湖の日」。
滋賀県は、1996年(平成8年)7月に施行された滋賀県環境基本条例で、県民および事業者の間に広く環境の保全についての理解と認識を深めるとともに、環境の保全に関する活動への参加意欲を高めるために7月1日を「びわ湖の日」と定めたのでした。
菅浦は,琵琶湖最北部の急峻な沈降(ちんこう)地形に営まれた集落であります。鎌倉時代から江戸時代にかけての集落の動向を記した『菅浦(すがうら)文書(もんじょ)』によると,永仁3年(1295),菅浦は集落北西に所在する日指(ひさし)・諸河(もろこ)の棚田(たなだ)を,隣接する集落である大浦(おおうら)と争い,以降150年余りにわたって係争が続いたことが知られています。
また,14世紀半ばには住民の自治的・地縁的結合に基づく共同組織である「惣(そう)」が,菅浦において既に作り上げられていたことが分かります。中世以来の自治意識及び自治組織は,時代に応じて緩やかに変化しながら,現在まで継承されているのです。
菅浦の居住地は,西村及び東村に大きく二分され,それぞれ西の四足門(しそくもん)及び東の四足門で集落の境界を表しています。また,湖から集落背後の山林にかけて連続する地形の中で明確な集落構造が認められます。
特にハマと呼ぶ湖岸の空間は,平地が狭小な菅浦において極めて有用であり,生産の場・作業場・湖上と陸上との結節点といった多様な用途が重層しているのです。
このように,菅浦の湖岸集落景観は,奥琵琶湖の急峻な地形における生活・生業によって形成された独特の集落構造を示す景観地であります。
中世の「惣」に遡る強固な共同体によって維持されてきた文化的景観で,『菅浦文書』等により集落構造及び共同体の在り方を歴史的に示すことができる希有な事例といえます。
(詳細・画像は下記のURLからご覧ください。)
ZIPANG-3 TOKIO 2020「【日本遺産】湖北・菅浦の湖岸集落」
https://tokyo2020-3.themedia.jp/posts/6097082
北國街道
四季折々の美しい自然に彩られ
心安らぐ観音の里
べんがら格子は磨けば磨くほど艶が出る。重厚な一文字瓦と漆喰の白壁に良く似合う・・・
その1『北国街道 木之本宿』
地蔵院の門前町として栄え、北国街道と北国脇往還が交わる宿場町で、旅人と木之本のお地蔵さんの参拝客で賑わいました。
木之本宿には昭和の初めまで中央に小川が流れ、柳の木が植えられた宿場らしい風情を残していましたが、今では埋め立てられ、商家の家並みに昔の情景を残しています。
所在地 長浜市木之本町木之本
アクセス
[公共交通]JR木ノ本駅より徒歩にて5分
[自動車]北陸自動車道木之本ICより7分
[駐車場]観光駐車場及び木ノ本駅駐車場
お問い合わせ先 (公)長浜観光協会 北部事務所TEL 0749-82-5909
賤ヶ岳と余呉湖一帯は本能寺の変による信長の亡き後、羽柴秀吉と柴田勝家が覇権を争った 賤ヶ岳の合戦場であり、周囲の山々には、今も砦跡などが残っています。
高月・木之本は観音の里として知られ、戦国時代の数々の戦火を逃れ、 民衆の手によって守りぬかれてきた数多くの観音像が今も大切に残されています。 また北陸と中山道を結ぶ北国街道が走り、北国脇往還の分岐点の宿場として賑わった木之本宿は 当時の面影を色濃く残しています。
(詳細・画像は下記のURLからご覧ください。)
ZIPANG-3 TOKIO 2020「北国街道 木之本宿と奧琵琶湖 ~多賀大社へ」
https://tokyo2020-3.themedia.jp/posts/6100263
近江商人のふるさと
『三方よし』の理念とは
近江商人の店先です。浮世絵や時代劇でよく見かける風景ですね。当時はこんな風にして商いをしたのですね。
歴史民俗資料館(近江八幡市立資料館)は、JR近江八幡駅の北西約2kmに市立資料館と隣接しています。
歴史民俗資料館は、森五郎兵衞の控宅で、近江商人(八幡商人)の往時をしのぶ帳場風景や生活様式をそのまま残し、そのほか多くの民俗資料を展示公開しています。裏庭には、民具。農具などが展示され、水郷地帯の農村の生活を知ることができます。
初代五郎兵衞は、伴傳兵衞家に勤め、別家を許され、煙草や麻布を商いました。やがて、呉服・太物など取扱商品を増やし、江戸日本橋や大坂本町にも出店するなど活躍しました。
現在も、東京日本橋室町に近三商事株式会社として活躍中です。
近江商人に学ぶこと
天秤棒をかついだ一介の行商人から豪商へと成長していった近江商人たち。
近江商人は「朝は朝星 夜は夜星(あさはあさぼし よはよぼし)」朝は、昨夜の星がまだ空に残っている時分から宿を出発して、夜空に星が出るまで一生懸命に働いたのですね。
現代の若者との会話
エッ、天秤棒って知らない?ほら、子供の頃(と言われても時代が違う)、金魚売のおっちゃんが長い棒を肩に担いで前と後ろに椹(サワラ)の大きな桶に金魚を入れ「え~金魚ぇ~金魚」って、町や村を売り歩いていたでしょ⁉子供たちは皆で金魚売のおっちゃんの後ろにくっついて隣町まで行ったっけ!
見たことないって(そうか!今は熱帯魚や金魚、ペットだってインターネットで買えたんだ)・・・話がかみ合わないので先に進むけれど、精神だけでも分かって欲しいのにな~
近江商人たちに受け継がれてきた家訓や店則には永い商売の実践を通じて得た信念が盛り込まれています。「売り手よし」「買い手よし」「世間よし」の「三方よし」の理念には時代を越えた普遍性・有効性があり、近江商人の高い倫理性や社会貢献は、近年改めて注目されています。
近江商人の天性を一言で表わしているものに「しまつしてきばる」という言葉があります。倹約につとめて無駄をはぶき、普段の生活の支出をできるだけ抑え、勤勉に働いて収入の増加をはかるという、日常の心構えを表現しています。他にも、多くの示唆に富む味わい深い言葉がたくさん残されています。
時代や社会が変わっても、常に世間を重視する視点で商いを続けてきた近江商人の“哲学”や“商法”は、今日に脈々と息づいています。
三方よし
近江商人の行商は、他国で商売をし、やがて開店することが本務であり、旅先の人々の信頼を得ることが何より大切でした。そのための心得として説かれたのが、売り手よし、買い手よし、世間よしの「三方よし」です。
取引は、当事者だけでなく、世間の為にもなるものでなければならないことを強調した「三方よし」の原典は、中村治兵衛宗岸の書置です。近江商人は遠く他国へ旅をして商売をしましたが、その土地で排斥されずに受け入れられ、むしろ歓迎されました。
しまつしてきばる
これは近江商人に共通な日常の心構えです。倹約につとめて無駄をはぶき、普段の生活の支出をできるだけ抑え、勤勉に働いて収入の増加をはかる生活を表現しています。
「しまつ」は、単なる節約ではなく、モノの効用を使い切ることが真にモノを生かすことになるのだということであり、「きばる」は、近江地方では「おきばりやす」という挨拶につかわれているくらい日頃から親しまれた言葉です。近江商人の天性を一言で表現しています。
正直・信用
今昔にかかわらず、商人にとって何よりも大切なものは信用です。信用のもととなるのは正直です。
外村与左衛門家の「心得書」でも、正直は人の道であり、若い時に早くこのことをわきまえた者が、人の道にかなって立身できると説いています。正直は、行商から出店開設へと長い年月をかけて地元に根づいて暖簾の信用を築き、店内においては相互の信頼と和合をはかるための基でした。
陰徳善事
人に知られないように善行を施すことです。陰徳はやがては世間に知られ、陽徳に転じるのですが、近江商人は社会貢献の一環として、治山治水、道路改修、貧民救済、寺社や学校教育への寄付を盛んに行いました。
文化12(1818)年、中井正治右衛門は瀬田の唐橋の一手架け替えを完成しました。一千両を要した工事の指揮監督に自らあたり、後の架け替え費用を利殖するために二千両を幕府に寄付しました。
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