~まちの魅力がたくさん詰まった1冊が完成~
国指定史跡 草津宿本陣 内部 上段の間 御簾を上げると右側には鞘の間がある。
江戸時代、宿場町に置かれ、大名や公家などが休泊した「本陣」。史跡草津宿本陣は、建物が現存するうちでは全国でも最大級であり、多くの利用客たちを迎えた当時の姿をそのままにとどめています。ぜひ、江戸時代の空気を感じてみてください。
唯一無二 東海道と中山道との分岐点
東海道と中山道との分岐点に立つ追分道標
追分道標
京都・大阪・尾張(おわり)・美濃(みの)などの定(じょう)飛脚問屋や、播州(ばんしゅう)・備前(びぜん)・江戸の日雇方など、この街道を常に往来する人々の寄進によって建てられたと伝えられています。くっきりと「右東海道いせみち」「左中仙道みのぢ」と刻まれ、高さは392.2cm 草津宿本陣とともに、往時のノスタルジックな面影をとどめています。
武士のやばせの船は早くとも 急がば回れ瀬田の長橋
旅人を矢橋の渡しに導く矢倉道標
矢倉道標
矢橋港から大津・石場に至る、楽で早いが時に危険を伴う船旅。それに対して、瀬田の唐橋(長橋)を渡って粟津に至る、回り道だが着実で安全な歩行旅。
この2つのルートの分岐点に矢倉道標がありました。
(「急がば回れ」の語源)
「武士のやばせの船は早くとも 急がば回れ瀬田の長橋」
の歌が語源とされています。
詠み人については、平安時代の歌人、源俊頼や、室町時代の連歌師宗長という説があります。
草津市市制施行70周年記念誌
表紙イラスト説明
草津市にゆかりのある特産や魅力を模様でつむぎ、市の形を表しています。
滋賀県草津市では、市制施行70周年記念事業の一つとして、草津市市制施行70周年記念誌を発行しました。記念誌は、70周年の節目に「住みよいまち」をさらに発展させ、次世代に継承していけるように、市の取組や名所、特産などを掲載し、市民の方が草津市の魅力を再確認することで、より草津市への親しみや愛着を感じていただけるよう、発行するものです。
【概要】
各々、70周年、30周年の節目を迎える、草津市の橋川市長、学校法人立命館の仲谷総長、JR西日本の財京滋支社長の記念鼎談「草津の未来へ向けて」や、草津市が進める協働のまちづくりを紹介しているほか、毎年草津市でイナズマロックフェスを開催していただいている西川貴教氏、草津市にゆかりのある各界の著名人で構成されたPR集団「KUSATSU BOOSTERS(くさつブースターズ)」からのお祝いコメントも多数掲載しています。草津市の魅力がたくさん詰まった1冊を、ぜひご覧ください。
◆草津市市制施行70周年記念誌 本編(A4版・59ページ)
(掲載内容)
市長挨拶/記念鼎談「草津の未来へ向けて」/健幸都市くさつ/草津市が進める協働のまちづくり/草津のサンヤレ踊り/国指定史跡/草津川跡地公園de愛ひろば/草津を見る・遊ぶ・体験する!/草津ブランド認証商品/KUSATSU BOOSTERS/写すんですくさつ(草津の四季)/市民参加特別企画/草津ってこんなまち!/年表で見る 草津市70年のあゆみ 他
◆草津市市制施行70周年記念誌 概要版(A4版・8ページ)
【販売・閲覧について】
(販売について)
草津市広報課(市役所3階)や草津宿街道交流館で「草津市市制施行70周年記念誌 本編」を販売します。
「草津市市制施行70周年記念誌 本編」(1冊/税込 500円)※在庫がなくなり次第終了
(閲覧について)
草津市市制施行70周年記念誌、本編および概要版は、市ホームページでも順次公開するほか、図書館や情報公開室(市役所2階)などで閲覧できます。
【滋賀県草津市について】
草津市の位置
日本最大の湖、琵琶湖に面する草津市は、滋賀県の南部に位置し、かつては、東海道五十三次のうち、江戸から数えて52番目の、東海道と中山道が分岐・合流する宿場町として栄えました。市内には、国指定史跡草津宿本陣など、多くの歴史遺産があります。
現在も、京阪神大都市圏近郊という恵まれた立地条件に加え、大学や各種産業の集積によって若い活力に満ちたまちとして発展しています。
<主な観光名所>
【国指定史跡草津宿本陣(草津市草津一)】
【国指定史跡 草津宿本陣】
国指定史跡 草津宿本陣
国指定史跡 草津宿本陣 外観
国指定史跡 草津宿本陣 大広間
草津宿本陣立体図(楽座館)
江戸時代、草津宿は東海道五十三次のうち、江戸から数えて52番目の、東海道と中山道が分岐・合流する宿場町として栄えました。
宿場町に置かれ、大名や公家などが休泊した施設を「本陣」といい、かつて草津宿に2軒あったうちの一つ、「田中七左衛門本陣」が現存しています。
建物が現存する本陣の中では、全国でも最大級の規模であり、当時の面影をとどめています。昭和24年(1949)年に国の史跡「草津宿本陣」に指定されました。
※令和7年3月末まで休館中
(所蔵品)
・関札
草津宿本陣の正面玄関で目を引く「関札」は、休泊者の氏名官職を筆太に書き、
本陣の表門脇などに掲示されていたもので、休泊者が持参し、休泊時の標識として用いられました。
・大福帳
本陣には大名や公家など、限られた人たちが宿泊しました。草津宿本陣に残されている、
宿帳(利用者名簿)にあたる「大福帳」には、忠臣蔵で有名な吉良上野介や浅野内匠頭、
新選組の土方歳三や斎藤一ら一行が、利用したことなども記されています。
・忘れ物(煙管入れ)
新選組の「煙管きせる入れ」
木製の煙管きせる入れと、布製の袋です。煙管自体は残っていませんでした。
紙の札には、「新選組様 五月九日御泊 壱番間ニ御失念物(新選組様、五月九日にお泊まり。"壱番間"にあったお忘れ物)」と書かれています。
令和元(2019)年に、新選組幹部のものと思われる失念物(忘れ物)の煙管入れが発見されました。新選組の利用については、休憩か宿泊か謎を残していましたが、この発見により、長い時を経て、宿泊であったという事実が確認されました。
【国指定史跡 芦浦観音寺跡】
芦浦観音寺参道から表門を望む
芦浦観音寺 重要文化財 観音寺阿弥陀堂
観音寺の概要
当寺は天台宗「大慈山観音寺」と称し、通称「芦浦観音寺」で親しまれ、本尊は十一面観世音菩薩で秘仏となっている。寺歴は古く、「大安寺三綱記」によると、飛鳥・奈良時代は三論宗であった。その後の中古の歴史は明らかではない。
1408年に京都普勧寺の僧歓雅の入寺により中興し、現在の城郭形式の表門はこの頃以降に出来たものと思われる。当寺が歴史上、特に重要な役割を果たすようになったのは中興より数えて七代目住職の慶順が織田信長から琵琶湖の水運権を任せられるようになってからである。湖上管船奉行として、現在の大津市観音寺町に代官所を置き政務をとった。政務に参与したのは、7世慶順から13世朝舜までの7代、111年間にわたる。
特に8世賢珍、9世詮舜は豊臣秀吉からの信任厚く、秀吉朱印状「江州湖上往還之船定条々」の交付を受けて琵琶湖全体の船の管理を任された。また詮舜は信長による元亀の法難(1571年)後、比叡山の復興に尽力し、その功績が延暦寺瑠璃堂前の石碑文(舜公銘碑)に刻まれている。
朝鮮出兵(文禄・慶長の役)には九州の名護屋(佐賀県)に下り、側近の用を務め、当時を表す「肥前名護屋城諸侯陣跡之図」には芦浦観音寺の陣屋も描かれている。また伏見城の作事奉行として竹木等の調達にもあたった。
関ヶ原の合戦後、徳川時代になっても10世朝賢は湖水奉行職を勤め、永原御殿(野洲市永原)の作事奉行をはじめ諸処の普請奉行も拝した。貞享2年(1685)13世朝舜の時に、徳川政権の幕藩体制変革の中で、その諸奉行としての職務を召し上げられ表舞台から姿を消すこととなった。
石垣に囲まれた表門と内堀、重要文化財に指定されている阿弥陀堂と書院が、今も往時の面影を残している。現在の本堂は平成24年に再建されたものである。
「近江の正倉院」と称される当寺の仏像・仏画・工芸品は管理上の都合から外部機関に寄託しており、拝観することは出来ない。
【芦浦観音寺の名に由来する地名、また古書籍に残された物】
【観音寺町】:観音寺代官所のあったところが大津市観音寺町として残っている。
【観音坂】:東京都千代田区にある坂に「観音坂」の名前が残っている。これは江戸に芦浦観音寺屋敷があった由来である。元禄の江戸古地図にも芦浦観音寺屋敷が描かれている。「新編江戸史」(寛政年間1789-1801)にも掲載されている。
【観音寺椿】:江戸前期に作成された「百椿集」(寛永7(1630)年)に観音寺椿の記述があり「赤色の五弁の中に白色の蘂がある」とある。古典椿の「朴伴」であると思われるが、当時の椿は現存しておらず、境内の「朴伴」は平成22年に植栽されたものである。「椿花図譜」(元禄13年発行【推定】)にも観音寺椿が記載されている。
【観音寺納豆】:正保2年(1645)松(まつ)江(え)重(しげ)賴(より)(号:維舟)著の「毛吹草(けふきぐさ)」、延保5年(1677)高(たか)瀬(のせ)梅(ばい)盛(せい)(号:佗心子(たしんし))著の「類船集」、元禄2年(1689)原田蔵六著の「淡海録」、文化3年(1806)田(た)宮(みや)仲(ちゆう)宣(せん)著の「鳴呼矣草(おこたりぐさ)」などに「観音寺納豆」が出てくる。これらはいずれも糸引き納豆のことであるが、当寺に伝わる古文書には、「唐納豆」「納豆」「干納豆」の3種類の記述があり、糸引き納豆以外もあったようだ。
平成30年に日本遺産~琵琶湖とその水辺景観 祈りと暮らしの水遺産ーに認定されました。
<重文>阿弥陀堂 書院 木造阿弥陀如来立像 木造地蔵菩薩立像 絹本著色黄不動尊像 絹本著色薬師三尊像 絹本著色十六羅漢図(2幅) 絹本著色五大尊像(4幅)
絹本著色聖徳太子像
※日本遺産「琵琶湖とその水辺景観-祈りと暮らしの水遺産」に「芦浦観音寺」として認定されています。
本寺の拝観は5名様以上の予約制となっておりますのでご注意ください。
年2回の一般公開についてはご予約なしで拝観できます。
連絡先 〒525-0002 滋賀県草津市芦浦町363-1
観音寺 電話:077-568-0548
【草津市立水生植物公園みずの森(草津市下物町)】
草津市立水生植物公園みずの森
多くの水生植物の宝庫である琵琶湖のほとり、草津市・烏丸半島に位置する草津市立水生植物公園みずの森は「植物と人、水と人のふれあい」をテーマにしています。四季折々の草花や水生植物を楽しむことができます。
【草津川跡地公園de愛ひろば(草津市大路二)】
草津川跡地公園de愛ひろば
JR草津駅にほど近いde愛ひろば。人と人との交流でにぎわう広場や、季節の花が咲くガーデンエリア、商業施設「KUSATSU COCORIVA(クサツココリバ)」など人々が集い、楽しめる公園です。
草津市 関連情報
国指定文化財(重要無形民俗文化財)
近江湖南のサンヤレ踊り
草津市 近江湖南のサンヤレ踊り
サンヤレ踊りは、独特の囃子詞(はやしことば)を伴う踊りであり、美しく装った子供たちが、太鼓や鞨鼓(かっこ)、ササラなどの楽器で単純なリズムを奏しながら簡単な所作で踊り、笹や榊、扇子などの採物を持った者がこれを取り囲んで「サンヤレ サンヤレ」と囃し歌う。踊りの一行は、行列の形式をとって踊り、かつ隊列をなして地区内を巡行しつつ踊る。
サンヤレ踊りが分布するのは、滋賀県の南部に位置する草津市の矢倉(やぐら)、下笠(しもがさ)、片岡(かたおか)、長束(なつか)、志那(しな)、吉田(よしだ)、志那中(しななか)および栗東市の下戸山(しもとやま)である。災いを祓うとともに五穀豊穣の願いをこめて、各地の神社祭礼で踊られており、草津市の各地区は五月三日、栗東市の下戸山では五月五日に行われている。
矢倉地区は隔年で、長束地区は三年に一度である。栗東市下戸山の小槻(おつき)神社大祭での踊りは、「サンヤレ」の囃子詞を伝えていないが、楽器編成や、囃し手の存在、踊り振りなどの点から草津市のサンヤレ踊りと同系統の芸能である。
草津の地は古代に近江国府のあった現在の大津市に隣接し、畿内から東国に向かう時は、多くの場合、この地を経由した。草津の地名は十三世紀末の記録にみえ、草の津、すなわち陸の物資集積の地であったことがうかがい知れる。近世には江戸から京へ向かう東海道と中山道が合流する宿場として栄え、盛んに文物の往来があった東西交通の要衝の地であった。
本件は、「サンヤレ」という囃子詞に特色のある芸能である。貞享二年(一六八五)に刊行された『日次紀事』(ひなみきじ)によれば、近世京都近郊の村落での行事にサンヤレの囃子詞があった。また、サンヤレという語は、十八世紀初頭に刊行された『松の葉』など、当時の上方や江戸で流行した歌謡の歌詞集にみられることから、広い範囲で流行した囃子詞であったと考えられる。
本件に関する記録としては、志那中地区の明和七年(一七七〇)「御神事格鋪帳」、下笠地区の天明二年(一七八二)「祭礼踊之一義覚」などがある。そのほか、下笠地区に貞享五年三月や享保六年(一七二一)三月の年紀がみえる踊り衣裳が、吉田地区の元禄十七年(一七〇四)四月五日の銘文のある鞨鼓、矢倉地区の正徳三年(一七一三)四月吉日と銘文のある陣羽織などが伝えられている。
これらのことから、この地のサンヤレ踊りの始まりは定かではないが、京都で十七世紀後半に流行していた芸能がほどなく流入し、近世農村の祭礼芸能として伝承されてきたと想定される。
各地区のサンヤレ踊りの姿は一様ではないが、独特の囃子詞を有する以外にも共通の内容を持つ。
踊りの諸役について矢倉地区と下笠地区を例にみていくと、矢倉地区は、稚児(一)、太鼓打ち(一)、太鼓受け(一)、摺鉦(すりがね)(二)、ケケチと呼ぶ鉦鼓(しょうこ)(二)、カンコと呼ぶ鞨鼓(二)、ササラ(二)、音頭取り(二)、踊り役の頭(二)、踊り役の次頭(二)、踊り子(一二)で構成され、稚児は幼児男子、太鼓打ち、鉦鼓、鞨鼓、ササラは小学生男女の役であり、そのほかは成人男子が務める構成となっている。
また下笠地区では、鼓(一)、棒振り(一)、ショウモンと呼ぶ鉦鼓(一)、ササラ(二)、スッコと呼ぶ鞨鼓(二)、摺鉦(二)、笛(四)、太鼓打ち(二)、太鼓受け(一)、音頭取り(三)の構成で、このうち棒振り、鉦鼓、ササラ、鞨鼓、太鼓打ちは男児が務め、他は成人男子の役となっている。
このようにサンヤレ踊りでは、子供たちが太鼓、鉦鼓、鞨鼓、ササラなどの打楽器を務めている。各地区とも、子供たちは花笠を被り、模様染の浴衣や長着を着た上に、色鮮やかな帯を結んで腰に垂らしたり、襷を掛けて背中に垂らすなど、華やかに趣向を凝らした装いである。
また、踊りの一行が、行列の形式をとって踊り、かつ隊列をなして地区内を巡行して歩くことも共通する。
矢倉地区では稚児を先頭に、次に楽器群、さらに成人男子による踊り子の順で二列縦隊を成し、特定の家々、御旅所(おたびしょ)、地区内の神社等へと移動しつつ、二列縦隊の形式で決められた場所で踊る。
下笠地区も同様で、鼓を先頭に二列縦隊で進み、宿である地区の会館を出発し、神社や御旅所を廻って再び宿に戻る途次、神社境内に祀られる各社に対して踊るほか、所定の場所で踊りを繰り返す。
踊りは、太鼓や鞨鼓、ササラなどの楽器による単純なリズムにあわせ、跳躍や回転など簡単な所作で踊るものである。矢倉地区では、子供たちによる楽器がリズムを主導し、子供たちは楽器を奏しながら飛び跳ねたり、位置を変えたりして踊る。
加えて、手に扇と榊の枝を持った成人男子による踊り子が「サンヤレ サンヤレ」と囃しながら、左右の膝を交互に高くあげて踏み替え、次にその場で右に一回転する。
下笠地区の踊りは、「練り込み」と「踊り」で成り立っている。「練り込み」は踊りの場へ練り込む時の踊りで、鼓が先頭となり上半身を前後させながら足を踏み変えて進みつつ踊る。この時、鞨鼓は腰を落として、足を後ろに蹴り上げる要領で歩を進め、同時に両手で鞨鼓を前に運ぶ所作を繰り返す。
「踊り」では、最初に鼓が打たれた後、鉦鼓、笛、太鼓、ササラ、鞨鼓が合奏を始める。全体にコの字型の隊形をとり、中央で太鼓打ちが、太鼓持ちの差し出す太鼓を打つ形で踊る。
音頭取りも打楽器のリズムに合わせて左右に体の向きを変えながら踊り、歌う。この時、手に笹を持った人々が踊りの一行を取り囲み、音頭取りの歌う一節ごとに掛け合いの形で「サンヤレ サンヤレ」と囃していく。歌は短い詞章の繰り返しであり、手拍子に乗るようなリズミカルな歌い方で歌われる。
本件は、独特の囃子詞を伴う踊りで、芸能の構成内容から中世後期にみられる祭礼芸能の姿を今にうかがわせる貴重な伝承である。この祭礼芸能は、疫神祓い(えきじんばらい)の性格を持つものであったが、本件は近世農村の祭礼芸能として定着し伝承されるなかで、災いを祓うとともに五穀豊穣の願いを込めて行われるようになったものである。
(出典:文化庁 文化遺産オンライン)
昭和の想い出
草津には、昭和40年代度々訪れた。膳所で知り合った「通称:熊さん」草津出身で兄貴が
大工の棟梁、建築のことなら何でも聞いたらええよと言って案内してくれたのだった。
近江大橋を渡ればもうそこは草津。いつものように今日も近江大橋を渡るとばかり思っていると、いきなり「常々あんさんが自慢してはる愛知・三英傑(信長、秀吉、家康)かて
草津を通らんかったら誰も、瀬田の唐橋を取れへんかったんよ。ようみときや!」東海道へ
「それほんとうキャア、おみゃあさん嘘つきゃあすなよ」と言って調べると・・・
そうか~古来から『瀬田の唐橋を制する者は天下を制す』か、なるほどと感心❣
そんなお国自慢が懐かしく感じる今日この頃…
酒好きで、何時も二日酔いのようだった、前川清似の熊さん…
あんまり酒のみゃあすなよ、いつまでも元気にしとってチョウよ・・・えか❣
ほんでも、久し振りにおみゃあさんのこと思い出したでなも、
草津のサンヤレ踊りに一杯やろみゃあか…得意の江州音頭聴かせてチョウでゃあませ…😇
鎹八咫烏 記
石川県 いしかわ観光特使
伊勢「斎宮」明和町観光大使
協力(順不同・敬称略)
草津市役所
〒525-8588 滋賀県草津市草津三丁目13番30号 電話:077-563-1234
観音寺
〒525-0002 滋賀県草津市芦浦町363-1 電話:077-568-0548
文化庁
〒602-8959 京都府京都市上京区下長者町通新町西入藪之内町85番4 電話: 075-451-4111
紅山子(こうざんし)
※画像並びに図表等は著作権の問題から、ダウンロード等は必ず許可を必要と致します。
アーカイブ リンク記事をご覧ください。
あなたが、まだ出会ったことのない飛騨国府(こくふ)へ
今を去ること千数百年前、
飛騨国府は斐陀国の中心地「国府」として栄えました。飛騨地域に息づく様々な伝統文化や民族は、この地が発祥とも言われています。
高山市国府町「亀塚古墳」取り壊しの様子
亀塚古墳
明治28年4月、国府尋常高等小学校を建てるため、亀塚古墳が一部取り壊されることになり、初めての発掘がおこなわれました。その結果、西側の石室から 鉄(てつ)鎧(よろい)・鉄兜(てつかぶと)各1、鉄剣、鉄刀各数本、鉄(てつ)鏃(ぞく)およそ50本、北側の石室から 鉾(ほこ)1本、鉄刀1本出土しました。大正7年、運動場拡張工事のため、すべて取り壊されました。
ZIPANG-7 TOKIO 2020 あなたが、まだ出会ったことのない飛騨国府(こくふ)へ【高山市】(その1)
https://tokyo2020-7.themedia.jp/posts/47933871
ZIPANG-7 TOKIO 2020 ~国府地域~飛騨高山で100年以上前から作られてきた伝統野菜「国府なす」が、岐阜県「飛騨・美濃伝統野菜」に認証&国府むかし話【高山市】(その2)
https://tokyo2020-7.themedia.jp/posts/48033491
高山市街地と乗鞍 中央左に存在感のある伝統とモダンを融合した「温故知新」を思わせる市庁舎(日建設計)を遠望…
飛騨とは
「飛騨」地方は岐阜県北部地方のことを指し飛騨市(古川・神岡…)、下呂市(馬瀬・金山…)、高山市(国府・荘川・奥飛騨温泉郷…)、白川村等を含む地域一帯のことです。
地理的には、飛騨山脈の西側に、険しい山々に取り囲まれた巨大盆地に夫々特色ある自治体が点在する状況を総称。
当地域は森林(山地)の占める面積が大きく、冬には雪が多い日本海側型の気候となります。
歴史的には『続日本紀』や『万葉集』にも「斐太」や「斐陀」等の記載があり古くから木工が盛んで「飛騨工」は名高い。
日本の原風景を残す街と言われる「飛騨高山」や、世界遺産の「白川郷の合掌造り集落」、 日本三名泉の下呂温泉、起し太鼓や三寺まいりで有名な飛騨古川が含まれており、現代では全国各地からの観光客は勿論、外国人が多く訪れる地方となっています。
高山の町
江戸時代の面影を残す古い町並や、国内に唯一現存する高山陣屋※など、市内には様々な歴史的建造物が残るほか、伝統文化が今に息づいています。
高山陣屋 国指定史跡
高山陣屋 御白洲
※高山陣屋(国指定史跡)
元は高山城主金森氏の下屋敷の一つでしたが、飛騨が徳川幕府の直轄地となってからは、江戸から来た代官や郡代が、ここで飛騨の政治を行いました。この役所は陣屋と呼ばれ、全国でも残っているのはここ高山だけです。
金森氏が上ノ山(山形県)へ移されてからは、徳川幕府の直轄地となり、江戸から代官や郡代がきて、ここに役所をおき飛騨の政治をとりました。 この役所を「高山陣屋」とよび、おふれを出したり年貢の取立てなどをしました。
直轄地時代は、明治まで25代177年間続きました。クレ葺屋根の門の扉に残るしみは梅村騒動で農民に殺された門番の血痕といわれています。
玄関を入った正面壁には、郡代の格式を示す(青海波)模様があります。内部には、御役所、御用場、大広間、役宅、吟味所、白州などのほか裏手には、高山城三の丸から移した御蔵(米藏)8戸前(藏は戸前とかぞえる)も昔のまま残されています。
かつて年貢米を保管した藏で天領時代の歴史を物語る資料が展示されています。大原騒動で打ち首となった本郷村(現在高山市上宝町)の農民善九郎が妻に送った遺言状の文面には胸をうたれます。
明治に入ってからは、県庁、郡役所、支庁、県事務所など代々、地方の役所として使われてきました。郡代役所の建物が残っているのは全国でも高山だけです。
所在地 高山市八軒町1-5 電話 0577-32-0643
飛騨の匠の技を感じる町歩きを楽しみながら、 歴史に思いを馳せ、飛騨の恵みを存分に味わい、 ゆったりと流れる高山時間を過ごしてみませんか・・・
以前、ご紹介した「高山祭屋台の総曳き揃え」リンク記事をご覧ください
(詳細は下記のURLよりご覧ください。)
ZIPANG-5 TOKIO 2020 ~飛騨は一つ~ 高山市・荘川・奥飛騨温泉郷編『日本の精神文化と国土の美しさについて再発見』(その1)
https://tokyo2020-5.themedia.jp/posts/10555563
三英傑 織田信長 豊臣秀吉 徳川家康が愛した戦国飯
三英傑 左から織田信長 豊臣秀吉 徳川家康 ⒸWikipedia
戦国武将が愛した「戦国飯」を再現
KITCHEN MANEは自然を尊ぶ日本古来の“食”の習わしを大切に、お客様とともに日本文化を紡ぎ、“食”を通じて社会課題の解決を目指すサステナブルレストランです。
今回焦点をあてるのは「戦国時代」。徳川家康、織田信長、豊臣秀吉、山内一豊が好んで食べたといわれる全7品を通して、当時の暮らしを想像しながら戦国の歴史と食を楽しむことが出来るコースをご用意。
(詳細は下記のURLよりご覧ください。)
ZIPANG-7 TOKIO 2020 食事はどうする家康?戦国武将 三英傑が愛した「戦国飯」を再現!【KITCHEN MANE】
https://tokyo2020-7.themedia.jp/posts/44436000
織田信長公にえらばれし町 近江八幡
文芸の郷(信長の館)安土城天主
城郭建築研究の第一人者、(故)内藤昌氏(当時名古屋工業大学及び東京工業大学教授兼任。1993年愛知産業大学学長歴任。名古屋工業大学名誉教授)セビリア万博展示の原寸大に復元された安土城天主は内藤案によるものである。
安土城跡
近江の守護佐々木六角氏の居城“観音寺”や織田信長公の最後の居城“安土城”など歴史的な舞台となったエリア。 ハイキングやサイクリングで、四季の彩りを感じつつ戦国武将ゆかりの社寺仏閣や足跡めぐりがおススメです。
(詳細は下記のURLよりご覧ください。)
ZIPANG-5 TOKIO 2020 ~ 織田信長公にえらばれし町 ~ 近江八幡市の見どころ(Ⅱ)
https://tokyo2020-5.themedia.jp/posts/16312538
秀吉は織田信長の一字をとり長浜とする
日本三大山車祭『長浜曳山まつり』
長浜曳山まつりは、長浜八幡宮の春の祭礼です。
その始まりは、羽柴(後の豊臣)秀吉が、今浜(今の長浜)に初めての城を構えたころまでさかのぼります。(秀吉は織田信長の一字をとり長浜とする)
長浜曳山まつりの一番の見所は子ども狂言(歌舞伎)です。 長浜の子ども狂言(歌舞伎)は、寛保2年(1742)の台本や、明和6年(1769)以降の外題記録などから、この頃から歌舞伎が行われていたことがわかっています。長浜の町衆は祭礼に出る曳山と当時流行っていた歌舞伎をつないでいち早く取り入れ、まちなかを巡行させて移動芝居の場に仕立て、今日あるような祭礼をつくりあげました。
長浜では歌舞伎のことを「狂言」または「芸」と呼び、曳山を持つ町(山組)の5歳から12歳くらいまでの男子によって演じられます。演目は曳山の四畳半舞台と子ども役者用にアレンジされます。また、毎年新しい演目で演じられ、長浜独自の外題(題名)がつけられます。上演時間は約40分で、本番の前に行われる線香番と呼ばれる公開稽古で時間が計られます。子どもたちの稽古は振付師の指導により、3月下旬(春休み)から4月の祭本日まで約3週間行われ、まず読み習いがあり、それに続いて立ち稽古を行い、最終的に三味線・太夫と合わせて本番を迎えます。
(詳細は下記のURLよりご覧ください。)
ZIPANG TOKIO 2020「無形文化の伝承こそ長浜市の誇り!ユネスコ無形文化遺産 日本三大山車祭『長浜曳山まつり』4月開幕!」
https://tokyo2020-summer.themedia.jp/posts/3782782
徳川家康公の遺言
「遺体は駿河国の久能山に葬り、江戸の増上寺で葬儀を行い、
三河国の大樹寺に位牌を納め、一周忌が過ぎて後、下野の日光山に小堂を建てて勧請せよ」
徳川家康公は、天文11年(1542年)12月26日三河国岡崎城(愛知県岡崎市)にお生まれになり、あらゆる艱難辛苦の末、戦乱の世に終止符を打ち、江戸時代260余年にわたる世界に其の比を見ない「泰平の世」の礎を築かれ、学問、産業、文化の基礎を確立し近世日本の発展に偉大な功績を残されました。
晩年は大御所として駿府城に在りましたが、元和2年(1616年)4月17日、波乱に満ちた75年の生涯を閉じられました。
0コメント